2010年2月25日木曜日

ジュディ・ガーランド その22 「終わりに」

 ジュディ・ガーランドの短い人生をたどり、思いついたことを書いているうちに、この回も長くなってしまいました。この愛すべきスターのMGMでの隆盛から哀れな最期までを眺めてみると、結局、彼女の才能の不思議に行き着かざるをえません。

 ジュディの胸から腹にかけて、彼女の歌の原動力となるとんでもない「装置」が備わっています。この「装置」がこの世に現れた理由が単なる生物学的偶然なのか、神の恩寵なのかはわかりません。しかし現世の肉体がこんなとんでもないものを引き受けたために、熱狂と喝采を一身に受けつつ、ジュディ・ガーランドは結局不幸な人生を歩むはめになったのです。

 いろいろ意見はあるでしょうが、彼女の不幸は一義的には彼女自身に責任があると私は思っています。しかし他方で、彼女にこれほどの才能がなければ、このような不幸のきっかけも生まれなかっただろうとも考えているのです。


 手元に一枚のCDがあります。ライナーノートもない粗製のCDで、英国で録音された晩年の歌が集められています。声の状態はお世辞にも良いとは言えず、曲によっては声が硬く萎縮して、「ちびた鉛筆」のように感じられるものまであります。にもかかわらず、そういった歌の中から彼女の良い部分を探している自分を見ると、なぜか落語の「千両みかん」が頭に浮かんで来ます。

 恋患いで衰弱した若旦那は、真夏に蜜柑が食べたいと言い出します。大旦那の命を受け 番頭は江戸中を探し回りますが、冷凍設備もない時代、見つかるわけがありません。 ようやくある問屋の蔵にたどり着いた番頭は、すでに腐りかけた蜜柑の山から奇跡的に数 個の無傷なものを見つけ出すのです。

 この番頭の姿が、衰えた彼女の歌の中からそれでもどこかすばらしいものはないかと探し続ける自分自身の行動と重なってくるのです。どんなに歌がひどくとも、わずかに残った優れた部分に目を向けさせるのも、ジュディ・ガーランドのもつ魔力のなせるところかもしれません。

  噺の方はまだ続きがあります。

 残った蜜柑につけられた値段が、なんと千両。慌てて大旦那にお伺いを立てると、「病気 の息子のためなら」と、いとも簡単に大金が支払われます。しかし蜜柑を与えられた若旦那 は、ほんの数ふさ食べただけで、後はいらないと番頭に手渡すのです。 廊下で蜜柑を手にした番頭は、自分の給金と蜜柑の値の理不尽を思い、何を勘違いし たのか、蜜柑を手にいずこともなく逐電してしまう。

というのがオチです。


 落語の番頭には落ち行く先があったのでしょうが、われわれにはそんなところはありません。

 彼女の歌と映画を残されたわれわれは、ただその場に立ちつくすだけです。


ジュディ・ガーランド その21 「本態」

 一般に歌手ののどが老齢などを理由に衰えると、それまで即座に出せた音が時間をかけないと出せなくなります。ある音程の音にたどり着くまでに、その音符 よりいくらか低い音から始まって---実際にはわずかな時間でしょうが---ゆらゆらと本来の音程まで昇っていくのです。この「ゆらぎ」が聴衆には非常に 不安定な印象を与えると共に、そこに生じるタイムラグがリズムやテンポを狂わせ、歌を一層聞くに堪えないものにしていきます。

 しかしジュディ・ガーランドの場合、そうはなりません。確かにのどは衰え声はよれよれになっていますが、音程やリズムはさして狂っていないので す。声は弱々しいながらも歌の「形態」として崩れがないため、聞く者は彼女の歌の世界にスッと入って行けます。その結果、彼女の歌からあらゆる夾雑物や装 飾を取り除いた果ての「ジュディ・ガーランドのエキス」とも言うべきものを聴衆は味わうことになるのです。

