2010年2月15日月曜日

ジュディ・ガーランド その19 「カーネギーホール」

















コンサートの終盤、アンコールに応えるジュディ


 1961423日、カーネギーホールで行われたコンサートは、ジュディ・ガーランドの60年代における仕事のうち、最大のメルクマールと言えるでしょう。公演自体、新聞、雑誌等で絶賛されますが、そればかりではありません。すでに書いたように、この模様を録音した二枚組LPは、ビルボードのヒットチャートで連続13週にわたり一位の座を守ったばかりか、ヒットチャートに95週とどまるという快挙を成し遂げます。さらに、五つのグラミー賞に輝くなど、まさに社会現象と言ってもよい出来事だったのです。このコンサートは現在も二枚組のCDとして発売されており、全部で(休憩も入れて?)二時間半と言われるコンサートのほぼ全容を知ることができます。

 このCDを聞きながら、「ジュディ・ガーランドという存在が何であったのか」考えていきたいと思います。


 この公演の歌だけを取り上げれば、「最高の出来だと言うほどのことはない」というのが私の印象です。もちろんジュディの歌唱の内で最良の部類にはいることは否定しませんが、他に隔絶して優れているとまでは言えません。

 しかしここで問題にしたいのは、歌の出来の良し悪しではなく、ジュディ・ガーランドという存在が持つ、大衆(観客)との交流に関するきわめて特異な能力なのです。


 すでに語られていることですが、このパフォーマンスは彼女の力だけで成り立ったものではありません。カーネギーホールを立錐の余地もないほどにした3165人の観客、さらにその背後に控える多くの大衆に支えられたものです。会場はジュディのファンや友人によって埋めつくされ、その声援の暖かさがCDからも伝わってきます。この雰囲気の中で彼女は普段より「気を入れて」歌います。他の歌手なら緊張して声を張り上げたり硬くなったりするのでしょうが、彼女は違います。ここ一番と言うときのジュディは、逆に柔らかく心をこめて歌うのです。

 ジュディ・ガーランドの胸から腹の一部にかけ、大きなカプセル状の「装置」が備わっています。一言で言えば「主声域」なのですが、他の凡百の歌手と違うのは、この装置のエネルギー密度の高さです。副声域をほとんど聞き取れなくしているほどパワーがあるのです。
 この「装置」が上下に伸縮可能であることはすでに述べましたが、それだけではありません。彼女が心をこめて歌うとこの主声域の力が非常に強く発揮され、一種の「粘り」とも言える弾性をもって観客の胸に貼りついていきます。口から出た声を通して伝わるのではなく、観客との感情の交流がほとんど直に胸を通して行われるのです。このように胸を通して瞬間的に大衆を「絡め取っていく」能力は、ジュディ・ガーランドの歌手として、スターとしての重要な特性の一つです。


 しかしこの感情の流れは、ジュディから観客への一方的なものではありません。この日詰めかけた観客の多くは、おそらく彼女のMGM時代の映画を思春期や青年期を通して見続け、ともに成長してきた40歳前後の人々と思われます。それは61年の時点で言えば、せいぜい二十年前の出来事です。
 40年代には週に八千万から九千万の人々が映画を観に行っていたわけですから、その時代の人口を考えると、おそらく映画を観に行ける環境にあった人はほとんど皆が毎週映画館に通っていたと推測されます。彼らは人生の最も多感な時期に、ジュディの映画を観てともに笑い、泣き、そして歌を楽しんできました。彼らの心の中には、彼女へのあこがれが人生における期待や不安、喜びや悲しみと結びついた形で渦を巻いています。そういったジュディ・ガーランドへの思いは、郷愁を帯びた巨大なエネルギーとなって、復活した彼女に降り注いで行くのです。


 彼女の観客に与えるエネルギーと観客から降り注がれるエネルギーは無限の循環を重ねてふくれあがり、劇場内の空間を満たし、さらに社会を巻き込んでいきます。この時点でまさにジュディは、大衆が抱く夢や希望をエネルギーとして循環させる巨大なシステムの中心に存在し、「リアクター」としての役割を担っていたのです。


 これが、カーネギーホール・コンサートにおける彼女の「存在の意味」であったと思われます。


 しかしこれは生身の人間にとって余りにも過酷な役割です。彼女の肉体がこの役割を担えるだけの時間は、もはやそう長くは残されていません。


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