1940年2月に起きたラナ・ターナーとアーティー・ショーの駆け落ち事件は、ジュディとラナの友情にも影を落とすことになります。当時ジュディはショーに夢中になっていたからです。
この辺のいきさつは、娘のローナ・ラフト原作の伝記ドラマ"Life With Judy Garland: Me and My Shadows" にも描かれていますが、ラナ・ターナーとのつきあいはこれで終わったわけではありません。
今回、ターナーの一人娘シェリル・クレイン(ジョニー・ストンパナートを刺した本人)が書いた”LANA The Memories, the Myths, the Movies” (2008) に母親ラナ・ターナーとジュディの関係が書かれた一節を見つけましたので、以下に転載してみました。
二人の関係が少しわかります。
ジュディとラナ
1941年、ナイトクラブMocambo で
姉に付き添われた中学生のようです
「 ジュディと母は『初恋合戦』で共演した頃からとても親しかった。ジュディは母に対しちょっとした嫉妬心を抱いていたが、それにはいくつか理由があった。ルイ・B・メイヤーがジュディを『可愛いいせむしちゃん』と呼んでいたせいもあって、彼女は自分が母ほど魅力的ではないと思っていた。でも最大の理由はアーティー・ショーだった。ジュディは彼と結婚するつもりでいたのだ。母はずっとこのことに罪の意識を感じていたが、後になると、死ぬよりつらい運命からジュディを解放することになったと言っていた。二人の友情はアーティー・ショーに勝ったのである。
ジュディと母はいつも一緒に出かけていた。二人ともマレーネ・ディートリッヒに首ったけだった。クスクス笑う女学生のように、二人はできる限りおめかしをしてサンセット通りのゲイクラブへ出かけたが、そこはディートリッヒが歌手のガールフレンドによく会いに行く場所だった。二人はその場の雰囲気に飲みこまれ、ディートリッヒがテーブルに呼んでくれると、興奮でゾクゾクしていた。
ラナの母親もジュディの母親もいつも娘のそばに付き添い、存在感も大きかったが、それぞれの人生に与えた影響は正反対だった。ジュディの母親はステージママで、薬物がどんな影響を与えるのか知らなかったのだろう。今から考えれば恥ずべきことだが、当時は誰もスタジオがジュディにしたことを非難しなかった。彼女に鎮静剤と興奮剤を与え、結局悲劇につながったのである。母に対しては誰もそんなことを試してみようとしなかった。たとえ前の晩に遊び歩いていたとしても、母は時間通りに現れ、仕事の準備はできていた。彼女はエネルギッシュで覚醒剤をのむ必要などなかった。コーヒー一杯でも十分すぎるほどだったのだ。」
わざと怒っているのがラナ。左は当時つきあっていたトニー・マーチン
右はジュディと最初の夫、作曲家のデイヴィッド・ローズ
上の文章で「死ぬよりつらい運命」とあるのは、ショーがラナの劣等感を刺激して追い詰め、教養を押しつけたことや、帰宅後の家事を要求し、おしゃれを禁じたことなどを指す。
結局、結婚生活は四ヶ月しか続かなかった。
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