MGMをクビになったジュディ・ガーランドはニューヨークで後に三番目の夫となるシド・ラフトと知り合います。ラフトは、一時エレノア・パウエルの愛人兼秘書を務め、B級映画のプロデュースなどもしていた人物でした。ミネリのように洗練されたインテリジェンスはありませんが、周囲を動かして突き進むヴァイタリティを備え、生きる方向を見失っていたジュディには最適の人物だったと思われます。
撮影時のトラブルが知れ渡り、映画会社から声の掛からない彼女に、ラフトはイギリスでのコンサートを勧めます。1951年4月から5月、ロンドン、パラディアム劇場での公演は大変な反響を呼び、評判はアメリカにも伝わります。その結果51年10月から翌年2月まで、ブロードウェイのパレス劇場で彼女を中心としたヴォードヴィルショーが行われますが、この公演は大衆が待ち望んだジュディ復活劇として、伝説となるほどの大変な評判を呼ぶことになります。
パレス出演の後は全米各地を巡演しながらラジオ出演も続け、私生活ではミネリと正式に離婚すると共に、ラフトと結婚。52年11月には娘ローナを出産します。
1953年9月、彼女はワーナーブラザースでミュージカル「スター誕生」の撮影を開始します。
ジャック・ワーナーの信頼を得て、ラフトをプロデューサーとして制作されたこの映画は、相も変わらぬジュディのトラブルに、途中で撮影をシネマスコープに変更するという問題も加わり、撮影期間十カ月、制作費五百万ドル以上という文字通りの「大作」となります。
映画自体は批評家から絶賛されますが、公開一カ月で客足が落ちると、観客の回転を良くするため撮影所は上映時間三時間以上のフィルムを勝手に三十分も短縮。内容も物足りないものになり、監督や出演者を嘆かせることとなります。
最終的に映画は制作費を回収できず、ジュディに期待されたアカデミーの主演女優賞もグレース・ケリーにさらわれてしまいます。
長男出産後55年4月よりコンサートを再開したジュディですが、薬物の使用や不安定な精神状態は変わりません。体重が増え、それを揶揄されることが増えていきます。テレビ出演時のトラブルのためCBSとの連続契約も打ち切りとなります。それでもMGM時代からの贅沢な生活を変えようとしないため出費は重なり、働いても借金が膨らんでいくようになります。体調も悪化し喉も荒れ、56年頃からしゃがれた声が目立つようになります。
59年には倦怠感から入院。肝炎による肝機能の低下で余命は五年とまで言われるようになるのです。
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