2010年9月29日水曜日

ディアナ・ダービン その2 「ユニヴァーサル2」















1915
年、ユニヴァーサル・シティ完成記念式典のレムリ(左から二人目)


 レムリは1915年、当時ロサンゼルス最大と言われた撮影所「ユニヴァーサル・シティ」(広さ約100万平方メートル)を作り上げます。しかし、隆盛を誇った彼の経営にはいくつか欠点がありました。

  • 13巻物のプログラムピクチャーを優先し、長編作品を嫌ったこと

  • ヴァレンチノやロン・チェイニー、ジョン・フォード、そしてプロデューサーのアーヴィン・サルバーグなど優秀な人材を抱えていながら、長く配下にとどめておかなかったこと

  • 設立したニュース映画会社を活用しなかったこと

  • ドイツの親類縁者や知人を多く雇い入れ、重用したこと

などが挙げられます。

 さらに1920年代後半には自前の映画館チェーンの形成に失敗し、制作・配給・興行のうち、制作・配給部門からしか利益を上げられない構造を抱えることになります。

 その結果ユニヴァーサルは、ハリウッドのメジャー8社に名を連ねながらも、MGM、ワーナー、パラマウント、二十世紀フォックス、RKOの「ビッグ・ファイブ」に対し、コロンビア、ユナイテッド・アーチストと共に「リトル・スリー」と呼ばれる地位に甘んじるのです。

 大恐慌期、MGMA級映画に平均50万ドルの制作費を掛けたのに対し、ユニヴァーサルはその半分の予算しか組めませんでした。


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