2009年11月14日土曜日

ちあきなおみ その7 「怪演」

まずはこの映像を観ていただきたい。




ご存じ、昭和52(1977)の紅白歌合戦から、「夜へ急ぐ人」


 この年で昭和45年から続いた紅白出場も一旦途切れ、様々な事情から雌伏の時期を迎える。その直前の、ある意味、彼女なりのマニフェスト(この言葉、選挙で使われるようになってから別の意味がついて使いづらくなったが、要は「宣言」)だったと言えるパフォーマンス。


 幾層にも重なったその意味は深いが、そのなかで気づいたことを一つずつ辿ってみたい。


 「ちあきなおみはは巧い」という後年の評価をもとに考えれば、これは「名演」ということになるのかもしれない。しかし、素直に同時代の目で眺めれば、「驚き、そして笑ってしまう」というのが普通の感覚ではないか。

  理由は「、ジャンルの落差」。いわば歌謡曲と謂うジャンルの総本山、当時の紅白歌合戦で、全く異質な形態のパフォーマンスを行なった---「空気をまったく読んでいない」---ということである。


 日常生活に歌舞伎風の演技をするおじさんが現れるドリフターズのコントがあったが、それと一緒。観客はまずジャンルの落差に驚愕し、ついで笑ってしまう。のめり込むことで笑いや奇怪さを誘ってしまうちあきなおみ「前期」の特徴がここに顕著である。クルッとまわすマイクに彼女の入れ込みようが見て取れる


  しかし、ひとたび歌舞伎というジャンルの枠内に飛び込めば、その演技のすばらしさが認識できるのと同じように、彼女のパフォーマンスもその懐の中に入れば違った局面が見えてくる。観客は「変なものを見た」という否定的な思いと裏腹に、その後も得体の知れない心のざわめきが残滓のように居座り続ける。良いも悪いも判断は紙一重。その差を決めるのは個人の感性でもあれば、時代の圧力でもある。


 とはいえ、こと歌唱の技術ということになると、まだ未熟さが目立っている。腹の底から衝動が噴出するような叫びは、聴衆の原初的な情動を揺り動かすものの、いかにも表現として「なますぎる」。さらに、顔に集中する演技は、意識の重心を体幹から奪い、いたずらに笑いを誘う。


「後期」に向けて課題は残る。


 そもそも、この曲の歌詞は意味がよくわからない。CDで聞く録音も妙に淡々としておもしろくない。しかし一旦ちあきなおみの身体を通して歌われた舞台を見ると、言葉一つ一つのイメージから新たな意味が紡ぎ出され、肉体性を帯びた世界にまで広がっていく。

 そこに見えるのは、彼女の現状に満足しない向上心であり、より良い歌を希求する気持ちである。


やがて数年の時を経て、新たな高みが我々の前に現れることになる。



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