2010年1月3日日曜日

ジュディ・ガーランド その3 「人気」

 MGMと契約したにもかかわらず、ジュディには一向に映画の企画がまわってきません。歌は上手いが外見に魅力がなく、年齢も13歳と中途半端なこの少女をどう使えば良いのか、スタジオ側も考えあぐねていたと思われます。
 ラジオ出演でつなぎながら、ようやく1936年、「アメリカーナの少女」という短編がディアナ・ダービンとの共演で制作されます。年齢の近い二人の少女が観客にどう受け入れられるかを探り、どちらを残すか判断する目的だったようですが、契約の切れ間にディアナ・ダービンはユニヴァーサルと契約してしまいます。

 L.B.メイヤーの思惑とは違い、結局ジュディがMGMに残留することになったのです。


 彼女が最初に出演した長編映画は、MGMではなく、二十世紀フォックスに貸し出されてのミュージカル”Pigskin Parade” (1936) 。
 


 














農場の純朴な女の子を、自然な演技で好演しています。


 以後、「踊る不夜城」(1937) や”Thoroughbreds Don't Cry” (1937)で飾らない人柄と歌の上手さが大衆に浸透してくると、人気も次第に上昇。1938年には初の主役となる”Listen, Darling”を含め三本の作品に出演すると共に、大作ミュージカル「オズの魔法使い」の主役ドロシーにも抜擢されます。

 19398月に公開された「オズの魔法使い」は、制作費高騰のため利益は産まなかったものの大変な評判を呼び、ここにジュディ・ガーランドの人気は完全に確立されることになるのです。


 しかしこの間、彼女を生涯悩ますことになる問題の萌芽が、すでに現れています。

 

 契約直後の193511月、信頼していた父を亡くし、もともと上手く行かなかった母との間にいっそうの葛藤を抱えるようになります。

 さらにスタジオからは体型をスリムにするためダイエットを強制されたばかりか、過密なスケジュールに耐えて仕事が続けられるよう、覚醒剤(当時の法律では違法ではない)や睡眠薬を与えられるようになるのです。


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