「軽やかな身のこなし」「観る者を包み込むような柔らかさ」
ひとくちにアステアの踊りは「比類がない」と形容しますが、この「比類のない」と言う言葉が指し示すのは、おおよそ次の三つのことがらです。一つは表面的 な踊りの様式やスタイルについて。二つ目はより本質的な体の動かし方や(意識的にしろ無意識にしろ)自己の身体に対する認識の仕方について。そして三つ目 は上手さのレベルについてです。
この三つを個々に論じることはもちろん可能ですが、実際は相互に影響しあっているため、分離不能なものです。たとえば体の動かし方や認識がある状態になれば、結果としてそれはダンスの上手さのレベルにも結びつけば、踊りの様式をも規定することになります。
しかしここでは便宜上最も基本的な、体の動かし方や認識の問題について考えてみたいと思います。
人間の身体運動のタイプを、ごく大雑把に中心軸優位の「軸型」と腹優位の「腹型」に分け、それぞれの人を分類していけば、フレッド・アステアは当然「軸型」にあてはまる人です。優れた身体能力を持つ人で「軸型」の人はたくさんいますが、実際のところアステアに似た人は果たしているのでしょうか。
ブロードウェイのダンサーについてあまり詳しくありませんが、私が今まで見たミュージカルのダンサーで、アステアに似た人はいませんでした。クラシック・バレエのダンサーはそれこそ「軸型」の宝庫ですが、やはりその動きはアステアと異なっています。
現代は違うが、過去においてはアステアのスタイルが一般的だったと仮定することも可能ですが、実際に年齢の近いジェームズ・キャグニー(1899年生まれ)、ジョージ・マーフィー(1902年)、レイ・ボルジャー(1904年)の踊りと較べても、それぞれにレベルもスタイルもまったく異なっています。
ではヴォードヴィル時代からアステアが影響を受けていた黒人タップダンサーはどうだったか。少なくても彼の尊敬するビル・ロビンソンとも違いますし、他のタップ・ダンサー達の残された映像からも似ている人を見たことはありません。
日本に目を向ければ、「踊りの神様」と呼ばれた七代目坂東三津五郎(今の三津五郎の曽祖父)が似ていると言われることもあるようです。確かに無駄な部分を捨てて軸や腹のみで踊ることのできる三津五郎の踊りはアステアと本質的に共通した部分があるとも言えます。しかし、三津五郎の踊りが軽妙洒脱に向かうのと、アステアのエレガンスとはやはり趣が異なります。
踊り以外の分野で現代の「軸型」の代表と言えばイチローや浅田真央あたりになるのでしょうが、踊らぬまでもその動作がアステアと似ているかどうかになると首をひねらずにはいられません。
もちろん私が見た人の数は限られているので、どこかに似た人はいるのかもしれませんが、それでも似ている人がわずかなのは確かでしょう。どんなに優れたダンサーでも多少は筋肉の「におい」がするものです。
ところが、似ている「もの」を見つけました。
これです。


16世 紀の解剖学者ヴェサリウスの名著『ファブリカ』 の挿絵です。なぜ骸骨に感情表現をさせているのか知りませんが、その結果、「筋肉を失った究極の存在」としての骸骨を、生き生きとした情感を持ったものと して見取ることができます。泣いたり悲しんだりしているのは少し邪魔ですが、アステアの軽みのアナロジーになっています。
こんなことを書いていると 「それはおまえがそう感じるだけだろう」とか、「骨に似ているからって、それが何なんだ」といった反論が返ってくるかもしれません。もちろんこれは感性の 問題なので、証明しろと言われてもむずかしい。
「そう感じるからそうなんだ」としか答えられないのは確かです。
しかし真正面からの証明は難しくとも、傍証ぐらいはある。
そして、骨を考えることでアステアの動きの秘密が少しずつ解ってくるのです。