2010年10月9日土曜日

ディアナ・ダービン その5 「MGM」















「頑固なんじゃないの。意志が強いだけ」



 ディアナ・ダービン(本名Edna Mae Durbin エドナ・メエ・ダービン)は1921124日、カナダ、マニトバ州ウィニペグで、イギリスから移民した両親と姉一人の家庭に生まれます。彼女が一歳の頃、一家はロサンゼルスに移り住みますが、その理由は「父親の健康問題」から「娘をハリウッドで一旗揚げさせる」まで諸説あるようです。

 子供の頃から音楽の才能を認められたディアナは、1932年、ラルフ・トーマス・アカデミーで歌のレッスンを受けるようになります。アカデミーでは生徒の勧誘と発表会を兼ねたコンサートをしばしば開いていたため、優等生のディアナは様々なクラブや教会で歌を披露していました。

 その頃MGMでは、ドイツ出身の声楽家エルネスティーネ・シューマン=ハインクの半生を描く映画 ”Gram” が企画されていました。主人公の子供時代を演じる「歌える少女」を捜していたキャスティング担当のルーファス・ルメールはディアナのことを聞きつけ、L.B.メイヤーも出席の上オーディションを行います。その結果、彼女の採用が決定。1935年、MGMと半年間の契約を交わすことになるのです。

 ディアナ・ダービンとMGMとの契約はあくまで ”Gram” 撮影のためだけのものでしたが、MGMは彼女の芸名を本名から「ディアナ」に変えるとともに、ラジオに出演させることで大衆への浸透を図っていきます。ところが映画のアドヴァイザーも兼ねていたシューマン=ハインク自身が病気になり撮影は延期。使い道のなくなった彼女に対しスタジオは、同じように仕事のないジュディ・ガーランドと共演させた短編「アメリカーナの少女」を1936年の夏に撮影します。

 その頃のことをジュディ・ガーランドは次のように語っています。

「会社が本当にほしいのは5歳か18歳。その中間はいらないの。そう、私はその中間組だったの。ディアナ・ダービンも同じよ。私たちをどう使うか、会社もわかってなかったの。だから、私たちは毎日ただ学校に行って、あとは撮影所をブラブラしてたのよ」

 「アメリカーナの少女」を撮り終えたものの、結局 ”Gram” の企画が流れたディアナは、MGMとの契約期間も終了します。その頃ユニヴァーサルに移っていたルーファス・ルメールは、すぐさま彼女と週給300ドルで契約。

  ここにユニヴァーサルのディアナ・ダービンが誕生することとなるのです。


0 件のコメント: