2010年11月12日金曜日

ディアナ・ダービン その16 「 歌 」1

 これまで私はディアナ・ダービンの看板とも言うべき歌について、あえて触れることを避けてきました。その理由は、「厄介なもの」だからです。彼女の歌には単に「スターが上手い歌を唱っている」ということだけでは括れない複雑な事柄が関わっています。それを一つ一つ探って行くには、扱う順序と予備知識が重要になると思ったのです。しかし話を進めるためには、このへんで彼女の歌について考えてみないといけないようです。

 まず最初に、ディアナの歌唱力を考えてみます。

 映画の中で歌われる彼女のレパートリーは声楽曲から民謡、古謡、ポピュラー、ジャズまで幅広いのですが、基本はクラシックの発声と言うことになります。そこで、「彼女の歌はうまいのか」という話になれば、「うまいにはうまいが、一流のオペラ歌手に較べれば、声量、音域、声の響きなど、やはり見劣りする」と言う結論になります。しかし、「じゃあ、二流の声楽家レベルか」と問われると、必ずしもそうとは言えません。それは「歌の勘所においてうまい」からです。

 彼女の主声域は胸の下部から腹にかけ、横隔膜を中心に存在し、比較的大きな球状で偏りがなくしっかりした構造をしています。その結果彼女の歌は、そのパーソナリティに似て、深みがあり、力強く、まっすぐで、しかもしっかりした、非常にオーソドックスなものなのです。声量や音域といった技術的な問題で多少劣っていても、観客の心に響くうまさを十分に持っています。このあたりは、パステルナークがMGMで育て上げたディアナのエピゴーネン---キャスリン・グレイスンやジェーン・パウエル---と較べると良く分かります。

 彼女の歌というと歌曲や古謡がまず頭に浮かびがちですが、殊に成長してからはジャスやポピュラーも歌っており、かえってこういった分野の中に捨てがたいものがあります。”Lady on a Train”1945年)で歌われる”Gimme a Little Kiss, Will Ya, Huh?”や”Something in the Wind”1947年)での”The Turntable Song”は声や歌の深みと色気の混淆が何とも言えず魅力的で、こういった歌の方に「うまい」と言う印象を抱かされます。


 しかしより根本的な問題は、彼女の歌が上手いとか下手だというところにはありません。彼女の歌はスクリーン上のディアナのパーソナリティと分かちがたく結びつき、互いが互いを補完、補強する関係が成り立っています。その結果、クローズアップで映し出された彼女の顔と歌は融合した一つの「装置」として観るものに働きかけてきます。映画という枠を離れ、銀幕上から観客に直接訴えかけ魅了する強い力を持っているのです。しかも「装置」の力はそれだけにとどまりません。ディアナの歌は一種の神々しさでプロットの綻びや無理を覆い隠し、場面を鎮めていきます。観客は映画の楽しさも欠点も矛盾もすべてを許容したうえで彼女の歌に包み込まれ、至福の時を味わうのです。

 歌えるスターには多少なりともこのような力が備わっているものですが、ディアナ・ダービンの場合、とりわけ強いのです。

その結果がどうなったか。


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