2010年10月11日月曜日

ディアナ・ダービン その6 「パステルナーク」










ヘンリー・コスター(左)、ディアナ、パステルナーク
  1939年



 ディアナ・ダービンがユニヴァーサルと契約した1936年、かつてカール・レムリが断行したベルリン支社での映画制作中止の影響で、契約していた多くのスタッフが、ユニヴァーサル・シティにやって来ます。

  その中の一人が35歳のプロデューサー、ジョー・パステルナークでした。

 ハンガリー出身の彼は少年時代にアメリカに渡り、20年代初頭、パラマウントの社員食堂の皿洗いになったのを手始めに、助監督にまで出世します。トーキーに移り変わる直前にユニヴァーサルへ入社。欧州向けの映画制作のためベルリンに派遣され、プロデューサーとして働くことになります。

 そこで彼が出会ったのがジャーナリスト兼漫画家の若きヘンリー・コスターでした。コスターはまもなくベルリンスタジオで最も多作な脚本家となり、さらに1930年代初めには監督として働くようになります。ドイツでの制作中止に伴い、英語の出来ないコスターもハリウッドにやって来たのです。


 パステルナークはドイツ時代、すでに数本のミュージカルをヒットさせた実績がありました。そこで、チャールズ・ロジャースは彼に同様の企画をコスターと作るよう勧めます。パステルナークはこの機を逃さず、ユニヴァーサルと契約したばかりのディアナを使い、後に「ダービン組」とも「パステルナーク・スペシャルズ」とも呼ばれる制作陣(コスター、脚本のブルース・マニング、カメラのジョー・ヴァレンタイン、音楽監督のチャールズ・プレヴィン)らと撮影を始めます。

 予算は約26万ドル。制作担当重役をはじめ誰もが、ごく一般的な低予算映画と見なしていた作品、「天使の花園」(Three Smart Girls; 1936)です。


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