2010年7月14日水曜日

レスリー・キャロン 自伝 その16 「足ながおじさん 1」

 この調子ではいつになっても終わらないので、間を飛ばし、二十世紀フォックスに貸し出されての「足ながおじさん」(1955)。 アステアとの共演です、

 それ以前に、「リリー」(1953)のヒット、短期間のバレエ団への復帰などを経て、再びMGMで「ガラスの靴」(1955)を撮影することになります。

 当時バレエ団とともにアメリカに滞在していたプチは、団員への給料の支払いにも困り、彼女にバレエ団込みで出演できないかと頼みます。プロデューサーの了解が出て出演が決定。さらに続けて「足ながおじさん」にも、「あこがれのアステアのもとで彼女の振り付けをしたい」と頼み込んできます。

 プロデューサーのサム・エンジェルがお伺いを立てると、アステアは快諾。ここにプチやバレエ団との共演が実現するのです。


 1954年の夏。フォックスのリハーサル室で彼女は初めてアステアと顔を合わせます。当初緊張していたレスリーも気さくな彼の態度に次第に打ち解けていきます。

 「ミスター・アステアはユーモアのセンスがあるばかりでなく、生まれながらに特別なものを持っていました。こういう表現は使いたくありませんが、気品があるとしか言いようがないのです。悩みを抱えていても陽気にふるまい、世界最高のダンサーと周囲から見なされているにもかかわらず、素朴さと謙虚さを失いませんでした。」

 「バランスのとれた足さばきと同じように、あらゆることに中庸を心得ていました。大騒ぎや誇張、わざとらしさに押しつけがましさを嫌い、自分がほめられるのは恥ずかしがり、かわりにアシスタントが適切に評価されるよう、仕向けていました。」

 「スターの中にはマリオ・ランザのように夜中にプロデューサーに電話をかけ、うるさくて眠れないのでサンセット大通りの交通を遮断するよう要求する人もいました。でもアステアは常に分別をわきまえていたのです。」

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