2010年7月19日月曜日

レスリー・キャロン 自伝 その19 「足ながおじさん 4  『手』」









 「朝10時頃、私はプチやバレエ団と一緒に、最後に踊るバレエの稽古をしていました。すると第一アシスタントが飛び込んで来たのです。

  『急いで下さい、キャロンさん。すぐにメイクアップ室へ行って下さい。実は、手押し車を使う シーンを一日かけて撮るはずだったんですが、アステアさんがワンテイクで完璧にこなして しまったものですから・・・・・。 一人で撮影できるシーンはもうないんです』

 『それじゃあ、私たちは何を撮ることになってるの?』

  『アステアさんはナイトクラブのシーンならできるって仰ってますけど』

 『でも私、そのシーンのリハーサルをしていないの。どんなナンバーか知らないのよ』

  『知らなくても大丈夫だそうです。アステアさんに付いていけばいいって仰ってます』


 そのシーンで私たちは、ナイトクラブをはしごしながら、それぞれのクラブで別々のダンスを踊ることになっていました。ボサノバからジルバ、そしてスウィングというように。セットは一本の長い廊下で、それぞれの場所に異なったスタイルの椅子やテーブルが置いてあります。

 実際に踊り始めてみて判ったのですが、私は本当にフレッドの動きのままに付いていけばよかったのです。まるで簡単にこなしているかのように、楽しく踊れたのです。彼の大きな手が私の背に添えられると、次はどうしたら良いかが判かるのです。彼はダンスのパートナーとして驚嘆すべき技術を持っていました」


 後年(たぶん1980年代の初め)、ある授賞式で再会した二人がテーブルの間で立ち話をしていると、お盆を手にしたウエイターに押され、レスリーはよろけて倒れそうになります。

 「その瞬間、フレッドの大きな手が私の背に伸び、体を支えてくれたのです。

 『まあー、フレッド・・・・・・』

 笑いながら私は言いました。

 『あなたの手は昔のままね』」



レスリー・キャロン 自伝 その18 「足ながおじさん 3」









時とともにアステアも元気をとりもどし、撮影も可能になっていきます。

  「いくつものナンバーを撮影していると、時にフレッドはダンスの楽しさで頭がいっぱいになってしまうことがあります。とくに大学のダンス会場で踊る ”スルーフット” のシーンがそうです。彼がとても楽しんでいるのがよくわかります。踊り続けながら、二人とも楽しくて仕方がありませんでした。私たち二人が味わったその楽しさは、スクリーン上に永遠に記録されているのです。」

 「 ”スルーフット”の衣裳は自分でデザインして良いことになっていました。するとフレッドはダチョウの羽は付けないように---とくに肩の辺りには---と頼んだのです。彼はまだジンジャー・ロジャースの羽のことを忘れていなかったのです。

 彼はリズムにことのほかうるさく、時にはすぐに音楽を止めさせるようなこともありました。フレッドがうるさいことを口にしたといえば、ジンジャーとリズムについてくらいだったでしょう。」


 「私たちは一度だけ『口げんか』をしたことがあります。よくできたと思われるでしょうが---ええ、したんです。あの偉大なフレッド・アステアが私の足を踏んだんです。一度だけ。それを彼は私が間違いを犯したように言って責めたのです。

 私はすぐに言い返しました。

 『いいえ、あなたよ、フレッド!  あなた が 私 の足を踏んだの!』

 彼はちょっと考えてから、不服そうに言いました。

 『ンーーーーー、 ごめん 』」


2010年7月15日木曜日

レスリー・キャロン 自伝 その17 「足ながおじさん 2」

 「そうは言っても彼は意外なほどおしゃべりで、たわいもない噂話が好きでした。撮影の合間もセットでフットボールや競馬の話を熱心にしていたものです。ビリヤードも大好きでしたが、当然のことながらとても上手でした。」

 「演出も好きなジーン・ケリーと対照的に、フレッドは心の底から踊ることだけが好きだったのです。コート掛けのある部屋に三十分ほど放っておけば、コート掛けとのナンバーを一曲振り付けていることでしょう。足さばきの軽さはネコのようで、息を切らすこともありませんでした。汗も滅多にかきません。完璧にこなすことは彼にとって楽しみの一つだったのです。」

 「そのリズム感は生まれついてのものとしか言えませんでした。以前、私は紳士用品店で、彼が店に入りカウンターに歩み寄ってくるところを見たことがあります。歩く姿は優雅で力みがなく、あえて言えば、自分自身の奏でる曲に合わせて軽快に歩いているようでした。」

 「彼の服装はエレガントでありながら気取りがありません。いつも薄い灰色のフラノのズボンにネクタイをベルト代わりに締め、青いオックスフォードのシャツに、革製のローファーを履いていました。」


