2010年2月14日日曜日

ジュディ・ガーランド その18 「転落」


 肝臓疾患のためしばらく静養したジュディは、健康を取り戻すとともにステージ活動を再開。614月、ツアーの最後を飾るカーネギーホールでのコンサートは大反響を呼び、その模様を録音した二枚組アルバムが7月に発売されると、ヒットチャートで13週連続ナンバーワンという快挙を達成します。
 また、同年の映画「ニュールンベルク裁判」ではシリアスな演技が評判を呼びますが、後に主演した「愛の奇跡」(1963)と”I Could Go on Singing”1963)の二作は内容も地味で興行成績も上がらず、彼女の最後の映画となります。


 63年秋、和解したCBSで「ジュディ・ガーランド・ショー」の放送が始まります。コンサートツアーに較べ身体的負担も軽く、多額の収入がえられるショーの継続に彼女も期待しますが、視聴率が伸びないことなどを理由に、番組は翌年3月で打ち切られます。

 645月のオーストラリア、メルボルン公演では、開演を大幅に遅らせたばかりかまともに歌うこともできず、大変な不評を買うことになります。帰国途中の香港では自殺未遂を起こし、昏睡状態に陥ります。回復はしたものの健康状態は再び悪化。
彼女の人生もこれ以降、急激な下降線をたどって行きます。


 655月には、50年代末から離婚にまつわる訴訟合戦を重ねていたラフトと正式に離婚。9月、骨折を理由にロサンゼルスでのコンサートをキャンセルしたことから、友人や業界からも完全に見放され、仕事も少なくなります。
 67年、フォックスから出演依頼のあった映画「哀愁の花びら」も、お定まりの撮影トラブルのため解雇されてしまいます。


 事態はさらに悪化していきます。

 声量も落ち喉も荒れて、かつての歌のレベルはもはや望めません。体力の低下も明らかとなります。体のふらつきが強まり、椅子や柱などの支えがないとステージで立っていられません。薬物やアルコールによる攻撃的な言動はさらに友人を失なわせます。
税金の督促ばかりか、代金の未払いやコンサートのキャンセルに対する訴訟も多く抱え、更に、それらを処理する弁護士やエージェントへの未払い金も加わり、借金が膨らんでいきます。時に食べる物にも事欠くようになります。ホテル代を払わぬためブラックリストに載せられ、友人宅を泊まり歩くという惨めな境遇にも陥ります。


 ナイトクラブ出演などでなんとか生活を続けていたジュディは、1969622日、滞在先のロンドンで死亡しているのを五番目の夫により発見されます。死因は睡眠薬の過剰摂取、死亡時刻は同日未明と推定されています。
 47歳でした。



 627日、ニューヨークで執り行われた葬儀には、二万二千人以上の人々が参列したと云われています。


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