2008年1月13日日曜日

フレッド・アステア その2 「経歴」


 大上段に振りかぶっておいて肩透かしを喰った気になるかもしれませんが、ここでアステアの経歴について触れたいと思います

 とは言え、すでに「アステア  ザ・ダンサー」(ボブ・トーマス著、 武市好古 訳;新潮社)や「フレッド・アステア自伝 Steps in Time(篠儀 直子 青土社)が上梓され、ネット上にも多くの記載があるためここでは簡単に書いておきます。


 フレッド・アステア ( 本名Frederick Austerlitz)は1899510日、ネブラスカ州オマハに生まれる。オーストリア移民の父フレデリックに、母ヨハンナ(後にアンと改名)、二歳年上の姉アデールの四人家族。二十世紀初頭の禁酒運動の高まりの中、醸造所勤務の父親が失業。これを機に、幼い頃よりダンスに非凡な才能を示すアデールのため進んだレッスンを受けさせようと、母と姉弟は19051月、ニューヨークに移る。

 ダンススクールに通いだした姉弟は、同年11月には早くもプロとして舞台に立ち、翌1906年からは”The Astaires”としてヴォードヴィルの全米巡業に参加。1909年に一旦舞台を離れ、二年間正規の学校教育を受けた後、1911年末から再びヴォードヴィルに参加。次第に頭角を現し、1915年より各地の一流劇場に出演するようになる。

 191711月には初めてレヴュー「オーヴァー・ザ・トップ」でブロードウェイに進出。以後もレヴューやミュージカルに出演し、二人の踊りは観客や批評家から絶賛を博す。1922年「ザ・バンチ・アンド・ジュディ」で初の主役をつとめた後は、ニューヨークとロンドンを行き来しながらガーシュインら一流作曲家の作品で次々とロングランを記録。ブロードウェイのスターに登りつめる。1932年、姉アデールが英国のキャヴァンディッシュ卿と結婚し引退。独りになったフレッドはミュージカル「ゲイ・ディヴォース」で成功した後RKOと契約。舞台を離れ活躍の場をハリウッドに移すことになる。

 1933年、MGM作品「ダンシング・レディ」に本人役でゲスト出演した後、RKOの「空中レヴュー時代」に出演。脇役ながらジンジャー・ロジャースと踊ったダンスが人気を呼び、二人のコンビで計九本の映画が作られる。とりわけ「コンチネンタル」(1934年)、「トップ・ハット」(1935年)、「艦隊を追って」(1936年)などの作品は興行的にも大ヒットし、RKOの財政的危機を救ったとさえ言われている。しかしコンビとしての人気も30年代末には翳りを見せ、興行収入も低下。さらにジンジャーが演技者としての道を望んだため、39年の「カッスル夫妻」を最後にコンビは解消。アステアもRKOを離れることになる。

 1940年以降、特定のスタジオと契約することなく各社の映画に出演。エレノア・パウエル、リタ・ヘイワース、ビング・クロスビーらと共演し、ミュージカルスターとしてトップの地位を保ち続けるが、46年のパラマウント作品「ブルー・スカイ」を最後に映画界を引退。好きな競馬とダンス・スクールの経営に専念する。

 1948年、足を怪我したジーン・ケリーの依頼を受け、代役としてMGM作品「イースター・パレード」に出演。映画界にカムバック。MGMとは53年の「バンド・ワゴン」まで契約を続け、この間、「土曜は貴方に」(1950年)、「恋愛準決勝戦」(1951年)などに出演。「ブロードウェイのバークレー夫妻」(1949年)では十年ぶりにジンジャー・ロジャースと十作目の共演を果たしている。

 1954年以降は再びフリーの立場で「足ながおじさん」(1955年)や「パリの恋人」(1957年)に出演。57年の「絹の靴下」を最後にミュージカルを離れ、「渚にて」(1959年)などの映画で演技者として活躍する一方、1958年から60年にかけテレビで三本のワンマンショーに出演。エミー賞を獲得するなど好評を博す。1968年、ワーナーで最後のミュージカル作品となる「フィニアンの虹」に出演。MGM黄金時代のアンソロジー「ザッツ・エンタテインメント」(1974年)で、ミュージカル映画の素晴らしさが再認識されると、「ザッツ・エンタテインメントpartⅡ」(1976年)ではジーン・ケリーと共に司会として登場し、健在振りを見せる。81年までテレビや映画に出演を続けたほか、同年4月にはAFI(アメリカ映画協会)より生涯功労賞を授与されている。


 1987622日肺炎のため死去。享年88


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