 当時アステアの妻フィリスは癌に冒されており、リハーサル中にも彼の悲しむ姿が多く見られるようになります。

 葬儀の後二週間経ってアステアはリハーサルに復帰しますが、集中力を欠きイライラしているようでした。

 時にはタオルに顔を埋め泣き出すこともあります・・・・

 「リハーサル室は敬意のこもった沈黙に満たされていました---声高に話す者も、大声を出す者も、クスクス笑う者もいません。私たちには、彼への心遣いを示せるように振る舞うしかなかったのです。」


2010年7月14日水曜日

レスリー・キャロン 自伝 その16 「足ながおじさん 1」

 この調子ではいつになっても終わらないので、間を飛ばし、二十世紀フォックスに貸し出されての「足ながおじさん」(1955)。 アステアとの共演です、

 それ以前に、「リリー」(1953)のヒット、短期間のバレエ団への復帰などを経て、再びMGMで「ガラスの靴」(1955)を撮影することになります。

 当時バレエ団とともにアメリカに滞在していたプチは、団員への給料の支払いにも困り、彼女にバレエ団込みで出演できないかと頼みます。プロデューサーの了解が出て出演が決定。さらに続けて「足ながおじさん」にも、「あこがれのアステアのもとで彼女の振り付けをしたい」と頼み込んできます。

 プロデューサーのサム・エンジェルがお伺いを立てると、アステアは快諾。ここにプチやバレエ団との共演が実現するのです。


 1954年の夏。フォックスのリハーサル室で彼女は初めてアステアと顔を合わせます。当初緊張していたレスリーも気さくな彼の態度に次第に打ち解けていきます。

 「ミスター・アステアはユーモアのセンスがあるばかりでなく、生まれながらに特別なものを持っていました。こういう表現は使いたくありませんが、気品があるとしか言いようがないのです。悩みを抱えていても陽気にふるまい、世界最高のダンサーと周囲から見なされているにもかかわらず、素朴さと謙虚さを失いませんでした。」

 「バランスのとれた足さばきと同じように、あらゆることに中庸を心得ていました。大騒ぎや誇張、わざとらしさに押しつけがましさを嫌い、自分がほめられるのは恥ずかしがり、かわりにアシスタントが適切に評価されるよう、仕向けていました。」

 「スターの中にはマリオ・ランザのように夜中にプロデューサーに電話をかけ、うるさくて眠れないのでサンセット大通りの交通を遮断するよう要求する人もいました。でもアステアは常に分別をわきまえていたのです。」

2010年7月11日日曜日

レスリー・キャロン 自伝 その15 「巴里のアメリカ人 3」


 「必要なダンサーがすべて雇われると、リハーサルが始まります。舞踊指導のマイケル・パナイエフのもと、朝からレッスンが続きます。一つのシークエンスごと、初めは小グループで、上手くいけば全体で。」

 「ジーンはいつも参加するわけではありません。振り付けでとても忙しかったのです。セットの模型を使い、振り付けと巧く合うかを確認したり、ミネリと衣裳合わせに参加したりしていました。」

 「撮影日が近づくと関係者全員の前で私たちは最後のバレエを通しで踊りました。ミネリは、撮影監督のジョン・オルトンらとカメラアングルやレンズやクレーンについて打ち合わせ、音楽についてはジョニー・グリーン、ソール・チャップリン、アンドレ・プレヴィンらと話し合っていました。」         

 「先に録音された音楽に合わせて私たちは踊りました。ダンスナンバーは一度に一つずつ、ゆっくりと撮影されていきます。最後はガーシュウィンの交響詩『パリのアメリカ人』にのせ、十七分のバレエを撮影する作業が始まるのです。
 その間に作業場には巨大なセットが組まれて行きます。セットの一部分ずつが作業台の上に運ばれ、組み合わされて行くのです。飛行機を格納できるほどの大きな倉庫に、初めは背景描きの集団が、次には美術の人たちが集まって来ました。」

 「数ヶ月後、フィルムの編集が終わると ”スニーク・プレヴュー” です。当時はまだ路面電車がカルヴァーシティを通っていました。撮影所のお偉方から各部門の責任者や主演級の俳優が同乗した特別電車が1951321日、パサデナのクラウンシアターに向かいます。
 でも最初のプレヴュー はサウンドの問題のため、悲惨なものになりました。すぐに修復が行われ、二度目の プレヴューが別の会場で行われることになります。」

 「 プレヴューまでスタジオでは悲観的な噂が飛び交っていました。

 『映画の最後に十七分ものバレエなんて上手くいくはずがない』

 でも上手くいったのです。『素晴らしい』、『最高のミュージカル』と絶賛されたのです。バレエの終了時と上映後の二回、熱狂的な喝采が湧き起こります。私に対しても141名もの人がカードに『エクセレント』と高い評価をつけてくれました。」


