2010年8月15日日曜日

レスリー・キャロン 自伝 その25 「おわりに」

 このへんでレスリー・キャロン著  ”Thank Heaven: a memoir” の紹介も終わりにさせていただきます。
 通してみると、彼女自身の人生というより、彼女の目を通したMGM関係者の「肖像」のようになってしまいましたが、元々私自身がレスリーに余り関心がないため、仕方がなかったかもしれません。ケリー、アステア、ミネリにフリードと、もうその「人となり」としか言えないやり方で仕事をしていたことだけはお解りいただけたのではないかと思います。

 彼女の人生はこの後、ウォーレン・ベイティとの恋愛、三度目の結婚と離婚、うつ病やアルコール依存の克服、ホテルの経営など紆余曲折がありますが、二十一世紀になってからも映画への出演やエミー賞の獲得と活躍を続けたことは明記しておく必要があるでしょう。


2010年8月14日土曜日

レスリー・キャロン 自伝 その24  「恋の手ほどき 5」

MGMの通りを歩いていたレスリーはアンドレ・プレヴィンに呼び止められます。

「まだ聞いていないと思うんだけど・・・・・・君の歌は吹き替えになるみたい」

「何ですって?」

びっくりして声も出ません。

「ええ、聞いてないわよ。本当なの?」

「アラン・ジェイ・ラーナーとアーサー・フリードは映画の公開前にレコードを出したいと思ってるんだ。君の歌声じゃ商売にならないと考えてるんだよ。君の歌はベティ・ウォンドが吹き替えることになってるんだ。フランス訛りも真似てね。」

 私はこの知らせに打ちのめされました。確かに私は専門的な歌の訓練を受けていません。でも音程は確かだし、”Say a Prayer for Me Tonight”を歌うために一生懸命努力を重ねて来たのです。”I Don't Understand the Parisians"や”The Night They Invented Champagne”が男の子の様にがさつなのは、少しお転婆な思春期の少女を表現するためだったのです。彼女にとってガストンはただの仲間で、ちょうどガストンにとってもジジがうら若き女性に成長していることに気づいていないのと同じことです。声にセクシャリティが欠けていることこそ、映画に説得力を持たせるために必要だったのです。

 今日に至るまで、ウォンドさんのとってつけたようなフランス訛りのかわいらしい歌声を聞くと胸が痛みます。ミュージカルナンバーの撮影は私自身の声を流しながら行われていたので、フリードが吹き替えを選ぶなんて考えてもみませんでした(50年たった今になって、MGMDVDに私の声を入れています---ひどい)。

 ショックを受けた私はすぐにアーサー・フリードのオフィスに飛んで行きました。

「アーサー!!

いきり立った私は話し始めます。

「まあ、座りたまえ」

座ると再び怒り全開です。

「アンドレに会ったら教えてくれたの。吹き替えになるんですって? そんなことないわよね!!。 私に知らせもしないで、もう一度チャンスをくれもしないで、そんなことをするはずないわよね!!

アーサーは立ち上がると指を立てて言いました。

「ちょっと待っててくれ」

彼はデスクのわきを通り、ドアから出て行きました。10分間ほど一人で部屋にいた後、私は立ち上がり秘書室まで歩いて行きました。

「マージ、アーサーはどこ?」

「まあ、キャロンさん」

彼女は驚いたように言いました。

「彼、言わなかったの? 10分ぐらい前にお宅へお帰りになったわ」

対面して問い詰めることはもう出来なくなったのです。

 アーサーに怒りをぶつけたいと思いながらも、私はいろいろと考えていました。彼こそ私をハリウッドに呼び寄せてくれた人だということ。そしてジョージ・バーナード・ショーの劇作のミュージカル版に「マイ・フェア・レディ」という題名を思いついた天才だということを。

レスリー・キャロン 自伝 その23  「恋の手ほどき 4」


 「マキシムでの撮影は悪夢でした。凍えそうなスケートリンクから熱気に満ちたマキシムのサロンへの移動で、ヴィンセントはひどい風邪をひいていたのです。

 エントランスの通路からダイニングまで人で溢れかえっていました。照明器具やケーブルや音響設備を設置する技術者、ウエイターの持つお盆より大きな帽子をかぶり、イヴニングドレスを着たレディたち。メイク係が紳士方の額の汗をぬぐうなか、けたたましい音楽が何度も繰り返され、混乱に拍車をかけていきます。

 ヴィンセントは端にいて、ルイと私の来店シーンを何度も繰り返させます。演技はきわめて簡単なものです。給仕長が先導してテーブルの間を縫って進み、私たちをテーブルに着かせるとメニューを差し出すだけです。

 ヴィンセントが何に不満でイライラをしているのか誰にも判りませんでした。ついに彼は怒鳴り出します。

 『誰かその男にメニューの持ち方を教えてやれ!!』

 気まずい沈黙が流れ、第一アシスタントが耳元でささやきます。

 『ミネリさん、この人はマキシムの本物の給仕長です』」


 ハリウッドに戻った後も足りないシーンが撮影されていきます。レスリーのナンバー”I Don't Understand the Parisians”もクローズアップを撮影するためスタジオにリュクサンブール公園に似せたセットを作り、池には白鳥も二羽浮かんでいました。

