”Summer Stock”(1950)より”Friendly Star”
ケリーへの思いを込めて歌います
だいぶ太っていますが、透けて見える純真さはドロシーの頃と変わりません
1945年6月、ジュディは監督のヴィンセント・ミネリと二度目の結婚をします。
「若草の頃」や「時計」の撮影を通じて信頼感を深めた二人は44年から同棲を続けていましたが、ホモセクシャルであるミネリとの結婚に周囲の賛同はなかなか得られませんでした。しかし、不安定なジュディを優しく保護し仕事につかせるにはミネリしかいないと考えられるようになると、スタジオも承認します。L・B・メイヤーも出席しての結婚式の後、ハネムーン先のニューヨークで彼女は、二度と薬物を使わないことをミネリに宣言します。
妊娠の判明したジュディは、「雲流れ去るまで」(1946)にゲスト出演した後、出産や育児のため1945年10月より翌年12月まで休養。この間46年3月に初めての子ライザを出産するなど比較的穏やかな状態が続きます。
しかしミネリが監督する「踊る海賊」(1948)の撮影にはいると、薬物の使用や不安定な行動がぶりかえします。
演技や歌への不安、ケリーに場面をさらわれるのではないかとの心配、さらには夫とケリーの仲さえ邪推し撮影は進行しません。意欲亢進や減量を目的に、さらに薬物の使用量が増えるという悪循環に陥ります。この映画以降、一つの作品中で彼女の体が場面ごとにやせたり太ったりするのがはっきりと見て取れるようになります。
1947年7月には自殺未遂を起こし精神科療養所に入院。8月には治療を切り上げ一旦は落ち着いたかに見えましたが、結局その後も不安定な言動と薬物への依存は変わりませんでした。
この後彼女は「イースター・パレード」(1948)、”Words and Music”(1948)、”In the Good Old Summertime”(1949)、”Summer Stock”(1950)に出演します。いずれも彼女の人気により収益を上げたものの、不安定な精神状態のジュディををなだめすかして撮影を続けさせる苦労は並大抵ではありませんでした。
1948年、ミネリが別居の声明を発表。翌49年5月には期待の大作ミュージカル「アニーよ銃をとれ」の主役を降ろされます。さらに1950年6月には彼女のため撮影の進まない「恋愛準決勝戦」から降板させられたばかりか、給与の支払いも停止。彼女の自殺未遂をはさんで、ついに1950年9月、ジュディ・ガーランドとMGMとの間の契約解除が公表されたのです。
1935年9月の初契約からちょうど十五年の年月が経過していました。
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