2008年1月12日土曜日

フレッド・アステア その1 「ガール・ハント・バレエ」

















まずは定番・・・・・・このかたち
アステアのお相手はもちろんシド・シャリース


  「フレッド・アステアの代表作は?」と問われれば、候補として必ずその名が挙げられる「バンドワゴン」(監督ヴィンセント・ミネリ 1953年)。最高かどうかは別として、後期の秀作であることに間違いはないでしょう。と言っても、ここで問題にしたいのは映画そのものではありません。同作の終盤、舞台公演の形で演じられるプロダクションナンバー「ガール・ハント・バレエ」(マイケル・キッド振付)です。
 ミッキー・スピレーン風探偵小説にミネリ好みのシュールな感覚を加えたこのダンスは、秀作揃いの同作品プロダクションナンバー中でも「最高」と讃えられています。しかしこのナンバーを最初に見た頃から、何とも言えない違和感が私の中にありました。

 べつに、ここでアステアの踊りがよくないとか、振付がまずいと言いたいのではありません。アステアは相変わらず上手いし、シド・シャリースは美しい。酒場の雑踏シーンでのダンサーの動きは躍動的で、猥雑なエネルギーに満ちています。 
 でも何かが変。何かが足りません。まるでどこかに「スカスカ」とした隙間があるようです。料理に喩えれば、「美味くはあるが何か一味たりない・・・・・・・・けれどそれがスパイスなのか、ダシなのかよくわからない」

そんな風に感じていました。

では何が足りないのか?


  これです





 バーのカウンターを背に、敵に銃を向けるアステア。


 当初彼はこのナンバーに気が進まず、自分にうまく踊れるのかと不安を口にしていたといわれています。それでも踊ってしまえばそれなりの水準に仕上がるのは、もちろんアステアの実力あってのことですが、技術では覆いきれない根本的な欠落がここにあります。それは何か。

 アステアの体が貧弱に見えるのです。

 ハードボイルド小説の探偵と聞くと私が無意識に期待してしまうのは・・・・・・・・「厚い胸板」、「頑丈な顎」、「太い腕」。そして、こういった肉体から発するタフで自信に満ちた暴力性と、孤独なセクシャリティー。しかしこのナンバーに見るアステアの体からは、これらの要素がみごとに抜け落ちています。 
 ナンバー全体を通してどこか「スカスカ」した違和感がぬぐいきれなかった原因は、この「豊かな筋肉から発する身体性」の欠如だったのです。

 歌舞伎で役者の個性に合わない役を演じることを、その役者の「人(にん)にない」と言います。どんな名人上手でも、その人の柄に合わない・・・・「人にない」・・・・役をやると、なんとなくしっくりこない。たとえ下手な役者でも、個性と役柄がぴたりと合えば見栄えがするばかりか、役の本質をも充分表現することができる。ちょうどそれと同じことが起きています。 この探偵はアステアの「人にない」役だったのです。

 フレッド・アステアについて語るにあたり最初に「ガール・ハント・バレエ」を持ち出したのには理由があります。それはこのナンバーが、彼の身体にはおよそ暴力やセクシャリティーを表現すべき筋肉の質感が欠けていることを明らにしているからです。ダンスの上手さや振付の斬新さでは隠し切れないこのアステアの身体的特質は、彼のダンスが性と暴力で象徴される「現代」を表現できないという限界を露呈させています。しかし、まさにそれだからこそ、アステアのダンスが時間を超えた「永遠性」を獲得した理由をも同時に語っているのです。

 仮にアステア自身が自らその身体を選び取ったことで「時間を拒否した」と言えばあまりに恣意的に過ぎ、「時間から拒絶された」と書けばあまりに擬人化に過ぎた表現かもしれません。しかし現代を表現できないことを代償に獲得したそのダンスの永遠性こそが、まさに、アステアの踊りを他に較べるもののない最高の存在たらしめているのです。

 では、筋肉を失ったアステアをアステアたらしめている身体の本質とは何なのでしょう。


2 件のコメント:

yuuko さんのコメント...

いつも読ませていただいてます。
そうなんです。この場面のアステアほど似合わない役は
ないなあ、と思っておりました。

子供が大人の真似をしてるような感じがありますね。

本人も自覚していたでしょうが、仕事として無難にこなしてはいても、本当に似合わない。

OmuHayashi さんのコメント...

yuukoさん、いらっしゃい。
読んでいただき、ありがとうございます。

 確かにアステアには似合わないんですが、かと言って、ほかの人が踊ると「予想のつく踊り」になってしまいそうで、これはこれで良いのかなあと近頃は思っています。

 ではまた。