 「二時間たって映画館を出ると、頭がボーっとしていました。ジーンに気分を聞かれた時、熱が出たせいでクラクラしているのだと思っていました。

 『私風邪をひいたみたい』

彼は笑って言いました、

 『ハニー、風邪なんかじゃないよ。生まれて初めて自分の姿をスクリーンで見たせいさ!』」


2010年7月9日金曜日

レスリー・キャロン 自伝 その14 「巴里のアメリカ人 2」

 レスリーの演技指導をしたのは、監督のミネリではなくジーン・ケリーでした。彼女は「ケリーの『弟子』」と断言します。

 「まだ言葉で自分自身を表現することも、まして英語でそうすることにも慣れていませんでした。そんな私をジーンはカメラの前で辛抱強く、ユーモアを交えて指導してくれました----私のことを愛情をこめて”レスター”と呼びながら。

 『レスター、このシーンをおばあちゃんに見てもらいたかったら、セリフを言うときはカメラの方を向いた方が良いよ』


 河岸のシーンで、すでに階段を駆け上がっているジーンに向かって言ったセリフは今でも良く覚えています。

 『ジェリー! 今さら言ってもしかたがないけど・・・・・愛してるわ! 』

 皆に笑われはしないかと心配で、化粧の下の顔は真っ赤になり、汗が急に吹き出してきました。」


 「カメラは私にとって冷酷で、恐ろしい存在でした。舞台の暖かな観客がなつかしく思われたものです。

 それでも時間が経つにつれ、いつもカメラの真下に座っていたヴィンセント・ミネリの存在にも慣れてきました。彼は私のことを”エンジェル”と呼んでくれました。こんな風に呼んでくれる人に対して誰が逆らえるでしょう。私はいつも彼を喜ばせたいと思っていたのです。でも彼のことをよく理解できるようになったのは、「恋の手ほどき」の撮影でもっと親しくなってからのことです。」

 「彼はどの男性よりも女性をよく理解していました。結婚を三度していましたが、彼の心はいつも女性の側に立っていたのです。彼と一緒に仕事をすれば、その想像力や美的感覚のすばらしさを知ることとなります。劇的な状況で心を打つ表現を作り上げたとしても、それが観客の鼻につくようなことはありませんでした。上品になりすぎぬよう心を砕いていたのです。」

 「ミネリとケリーは仲も良く、互いに尊敬の念を抱いていました。お互いの感性を尊重し合っていたのです。たとえジーンの主張が強くなりすぎたとしても、ヴィンセントは上手くぶつからないようにしながら、自分のやり方を通すことができました。彼はものごとが上手く運んでいる限り、喜んで相手のやり方に合わせていました。でも美的観点から見て過っていれば、断固として譲りませんでした。」


2010年7月2日金曜日

レスリー・キャロン 自伝 その13 「巴里のアメリカ人 1」

 渡米から三カ月経ち撮影が始まる頃、母マーガレットはパリに帰ります。母の帰国後レスリーは精神的よりどころをすべて失うことになりますが、それは新たな彼女自身の誕生でもありました。

 「今直面している全く何も解らない状況に対処するには、『精神的手術』が必要だった。自分自身を強くしなければいけなかった。ノスタルジックになっている暇はなかった。」


 いざ撮影開始となると、メイクアップが問題になりました。バレエ団では化粧も髪も彼女自身でやっていました。しかし撮影所ではそうはいきません。メイクアップとヘアードレスの専門家にまかせなければならないのです。

 ラナ・ターナーやエヴァ・ガードナーと同様に当時の流行を取り入れるよう強制された彼女は反抗します。結髪部の責任者シドニー・ギラロフにフランスのトップモデルと同じ髪型---男の子のように短くストレート---にしたいと説明しますが判ってもらえず、そこから実力行使にでます。自宅の狭いバスルームで、爪切りバサミを使い髪を切り始めたのです。

 「私がどうしたいかを、みんなもきっと分かってくれるわ・・・・・・」


「その結果は皆いやになるほど分かることになります。

 朝7時に私がメイクアップ室に到着するやいなや、すべての仕事は中断され、お偉方が招集されるはめになったのです。カルヴァー・シティからビヴァリーヒルズやベル・エアーにかけられた電話のベルがけたたましく鳴ります。その結果、私は壁を背に立たされ、銃殺部隊を目の前にする羽目になったのです。

 皆は一列に並び、惨状を目の当たりにし、信じられないように首を振っていました。制作部門の責任者ベニー・タウ、プロデューサーのアーサー・フリード、監督のヴィンセント・ミネリ、メイクアップ部門の責任者ウィリアム・タトル、結髪部門の責任者シドニー・ギラロフ、そしてジーン・ケリー。

 短時間の協議の末、私は家に帰され、髪が伸びる時間をかせぐため撮影開始は三週間延期されます。三週間の休み・・・・・この馬鹿娘の近くにはハサミを置かないこと・・・・・・、そしてジーン・ケリーからの最後のお言葉

 『いいかい、首にならなかっただけ良かったと思いなさい』

 でも三週間の撮影延期はそれほど悪いことばかりではありませんでした。英語が上達する時間を与えてもらえたのです。」