 「ヴィンセントは私にナンバーの最後の部分を何度も繰り返し演じさせます・・・・三回・・・五回・・・十回・・・・。私にはどこがいけないのかどうしても判らないのです。聞いても何か言いたそうな表情を浮かべるだけで、判で押したように同じ言葉を繰り返すのです。

 『もう一度やってごらん、エンジェル』。

 私は訳がわからなくなり、吐き気さえ催して来ました(当時は娘のジェニファーを身ごもっていたのです)。

 十九回目のテイクの後、ようやくヴィンセントは大声で言いました。

 『カット! よくできた!』

 勝ち誇ったような笑顔で彼は私の方を向きました。

 『白鳥が素晴らしかった』


 白鳥がライバルとは思いもしませんでした。」


 ある時点から、レスリーとミネリは親しい友人となります。彼女は孤独なミネリの家をしばしば訪ね、母のいないライザのため、初デートでは彼女にお化粧をしてあげる存在になったのです。


レスリー・キャロン 自伝 その22  「恋の手ほどき 3」

 この本ではまったく触れられていませんが、実は19571月、レスリーはミネリが監督することに賛成できない旨の手紙をフリードに送っています。

 内容は「ミネリのことは尊敬しているけれど、彼のもとでは自分自身を十分に表現することができない」ため、「監督はデヴィッド・リーンかジョージ・キューカーにしてほしい」というものでした。フリードはしばらく悩んだ末、彼女の要求をきっぱりとはねつけます。好き嫌いにかかわらず、ミネリの監督の下で撮影にはいってもらおうと考えたのです。

 以下は再び彼女の本から、撮影時のミネリについての思い出です。

 「ヴィンセント・ミネリは『あっちへ行ってしまう人』でした。撮影の間は夢の中にいるようになり、周囲のことが何も見えず、聞こえなくなっているのです。」

 撮影中に愛する祖母の危篤の報を聞き、レスリーは二日間の休みをもらい病床に駆けつけます。最期を看取った彼女はパリに戻り、コンコルド広場の撮影現場を訪ねます。

 「ヴィンセントは私を見ようともせず、完全に仕事に没頭していました。

 『どうだい、エンジェル?』

 心ここにあらずなのに、それでも親切そうに彼は聞きました。私は同情の言葉を期待しながら溜め息をついて言いました。

 『悲しいわ、ヴィンセント。祖母が亡くなったの。』

 ヴィンセントはリハーサルの動きを目であてもなく追いながら、微かに微笑みました。

 『そうかい・・・それは良いね、エンジェル・・・それは良い・・・』


 私は彼に恨みを抱く気にもなりませんでした。」


2010年8月13日金曜日

レスリー・キャロン 自伝 その21  「恋の手ほどき 2」

 実際にパリで行う撮影はMGMにとってもフリードにとっても初めての試みでした。野外ロケには天気、交通、騒音、テレビのアンテナ、警察への撮影申請と障害となるものはいくらでもあります。とりわけ57年の夏は天候も不順で、撮影はわずかな晴れの間に行わねばなりませんでした。それでも撮影監督のジョセフ・ロッテンバーグ、衣裳、美術、プロダクション・デザインのセシル・ビートンなど選りすぐったスタッフや素晴らしい俳優たちのもと、撮影は進行していきます。

 レスリーは自らを戒めます。

 「この環境は危険なほど完璧だわ。配役はすごいし、ジョー・ロッテンバーグのカメラワークは美しすぎる。脚本も音楽も歌詞もとっても素敵。衣裳はとってもエレガント。気をつけなくちゃ。マヨネーズを腐らせちゃダメよ。みんなこれで満足したり、良い気になっちゃいけないの。」


 彼女はシャンゼリゼにほど近いホテル・ラファエルの二階のスイートルームを与えられます。ホテルは撮影隊の本部にもなり、最上階に衣裳、メイクアップの各部門や、ドレッシング・ルームに事務室が置かれることになります。


レスリー・キャロン 自伝 その20  「恋の手ほどき 1」

 フランスの作家コレット原作の”Gigi” (恋の手ほどき)は、1950年にフランスで映画化され、51年にはブロードウェイで劇化(主演はオードリー・ヘプバーン)されたコメディです。レスリーは「リリー」(1953)撮影時に自身がフリードに映画化を提案したと書いていますが、実際はMGM内部でも51年頃から企画が出ていたようです。しかし映画化権の獲得や検閲との調整、脚本の完成に時間がかかり、撮影は57年の夏からようやく始まることとなります。

 この間レスリーは565月にイギリスの舞台で主役のジジを務めますが、演出のピーター・ホールと恋仲になり二度目の結婚。翌年には初めての子供クリストファーを授かることになります。


 「恋の手ほどき」の映画化が報道されると、オードリーは夫のメル・ファーラーと共にアーサー・フリードを訪ね、映画でもジジを演じたいと申し入れます。フリードはレスリーのために書かれた脚本であることを伝え断りますが、オードリーにミュージカルをやりたい気持ちがあるのなら力になれると言い出します。彼はすぐに電話を取るとパラマウントにいるアステアを呼び出したのです。

 「やあ、フレッド。次の映画の相手役を探してるって聞いてるけど、ここにぴったりの人がいるんだ---オードリー・ヘプバーンさ!」


『パリの恋人』が作られることになります。