2008年1月31日木曜日

フレッド・アステア その7 「はら」

 下肢をコントロールする腹の使い方をを見てみましょう。


アステアの使う腹の範囲は、エレノア・パウエルほどではないが比較的縦に長い。


 「ジーグフェルド・フォリーズ」(
1946年)から”The Babitt and the Bromide”
 左はジーン・ケリー

 二人の腹の使い方はそれほど異なっているわけではありませんが、ケリーが比較的腹の下部(股関節周辺)でコントロールしているのに対し、アステアはもう少し上のみぞおち周辺までを「絞めて」います。

 距離にすれば大した違いのないこの腹腔内の絞め方が、実は二人のスタイルに大きな影響をあたえています。腹の下部のみを絞めると、ケリーのように重力に任せて中心軸をストンと落とした低い体勢が基本になるのに対し、アステアのように上部まで絞めると、自然に上方に向かってスッと立つ姿勢になっていきます。

 さらにこの体の使い方が感情にまで影響をあたえます。ケリーをまねると自然に何かいたずらでもしてみたくなるような快活さが生まれ、アステアの姿勢をまねすると、どこか乙にすました気分になるから不思議です。

 腹についてはこれ以上説明しませんが、これまでの記載を実際に自分の体で再現できる方ならご理解いただけると思います。


2008年1月29日火曜日

フレッド・アステア その6 「肩甲骨」

では指の先に棒を付ければどうなるか。
棒が腕の延長上にある骨と意識され、さしたる違和感もなく使いこなすことができるでしょう。

 ドラムのスティックです。


 「踊る騎士」(
1937年)の"Nice Work If You Can Get It" や「イースター・パレード」(1948年)の”Drum Crazy”で演じられるアステアのみごとなバチ捌きをご覧ください。

 
次は腕です。

 「有頂天時代」(1936年)から”Bojangles of Harlem”
 小さくて見づらく、もうしわけない。

肘や手首で加速しながら、それぞれの関節で連結された上肢がクランク状の運動を行っています。このとき腕全体が完全に脱力され、肩甲骨が滑らかに動くため、一見、腕に骨がないかのように波打って見えます。

骨で動きながら柔らかく見えるというパラドックス。
 写真一枚ではわかりにくいので、DVDで確認してください。

 こちらは肩甲骨から動き、腕全体を前に放り出すような動きです。肩甲骨の滑らかさと可動域の広さが確認できます。
 さて肩甲骨がリラックスしてこれだけ滑らかに動くと、その動きは骨盤に伝わり下半身を動かしていきます。(このように肩甲骨を駆動力とする動きは、最近ではマラソンの走法にも利用されているようです。)

この動きを使いこなしているとどうなるか。

詳細については避けますが、人体の正中面(中心軸を通り体を前後方向に通る面)に沿って右半身と左半身が独立に回転するような感覚が生まれます。 
 正中面がツルツル滑るガラス板だと想像してみてください。その表面に沿って右半身と左半身が別個に図の矢印のように回転していくのです。

 アステアが浮き浮きしたときに見せる、まるでスキップでもするかのような歩き方はこの動きから生まれて来ます。
























「踊る騎士」終盤、"Nice Work If You Can Get It"

ドラムを叩き終えたアステアはいかにも愉快そうに、軽々と歩き出します。その数秒をキャプチャーしてみましたが、写真では浮遊感がとらえらきれません。

ぜひ動く映像で確認して下さい。






























おまけ



2008年1月22日火曜日

フレッド・アステア その5 「細部に宿る」

 もちろん、人間の体は筋肉を使わず骨だけでは動きません。しかし、動作時に骨を直接動かす意識(または無意識)を持つことで、無駄な筋肉の緊張が起こらずリラックスした動きが生まれます。また骨を意識することで、普通一つの「かたまり」と考えられる体の部位をいくつかに細分化し、それぞれを別個に動かすことも可能になります。これら無駄な力の抜けた動きが、アステアらしい浮遊感や柔らかさのもととなるのです。


