2010年1月22日金曜日

ジュディ・ガーランド その12 「L.B.」


 1945年から50年まではMGM在籍期間の最後です。しかし、私の心にかかるのは、なぜか彼女の歌や演技ではありません。彼女とL.Bメイヤーにまつわる事柄です。

 ジュディの混乱と期を一にしたのは偶然としても、そもそも40年代末期は、MGMにもハリウッドにとっても激動の時代の始まりでした。

 反トラスト法による制作・配給と興行部門の切り離しは撮影所の財政基盤を脆弱にします。また、48年に100万台に達したテレビの普及は、観客数減少というかたちで大きな影響を及ぼすようになります。46年から48年にかけ週に9000万人いた映画館の入場者が、49年には7000万人、50年には6000万人と激減するのです。さらに終戦後の社会や人々の変化は、MGMの不得意な西部劇やフィルム・ノワールと言ったジャンルの人気となって現れます。

 このような変化による興行収入の落ち込みに対し、ニック・スケンクはメイヤーを時代に対応できない「滅びゆく恐竜」と見なし、追い落としを謀ります。制作部門の責任者としてドーア・シャリーを送り込んだのです。互いのさや当ては撮影所に混乱を引き起こし、その過程でメイヤーは次第に追い詰められ、権力を失っていきます。


 こういった状況の中でメイヤーがジュディに示した言動は、複雑なルイ・B・メイヤーという人物のある一面を際だたせ、心に迫るものがあります。
Summer Stock”の撮影がジュディのために進捗しなかった当時、ジョー・パステルナーク は撮影を中止し損失の少ないうちに手を引いた方が良いとメイヤーに進言しますが、メイ ヤーはそれを聞き入れません。
 「ジュディ・ガーランドは良いときにはスタジオのために一財産稼いでくれたんだ。我々が してやれるのは彼女にもう一度チャンスを与えてやることしかない。今制作を中止すれば彼 女はおしまいだ。」
    彼女は何とか映画を撮り終えます。
解雇通告に端を発した自殺未遂の後、具合の良くなってきたジュディをメイヤーは見舞 います。彼女はそこで自身の経済的窮状を訴え、メイヤーは会社が金を貸してくれることを 請け合います。その場でニューヨークのスケンクに電話をかけたメイヤーですが、会話は長 く続きませんでした。受話器を置きながらメイヤーは言います。
 「スケンクさんが君は慈善病院に行った方がいいと言うんだ。我々は金貸し業じゃないとも ね。」
彼はちょっと考えてからこう言います。
「判るかい、彼らが君にこういう態度を取るということ は、私に対してもそうするってことなんだ。」
メイヤーはスケンクの態度を恥ずべきことだと言い、個人的にジュディの借金を肩代わりし ます。

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