2010年2月5日金曜日

ジュディ・ガーランド その15 「スター誕生」
















 「スター誕生」はジュディ・ガーランドの50年代での仕事の内、目にすることのできる数少ないものの一つです。ときにジュディの最高作という意見も聞かれますが、実のところ私はあまり好きではありません。

 現在観ることのできる作品は、大幅にカットされた上、カットした部分をスチル写真と残った音声で補うという無残なものなので、作品の出来自体をどうこう言うのはフェアではありません。ただ残った部分(こちらの方が当然長いわけですが)を観る限り、非常に良くできた映画であることは間違いありません。演技、撮影、美術、セット、音楽・・・お金をかけきちんと作られている----そのことは否定しません。

 でも何か違和感がある。

 その違和感の理由を考えていくと、この映画がきわめて「50年代的」であるということに行き着きます。

 彼女がこれまで出演した映画のほとんどは、いわゆるミュージカルコメディの範疇に入るものです。そこでは登場人物を包み込む人間関係や風景、音楽は明るく暖かで、善意に満ちています。登場する人物は善や悪に明瞭に色分けされ、観客は余分なことを考える必要はありません。ストーリーや心理描写は単純化され、ハラハラさせながらも最後は観客の期待する結末に向かって収束します。

 このようなミュージカルコメディの手法で描ける世界や人間関係は限定され、伝えることのできる意味はシンプルです。 では、ミュージカルコメディは単純でつまらない子供だましの作品にしかならないのでしょうか。
 そんなことはありません。記号化された単純な人物同士のありきたりの反応を積み上げたその果てには、観客の夢や希望や喜びを豊かに育む世界が現出します。観客は温かな湯に浸かるような安心感と心地良さの中で、歌やダンスを楽しみ、人生において最も大切な愛や幸福感を味わうことができるのです。

 しかし「スター誕生」はそういったたぐいの映画ではありません。

 ジェイムズ・メイスン扮するアル中で落ち目のスターと、ジュディ演じる新人女優を中心に織りなすストーリーは、最終的には二人の愛情物語に収斂されます。しかしそれはメイスンの自殺なくしては成り立たない物語です。その過程には、怒りや屈辱、哀れみに嫉妬、悲哀と悔恨など複雑な感情が立ち現れ、交錯します。まさにそれまでのミュージカル映画では描くことのできなかった題材です。

 ある特定のジャンルが成熟すると、更なる表現や題材を求めて革新が始まります。そして新しい題材とそれを描くための表現方法が見つけ出されたとき、そのジャンルは新たな段階へと進化するのです。ミュージカルもその例に漏れません。「明るく幸せな」世界を描くミュージカルコメディから脱皮し、複雑な人間の内面や葛藤を描こうとする潮流-----「スター誕生」はまさにその一歩を踏み出したことによってきわめて50年代的作品です。

 しかしそこでは、まだ過去の表現法を引きずっています。

 色鮮やかに画面に映ったすべてを見せる撮影、書き割りやスクリーンプロセスとわかる風景、きっちりと明瞭にしゃべるセリフ術----これらがドラマの持つ現実感を薄めていきます。ミュージカルコメディでは違和感のなかったこれらの表現方法は、リアルで生々しい感情を描こうとするときにはその足かせとなるのです。深刻で複雑な感情をそれに適した表現方法で描ききることが出来ないとき、題材と表現は乖離し、映画全体の印象をどこかよそよそしくします。私にはまるで登場人物が(映画で描かれる)世界から疎外されているように感じられるのです。そんな映像世界にプロダクションナンバーが挿入されると、それ自体の出来の良さにもかかわらず、作り物めいてそこだけ浮いてしまいかねません。


 新たな題材を得ながらまだ真にその表現方法を獲得していなかった過渡期の大作----「スター誕生」はそういう作品です。

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