 少し具体例を挙げてみましょう。

 といっても、ここから先を考えるには解剖学の知識が少し必要になります。煩わしくならぬようポイントだけ書きますから、図も参考にして頭に入れておいて下さい。

  1. 「手のひら」はひとつの固まりのように見えるが、実は小さな骨(手根骨と中手骨)の集合であり、部分部分を分離して使うことが可能である。
  2. 腕は肩の端から指先までではない。実際に動かす場合、鎖骨や肩甲骨から指先までを腕と考えた方が動作を理解しやすい。
  3. 肩甲骨は肋骨が形成する胸郭の表面に乗っているが、直接肋骨に固定されているわけではない。周囲の筋肉とつながっているだけなので、リラックスさえしていれば肋骨の表面を滑るように移動させることができる。




まずは1の手のひら。

 映画「ブルー・スカイ」から”Puttin' on the Ritz”


 ちょっと小さくてわかりにくいですが、小刻みに両手の指を動かす動作です。単に指だけでなく、手のひらの部分にある中手骨を一つ一つ分離させて指と同様に動かしています。

 指と手のひらの骨を分離して滑らかに使っていくこの特徴が明らかになるのは、ダンスばかりとは限りません。



  これは「パリの恋人」のワンシーン。


 書棚から乱雑に放り出された本をオードリーと整理している場面です。書棚の反対側に据えたカメラの前にアステアの手が現れます。まるで本を指でつまみあげるような動作。書籍の重さを支えるには頼りないほどの持ち方ですが、それが柔らかさと軽さと繊細さを兼ねそろえた動きを生み出し、観る者を魅了します。


 日常のわずかな動作にさえ表現されるアステアらしさ。
まさに「アステアは細部に宿る」です。


2008年1月15日火曜日

フレッド・アステア その4 「骨」

「軽やかな身のこなし」

「観る者を包み込むような柔らかさ」 

  ひとくちにアステアの踊りは「比類がない」と形容しますが、この「比類のない」と言う言葉が指し示すのは、おおよそ次の三つのことがらです。一つは表面的 な踊りの様式やスタイルについて。二つ目はより本質的な体の動かし方や(意識的にしろ無意識にしろ)自己の身体に対する認識の仕方について。そして三つ目 は上手さのレベルについてです。

 この三つを個々に論じることはもちろん可能ですが、実際は相互に影響しあっているため、分離不能なものです。たとえば体の動かし方や認識がある状態になれば、結果としてそれはダンスの上手さのレベルにも結びつけば、踊りの様式をも規定することになります。

 しかしここでは便宜上最も基本的な、体の動かし方や認識の問題について考えてみたいと思います。


 人間の身体運動のタイプを、ごく大雑把に中心軸優位の「軸型」と腹優位の「腹型」に分け、それぞれの人を分類していけば、フレッド・アステアは当然「軸型」にあてはまる人です。優れた身体能力を持つ人で「軸型」の人はたくさんいますが、実際のところアステアに似た人は果たしているのでしょうか。

 ブロードウェイのダンサーについてあまり詳しくありませんが、私が今まで見たミュージカルのダンサーで、アステアに似た人はいませんでした。クラシック・バレエのダンサーはそれこそ「軸型」の宝庫ですが、やはりその動きはアステアと異なっています。

 現代は違うが、過去においてはアステアのスタイルが一般的だったと仮定することも可能ですが、実際に年齢の近いジェームズ・キャグニー(1899年生まれ)、ジョージ・マーフィー(1902年)、レイ・ボルジャー(1904年)の踊りと較べても、それぞれにレベルもスタイルもまったく異なっています。

 ではヴォードヴィル時代からアステアが影響を受けていた黒人タップダンサーはどうだったか。少なくても彼の尊敬するビル・ロビンソンとも違いますし、他のタップ・ダンサー達の残された映像からも似ている人を見たことはありません。

 日本に目を向ければ、「踊りの神様」と呼ばれた七代目坂東三津五郎(今の三津五郎の曽祖父)が似ていると言われることもあるようです。確かに無駄な部分を捨てて軸や腹のみで踊ることのできる三津五郎の踊りはアステアと本質的に共通した部分があるとも言えます。しかし、三津五郎の踊りが軽妙洒脱に向かうのと、アステアのエレガンスとはやはり趣が異なります。
 踊り以外の分野で現代の「軸型」の代表と言えばイチローや浅田真央あたりになるのでしょうが、踊らぬまでもその動作がアステアと似ているかどうかになると首をひねらずにはいられません。


