2010年1月3日日曜日

ジュディ・ガーランド その5 「自然」

 この時期に限らず、彼女の生涯を通して変わらない特性の一つに、歌も演技も普通の会話もそれぞれが、明らかな境界がないまま、互いにスッと移行してしまう「自然さ」があります。
 たとえば演技の最中に歌い出す場合、ことさら歌うことへ体を「ギアチェンジ」させることなく、声を張るでもなく、なめらかに柔らかく歌い出されます。
 強いて喩えれば、アステアの「動作からダンスへ」の移行の自然さを、「演技から歌へ」の移行の自然さに置き換えたと言えるでしょう。

 このようなことが可能なのは、彼女の演技や会話がすべて体幹部主体に行われているからです。

 普通我々が会話や演技をするとき、自分の顔を意識し、口を使って言葉を発します。体幹部はあまり考えません。そこから歌い出そうとすると、腹や胸に力をこめ、声帯を絞って発声しようとします。ここに会話や演技と歌との間の「身体の使い方の段差」が生じます。これでは自然に歌に移行することはできません。

 ここで自分の胸の中央に大きな口があると想像してみてください。会話や演技でしゃべる時、常にこの口を使っていると考えるのです。
 ためしに何かの台詞や文章の一節をこの「胸の口」を使うつもりでしゃべってみればより実感が持てるかもしれません。

 次に、この口を使って歌い出してみてください。
 顔にある口を使ってしゃべっていた時と比べ、ずっと自然に歌に移行できるのはないでしょうか。

 もちろんこれは何の才能もなければ訓練も受けていない素人が簡単に試すことのできるレベルの話です。ジュディ・ガーランドが実際に行っている身体の使い方はより複雑でレベルが高いのでしょうが、それでも違いの一端は感じられるのではないかと思います。 たぶん・・・・・・


 時に、歌は別として彼女の演技はさして上手くないといった意見も聞かれます。
 しかし彼女の演技は、対象を丹念に掘り下げ、作り上げていく「名優型」のそれではないため、上手さがわかりにくいのではないかと思うのです。
 彼女の演技は対象を自分に引きつけ、役の後背に常にジュディ自身が透けて見えるという、言うならば「スター型」の演技です。しかし、どの役をやっても違和感がなくごく自然で、「役の寸法に納まって」おり、スターとしての臭みもないという意味では、とても上手い人だと思うのです。

 このようなことが可能なのは、彼女自身の存在の確かさはもとより、何をするにも力みのないその身体の自然さが大きく関与しているのです。
 とくにコメディのうまさは、この力みのない身体がないと成り立ちません。

 さらにこの力みのない自然さは、観客に与える意味のレベルにも影響をあたえることになりますが、これについてはまた後で触れることになるでしょう。


0 件のコメント: