2009年11月12日木曜日

ちあきなおみ その6 「顔」

 長々と面倒な話が続いたが、このあたりでちあきなおみ自身に話を戻し、彼女の歌と身体について考えていきたい。

 最初は「前期」の彼女、とりわけその「顔」である。

 人間の体にはその人特有の意識の分布があって、その人なりの特徴を形作っている。「気持ちが腹に落ちて重厚な印象がある」とか、「浮き足立っているようで信頼性に乏しい」などといったように。なかでも思春期以降の若い女性一般について言える特徴は、意識の分布が顔に強く偏っていることである。このため体全体の意識の重心が上方に偏り、「重み」や「深み」に乏しくなる。

 若い頃のちあきなおみもその例に漏れないが、とりわけこの人の顔は、観る者の視線を集める「能力」に優れている。







 





 当時のちあきなおみの顔を見てみよう。

 一見して目に付くのは、ふっくらとして柔らかい輪郭、大きくてくっきりした目、肉厚でぽってりした鼻や唇。これらが彼女特有の色気を醸し出すのだが、それだけではない。もっと深いところでこの人にはユーモアの気配がある。それがいつも色気をオブラートのように包む。そのため色気の切っ先が丸くなり、どこか安心感さえあたえてしまう。この色気とユーモアの混淆が当時の彼女の魅力の一つとなる。

 加えて感じられるのは、彼女の顔面にりきみがないことである。顔のどこにも緊張したり凝り固まった部分が認められない。そのことが彼女の印象を一種茫洋としたものにするとともに、親しみやすさを増す効果がある。

 顔の緊張は身体の緊張をも意味するので、顔のりきみのなさは反対に体や歌にもりきみがないことを示している。このりきみのなさは歌の深みに通じていく大切な特徴であるが、当時の彼女はまだそれを十分には生かしていない。りきみがなく体幹部を深みに向かおうとする要素と、顔を中心に上方に浮き上がろうとする要素がぶつかり合い、中途半端な結果に終わっている。

 これが、この時期の彼女の基本的な身体の様態なのである。

 このことが彼女の歌にどう反映されているのか。

 「後期」との対比になるので、また後で詳しく述べることになると思うが、歌の「重心」が「後期」より高い。野球のボールで一、二個分である。体幹部を「後期」ほど活用できず、使用域が全体的に上方に偏っている。このことで歌の深みにどうしても乏しくなる。

 歌の実力に関して言えば、まあ上手いには上手いが、たとえば同時期の八代亜紀と比べて格段にうまかったかと言えば、そうとも言えない。実力はあるが飛び抜けた巧さとは言い難いというのが、私の「前期」のちあきなおみに対する評価である。

 もちろん、ところどころに、「後期」で発揮されるうまさの片鱗が認められるにしてもである。


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