 もちろん私が見た人の数は限られているので、どこかに似た人はいるのかもしれませんが、それでも似ている人がわずかなのは確かでしょう。どんなに優れたダンサーでも多少は筋肉の「におい」がするものです。


ところが、似ている「もの」を見つけました。

これです。




 16世 紀の解剖学者ヴェサリウスの名著『ファブリカ』 の挿絵です。なぜ骸骨に感情表現をさせているのか知りませんが、その結果、「筋肉を失った究極の存在」としての骸骨を、生き生きとした情感を持ったものと して見取ることができます。泣いたり悲しんだりしているのは少し邪魔ですが、アステアの軽みのアナロジーになっています。

 こんなことを書いていると 「それはおまえがそう感じるだけだろう」とか、「骨に似ているからって、それが何なんだ」といった反論が返ってくるかもしれません。もちろんこれは感性の 問題なので、証明しろと言われてもむずかしい。

「そう感じるからそうなんだ」としか答えられないのは確かです。


 しかし真正面からの証明は難しくとも、傍証ぐらいはある。

そして、骨を考えることでアステアの動きの秘密が少しずつ解ってくるのです。


2008年1月13日日曜日

フレッド・アステア その3 「経歴 2」


 なかなか「簡単に」はまとめきれませんでしたが、

 要するに彼のショービジネスでの人生は次の三つの時期に分けられます。
  1. ヴォードヴィル芸人からミュージカルスターに登りつめた「舞台の時代」(1906年-1933年)

  2. スタジオシステム全盛期のミュージカル黄金時代を駆け抜けた「映画の時代」(1933年-1957年)

  3. 主に演技者としてTVや映画に出演したほか、TVのショー番組も制作した「余生の時代」(1958年-1981年)


 「舞台の時代」のほとんどは姉アデールとのコンビです。この時代は、ダンスの上手さはすでに高い評価を得ていたものの、明るく華やかで機転のきく姉の陰に隠れ、どちらかと言えば目立たない存在だったと言われています。実際アデールが結婚し彼一人になるときは、これまでの地位を維持できるのかとずいぶん悩んだようです。この時代の演技やダンスは映像がほとんど残っておらず、雑誌や新聞の批評から推察するしかありません。

 次の「映画の時代」で特筆すべきは、すでにエレノア・パウエルの項で書いたように、単にミュージカル黄金時代に彼の活躍期が重なったと言うより、アステアの登場そのものが黄金時代を生んだ一因であるということです。ジンジャー・ロジャースとのコンビはまさにハリウッド・ミュージカルのイコンです。さらにその二十五年に近い期間、ミュージカルスターとして常にトップを維持し、最後まで良質の作品に出演し続けたことは驚異と言ってよいでしょう。この時期のすべての作品がビデオやDVDで発売されているのも人気の証です。

 「余生の時代」の始まりは、メジャー各社が財政上の理由からミュージカルの制作に消極的になった時期と一致しますが、年齢的にもダンサーとして引退を考える時期でもありました。ただ1960年に制作されたTVショー「アステア・タイム」を観ても、ダンサーとしていささかも衰えた印象はありません。さすがに、68年の「フィニアンの虹」では年齢による衰えは隠しようがありません。同年のTVショーでもパートナーのバリー・チェイスは、ダンスにそれなりの配慮をしなければならなかったと証言しています。

 このようにアステアは、初期のヴォードヴィル時代を除き、人生の最後までをトップスターとして歩んでいます。しかもその踊りは、単にミュージカル・ダンサーとしての範疇を超え、各界の人々から「神技」とも形容できるほどの賞賛を得ています。亡くなってから後もますます彼のダンスに対する評価が高まっていることは、ダンサーとしての彼がまさに驚異と言ってよい存在だったことを証明しています。


