2010年11月28日日曜日

ディアナ・ダービン その23 「with Judy」
















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「ジュディには初めからとてつもない才能が備わっていました。彼女はプロで、二歳の頃からステージに立っていたのです。彼女の後半生は悲劇かもしれませんが、彼女は決してあきらめなかったと思います。彼女には呼吸をするのと同じように観客が必要だったのです。」

 ディアナ・ダービンとジュディ・ガーランド、ラナ・ターナーの人生と映画を、対比しながら書いたらおもしろそうだと考えたことがあります。実際には、三人並べて書くこと自体が難しそうなので、そんな考えはすぐに捨てましたが、この生年もあまり違わぬ---ディアナ1921年、ジュディ22年、ラナ21年(20年?)---三人を、当初抱いていたイメージから、それぞれ良い子、普通の子、悪い子に当てはめる事ができそうだと思ったからです。

 もっとも、彼女らのことを調べてみると、とてもその様な図式通りにはいかないことがすぐわかります。私生活を覗いてみると、ディアナは別として、ジュディとラナのどちらが「悪い」かは一概には言えませんし、役柄から考えても、蠱惑的なラナが「悪い」のは一目瞭然としても、ディアナが良い子で、ジュディが普通と言い切ることはとてもできません。初めに私がディアナから抱いた印象は、「オーケストラの少女」と「アメリカーナの少女」だけからのものでした。そこでは彼女が親のためにつくす優等生としてのイメージしか感じなかったのです。ところが、彼女のすべての主演作を見てみると、その印象を大きく修正せざるを得なくなります。しかも、フィルム上のこととは言え、ジュディとの性格や設定の違いがかなり対照的なのにも気づくことになります。

 映画の上でのジュディは、暮らし向きは基本的に中産階級かそのやや下くらい。まあ、平均的なアメリカ人のそれと思われます。そうでないのは、「踊る海賊」のお姫様と”Everybody Sings”くらいではないでしょうか(「アンディ・ハーディー」シリーズに出てくるベッツィー・ブースも? 「カップル・オブ・スウェルズ」はナシね)。

 対照的にディアナはお金持ちの娘という設定の割合が相当高く(21作中8作)、さらに、貧乏な娘が最終的にお金持ちと結婚する(らしい)という作品を加えれば、「金持ち化率」はもっと高くなります。そういう意味で、ディアナの映画は大衆の夢を叶えるおとぎ話的な要素が強く、ジュディの出演作は当時のティーンエイジャーの等身大の生活に近いと言うことが可能です。

 役柄も対照的です。何度も書いたようにディアナは"Little Miss Fix-It”として、困難な状況を解決するため自ら果敢に行動していく積極性があります。そのため、時にはその場を取り繕うための嘘をつくこともあります。そういう意味ではとても良い子とは言えません。ただ、観客に「それも仕方がない」、「当然だ」と思わせる説得力を持っているのです。

 一方、ジュディは自分から積極的に動くことはありません。その違いは、ディアナとくらべると本当にはっきりしています。周囲の状況や他者の行動にまきこまれ、その中での反応として行動したり悩んだりするのです。そのため、他者と対立したり、説得しようとしての激しいやりとりも少ない傾向にあります。その違いは、ディアナの映画を観た後でジュディのそれとくらべると、ジュディの映画が、演技も含めて「静か」だという印象を直感的に抱いてしまうほどなのです。

 以前も書いたことですが、ジュディには彼女のペルソナを裏から支える批評性が内在し、周囲の出来事をどこか醒めた目で見ています。周囲の状況と薄紙一枚隔てた距離があります。それに対してディアナは、すべての出来事を「現実」として受け取め、自らそれに関わろうとしていきます。その行動の純粋さ(単純さ?)と積極性が観客に爽快感を与え、「おとぎ話」に一層のめり込ませていくのです。

 この違いは、両者が生活する「映画内世界」に設定された環境とも分かちがたく結びついており、「受け身の批評性」と「行動力の現実性」が、それぞれの物語にそれぞれの「真実味」を加えることになっているのです。


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