グロウマンズ・チャイニーズ・シアターで
1938年2月、16歳の時、グロウマンズ・チャイニーズ・シアターで手形・足形が採られた
同じ年、全米各地にファンクラブ「ディアナ・ダービン信者の会」が多数生まれていた
1939年、オスカーの少年少女特別賞をミッキー・ルーニーと共に受賞した
1939年から1942年まで、イギリスの興行人気ランキング、女優No1であった
1940年(18歳)にはユニヴァーサルで最も観客動員力のあるスターだった
21歳の時には米国で最も高給取りの女性であり、世界の女優中、最高額の給与をもらっていた(作品一本あたり、40万ドル; 現在の貨幣価値では1200万ドル位?)
彼女にちなんだ数多くの商品---人形、紙人形、塗り絵、おもちゃ、文房具、レコード、衣料品---が生み出された
女性として世界で唯一人、ボーイスカウトの名誉会員に選ばれた
当時のニューヨーク市長から市の鍵を授与された
アメリカ陸軍航空部隊より名誉大佐に叙せられた
チャーチルもアンネ・フランクも彼女の大ファンで、ムッソリーニは政党機関紙で彼女にルーズベルトとの仲介役を希望した
ディアナ・ダービンについて語るにあたり、「当時、彼女がどんな存在であったか」を挙げてみました。
説明が必要な理由は二つあります。一つは、その活躍期の人気と社会に対する影響力が並外れたものであったこと。そしてもう一つ、突然の引退以降六十年以上にわたりマスコミに登場することがないため、活躍した頃のことを知る人が年齢的にも限られていることです。
さらに残念なのは、彼女の主演した二十一本の長編作品のうちのほとんどが型にはまった古風なミュージカルコメディであるため、後世にまで傑作や問題作として喧伝されることがほとんどないことです。現在日本でDVDとして発売されている彼女の作品は「オーケストラの少女」(1937年)と「春の序曲」(1943年)しかありません。
しかし彼女の作品を観ていくと、今でもディアナ・ダービンというスターの魅力にどうしようもなく引き込まれて行きます。彼女の魅力は表面的には、天真爛漫で快活なその明るさと言うことになるのでしょうが、それだけではありません。「引退の決断」や「マスコミとの接触を断ち続ける持続力」に象徴される強さが、表面的な純真さや天真爛漫さを裏から支え、単なる少女スターに終わらぬディアナ・ダービンの魅力を形作っています。
もちろん、ディアナ・ダービンというスターを産んだ、「ユニヴァーサルという環境」の力も見逃すわけにはいきません。
彼女が日本を含め世界中で人気を集めた理由や、スターとしての人生に区切りをつけた決断の鮮やかさの訳を考えながら---できればジュディ・ガーランドとの対比も含めて----彼女の魅力と身体を明らかに出来ればと思っています。
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