 それでは、このへんでもう一度彼の身体にたち帰り、アステアのダンスの因って来る秘密を探ってみたいと思います。


フレッド・アステア その2 「経歴」


 大上段に振りかぶっておいて肩透かしを喰った気になるかもしれませんが、ここでアステアの経歴について触れたいと思います

 とは言え、すでに「アステア  ザ・ダンサー」(ボブ・トーマス著、 武市好古 訳;新潮社)や「フレッド・アステア自伝 Steps in Time(篠儀 直子 青土社)が上梓され、ネット上にも多くの記載があるためここでは簡単に書いておきます。


 フレッド・アステア ( 本名Frederick Austerlitz)は1899510日、ネブラスカ州オマハに生まれる。オーストリア移民の父フレデリックに、母ヨハンナ(後にアンと改名)、二歳年上の姉アデールの四人家族。二十世紀初頭の禁酒運動の高まりの中、醸造所勤務の父親が失業。これを機に、幼い頃よりダンスに非凡な才能を示すアデールのため進んだレッスンを受けさせようと、母と姉弟は19051月、ニューヨークに移る。

 ダンススクールに通いだした姉弟は、同年11月には早くもプロとして舞台に立ち、翌1906年からは”The Astaires”としてヴォードヴィルの全米巡業に参加。1909年に一旦舞台を離れ、二年間正規の学校教育を受けた後、1911年末から再びヴォードヴィルに参加。次第に頭角を現し、1915年より各地の一流劇場に出演するようになる。

 191711月には初めてレヴュー「オーヴァー・ザ・トップ」でブロードウェイに進出。以後もレヴューやミュージカルに出演し、二人の踊りは観客や批評家から絶賛を博す。1922年「ザ・バンチ・アンド・ジュディ」で初の主役をつとめた後は、ニューヨークとロンドンを行き来しながらガーシュインら一流作曲家の作品で次々とロングランを記録。ブロードウェイのスターに登りつめる。1932年、姉アデールが英国のキャヴァンディッシュ卿と結婚し引退。独りになったフレッドはミュージカル「ゲイ・ディヴォース」で成功した後RKOと契約。舞台を離れ活躍の場をハリウッドに移すことになる。

 1933年、MGM作品「ダンシング・レディ」に本人役でゲスト出演した後、RKOの「空中レヴュー時代」に出演。脇役ながらジンジャー・ロジャースと踊ったダンスが人気を呼び、二人のコンビで計九本の映画が作られる。とりわけ「コンチネンタル」(1934年)、「トップ・ハット」(1935年)、「艦隊を追って」(1936年)などの作品は興行的にも大ヒットし、RKOの財政的危機を救ったとさえ言われている。しかしコンビとしての人気も30年代末には翳りを見せ、興行収入も低下。さらにジンジャーが演技者としての道を望んだため、39年の「カッスル夫妻」を最後にコンビは解消。アステアもRKOを離れることになる。

 1940年以降、特定のスタジオと契約することなく各社の映画に出演。エレノア・パウエル、リタ・ヘイワース、ビング・クロスビーらと共演し、ミュージカルスターとしてトップの地位を保ち続けるが、46年のパラマウント作品「ブルー・スカイ」を最後に映画界を引退。好きな競馬とダンス・スクールの経営に専念する。

 1948年、足を怪我したジーン・ケリーの依頼を受け、代役としてMGM作品「イースター・パレード」に出演。映画界にカムバック。MGMとは53年の「バンド・ワゴン」まで契約を続け、この間、「土曜は貴方に」(1950年)、「恋愛準決勝戦」(1951年)などに出演。「ブロードウェイのバークレー夫妻」(1949年)では十年ぶりにジンジャー・ロジャースと十作目の共演を果たしている。

 1954年以降は再びフリーの立場で「足ながおじさん」(1955年)や「パリの恋人」(1957年)に出演。57年の「絹の靴下」を最後にミュージカルを離れ、「渚にて」(1959年)などの映画で演技者として活躍する一方、1958年から60年にかけテレビで三本のワンマンショーに出演。エミー賞を獲得するなど好評を博す。1968年、ワーナーで最後のミュージカル作品となる「フィニアンの虹」に出演。MGM黄金時代のアンソロジー「ザッツ・エンタテインメント」(1974年)で、ミュージカル映画の素晴らしさが再認識されると、「ザッツ・エンタテインメントpartⅡ」(1976年)ではジーン・ケリーと共に司会として登場し、健在振りを見せる。81年までテレビや映画に出演を続けたほか、同年4月にはAFI(アメリカ映画協会)より生涯功労賞を授与されている。


