2010年11月12日金曜日

ディアナ・ダービン その17 「 歌 」2

 娯楽映画の観客がスターのどんな「階層」を観ているかは複雑な問題ですが、ごく大まかに言うと、観客は「ストーリーの展開の中でスターを観る」レベルと同時に、「ストーリーを離れ、スター自身を直接観る」レベルで映画を観ていると思われます。とくにディアナ・ダービンの場合、後者のレベルが非常に強く、あえて言うと、観客は彼女と歌だけを観ていたいということになります。あとは「どうでも良い」のです。

 彼女を評して揶揄的に「突然歌い出す”Little Miss Fix-It”」という表現が使われます。「突然歌い出す」かどうかはまた後で考えたいと思いますが、仮に「突然歌い出す」としても観客は一向に気にしていない---大衆はディアナが歌う理由などにまったく無頓着である---ことに、制作を重ねていく過程で撮影所は気づいたのです。彼女の歌う場面の多くはバックの踊りも、歌うための劇的な設定もありません。必要ないと言うより邪魔なのです。観客の望むのは、たわいのない物語の中で、何の夾雑物もなしにクローズアップで歌う彼女の姿だけです。そこで味わった至福感がこの上ないものであったため、成長してからの彼女にも大衆はそれを求め続けることになります。

 しかし、たとえディアナと観客が直接結びついているように見えても、その間には必ず「撮影所が作る映画」という媒体が存在し、「利潤の追求」を伴っています。彼女が成長したシリアスな役柄をどれほど望んだとしても、大衆がそのことを望まなければ撮影所は動きません。かくして、ディアナ・ダービン自身の天賦の才が生み出した大衆との強い絆は、逆に彼女の変化の軛となっていきます。彼女の変化への志向は、撮影所や観客と三つ巴となって、右往左往を繰り返すことになるのです。



美しいという意味ではこれが一番。「ホノルル航路」より「アヴェ・マリア」


この人なりの色気がある、”Something in the Wind”より”The Turntable Song”



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