2010年11月27日土曜日

ディアナ・ダービン その22 「引退」

 結婚の後、出産、育児と続いたためか、この時期のディアナの公開作は少なくなっています。1945年は”Lady on a Train”のみ。翌461月に、チャールズ・ロートンと二度目の共演となる”Because of Him”が封切られた後は、「私はあなたのもの」(”I'll Be Yours” 472月公開)まで一年以上の空白があります。

 以後この作品も含め47年と48年に二本ずつの作品が公開されます。内容は、”Up in Central Park”1880年代のニューヨークを舞台にしたミュージカルの映画化である以外は、いずれも以前と変わらぬコメディタッチの作品です。しかしディアナには、スターとしての生活を続ける意欲がすでに消え失せていました。19489公開の「恋ごころ」(”For the Love of Mary; 実際の撮影時期は”Up in Central Park”より前)を最後に、彼女の映画はもはや制作されることはありませんでした。49年末には、36年から続いたユニヴァーサルとの契約も終了。両者間に金銭や制作本数を巡る係争があったものの、最終的にスタジオ側が折れる形で決着することとなります。

 ジャクソンとの離婚が成立したディアナは、50年に娘を連れフランスに移り住みます。同年12月にチャールズ・デイヴィッドと結婚、翌516月に長男のピーターを出産。以来、パリ近郊の農村Neauphlé-le-Châteauに居を構え、マスコミとの接触を断ったまま、今日に至るのです。

 

 但し1983年に、彼女は一度だけインタヴューに応じています。その内容は英国の映画雑誌”Films and Filming”に掲載されましたが、記事の中で、映画界を去る頃の気持ちを次のように振り返っています。

どうして引退したかですって? たとえば、最後の四本を観てご覧なさい。そうすれば、私が演じなくちゃいけなかったお話は、”出来が良くなかった”なんてもんじゃなくて、”どうしようもない”方に近いのが良くわかるわよ。ストーリーや監督について不満や希望を伝えても、スタジオはいつも受け付けてくれないの。私は最高のギャラをもらいながら、最低の題材を割り当てられてたの。今になって考えると、私の給料は、どこにも良いところのないこういった作品と付き合わなくちゃならなかったつらさの代償みたいなものね。


 相変わらずの辛辣さです。

 しかし、そういった「最低の題材」を観たファンからの手紙は、ビデオやDVDの普及と共にますますその数を増し、返事を書ききれないほどの数が今も彼女に届いているのが現実なのです。










60~61歳頃のディアナさん



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