 1987622日肺炎のため死去。享年88


2008年1月12日土曜日

フレッド・アステア その1 「ガール・ハント・バレエ」

















まずは定番・・・・・・このかたち
アステアのお相手はもちろんシド・シャリース


  「フレッド・アステアの代表作は?」と問われれば、候補として必ずその名が挙げられる「バンドワゴン」(監督ヴィンセント・ミネリ 1953年)。最高かどうかは別として、後期の秀作であることに間違いはないでしょう。と言っても、ここで問題にしたいのは映画そのものではありません。同作の終盤、舞台公演の形で演じられるプロダクションナンバー「ガール・ハント・バレエ」(マイケル・キッド振付)です。
 ミッキー・スピレーン風探偵小説にミネリ好みのシュールな感覚を加えたこのダンスは、秀作揃いの同作品プロダクションナンバー中でも「最高」と讃えられています。しかしこのナンバーを最初に見た頃から、何とも言えない違和感が私の中にありました。

 べつに、ここでアステアの踊りがよくないとか、振付がまずいと言いたいのではありません。アステアは相変わらず上手いし、シド・シャリースは美しい。酒場の雑踏シーンでのダンサーの動きは躍動的で、猥雑なエネルギーに満ちています。 
 でも何かが変。何かが足りません。まるでどこかに「スカスカ」とした隙間があるようです。料理に喩えれば、「美味くはあるが何か一味たりない・・・・・・・・けれどそれがスパイスなのか、ダシなのかよくわからない」

そんな風に感じていました。

では何が足りないのか?


  これです





 バーのカウンターを背に、敵に銃を向けるアステア。


 当初彼はこのナンバーに気が進まず、自分にうまく踊れるのかと不安を口にしていたといわれています。それでも踊ってしまえばそれなりの水準に仕上がるのは、もちろんアステアの実力あってのことですが、技術では覆いきれない根本的な欠落がここにあります。それは何か。

 アステアの体が貧弱に見えるのです。

 ハードボイルド小説の探偵と聞くと私が無意識に期待してしまうのは・・・・・・・・「厚い胸板」、「頑丈な顎」、「太い腕」。そして、こういった肉体から発するタフで自信に満ちた暴力性と、孤独なセクシャリティー。しかしこのナンバーに見るアステアの体からは、これらの要素がみごとに抜け落ちています。 
 ナンバー全体を通してどこか「スカスカ」した違和感がぬぐいきれなかった原因は、この「豊かな筋肉から発する身体性」の欠如だったのです。

 歌舞伎で役者の個性に合わない役を演じることを、その役者の「人(にん)にない」と言います。どんな名人上手でも、その人の柄に合わない・・・・「人にない」・・・・役をやると、なんとなくしっくりこない。たとえ下手な役者でも、個性と役柄がぴたりと合えば見栄えがするばかりか、役の本質をも充分表現することができる。ちょうどそれと同じことが起きています。 この探偵はアステアの「人にない」役だったのです。

 フレッド・アステアについて語るにあたり最初に「ガール・ハント・バレエ」を持ち出したのには理由があります。それはこのナンバーが、彼の身体にはおよそ暴力やセクシャリティーを表現すべき筋肉の質感が欠けていることを明らにしているからです。ダンスの上手さや振付の斬新さでは隠し切れないこのアステアの身体的特質は、彼のダンスが性と暴力で象徴される「現代」を表現できないという限界を露呈させています。しかし、まさにそれだからこそ、アステアのダンスが時間を超えた「永遠性」を獲得した理由をも同時に語っているのです。

 仮にアステア自身が自らその身体を選び取ったことで「時間を拒否した」と言えばあまりに恣意的に過ぎ、「時間から拒絶された」と書けばあまりに擬人化に過ぎた表現かもしれません。しかし現代を表現できないことを代償に獲得したそのダンスの永遠性こそが、まさに、アステアの踊りを他に較べるもののない最高の存在たらしめているのです。

 では、筋肉を失ったアステアをアステアたらしめている身体の本質とは何なのでしょう。


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