 彼女が元気なときに陥りがちな、声量いっぱいに張り上げる「悪癖」もありません。横隔膜上の奥まった一点から、音の一つ一つを聴衆の心に そっと「置いていく」とでも表現したい歌い方。これこそ歌の心を文字通り聞く者の心に伝える歌唱です。音符と一つになった言葉の「単位」が重 みを持ち、聴衆の胸に沈んでいきます。


 彼女の身体が衰えた後に、なお残る歌の本態。

 「上手さ」の極北がここにあります。




2010年2月23日火曜日

ジュディ・ガーランド その20 「衰弱」

















196411月、最後のパラディアム公演

 冒頭、わずかな風に吹かれて浮遊するかのごとく現れます。少女時代の特徴であった、大地をしっかりと捉える足、腰はそこにありません。地面とのつながりを失い力なく漂うその姿に、彼女の歳月の移ろいを感じます。


 1960年代中盤から亡くなるまでのジュディ・ガーランドについては、ネット上に多くの映像が残されています。必ずしも時間軸に沿って偏りなく残っているわけではありませんが、これらの映像を見ていくことで彼女の経年の変化を知ることができます。これから、残された映像を参考に、ジュディの死に至るまでの身体と歌を考えてみたいと思います。


 50年代末から、ジュディののどは荒れ、声のガサツキも目立ってきます。しかしこの頃は体にも力があり、「少し声がザラついている」といった程度でさして気にもなりません。62年から64年にかけてのTVショーの映像を観ても、この時期としてはそれなりに充実した内容だと思われます。
 しかし時間の経過とともに声帯とのどの周囲の筋力が衰え、のどを通した歌声が弱々しくなっていきます。それでも65年から66年にかけては、まだ外見も健康そうで、主声域を形成する体幹部に力があるため、歌い上げる場面では声もかなり出ています。

 それが67年になると、痩せて容貌も衰え、歌声はさらに弱々しくなっていきます。声帯自体が弱くなっているばかりか、主声域が硬く棒のようになり、この人の最大の持ち味であった声の「上下への伸び」が感じられません。時期により異同もありますが、身体各部位の連動が乏しく、体幹部中央の主声域のみが別個に活動しているように聞こえることがあります。

 68年になると、歌う時も椅子に座ったままの映像が多くなり、体力の衰えは隠しようもありません。声はさらに弱まって、かつての迫力や声量がないことが歌い出しから明白になっています。若い頃の歌声が耳に残っている「虹の彼方へ」や「トロリーソング」などを聞くと、その落差には複雑な思いを抱かざるをえません。



 しかし、不思議なことに「衰え」がそのまま「下手」になっていない場合があるのです。

2010年2月15日月曜日

ジュディ・ガーランド その19 「カーネギーホール」

















コンサートの終盤、アンコールに応えるジュディ


 1961423日、カーネギーホールで行われたコンサートは、ジュディ・ガーランドの60年代における仕事のうち、最大のメルクマールと言えるでしょう。公演自体、新聞、雑誌等で絶賛されますが、そればかりではありません。すでに書いたように、この模様を録音した二枚組LPは、ビルボードのヒットチャートで連続13週にわたり一位の座を守ったばかりか、ヒットチャートに95週とどまるという快挙を成し遂げます。さらに、五つのグラミー賞に輝くなど、まさに社会現象と言ってもよい出来事だったのです。このコンサートは現在も二枚組のCDとして発売されており、全部で(休憩も入れて?)二時間半と言われるコンサートのほぼ全容を知ることができます。

 このCDを聞きながら、「ジュディ・ガーランドという存在が何であったのか」考えていきたいと思います。


 この公演の歌だけを取り上げれば、「最高の出来だと言うほどのことはない」というのが私の印象です。もちろんジュディの歌唱の内で最良の部類にはいることは否定しませんが、他に隔絶して優れているとまでは言えません。

 しかしここで問題にしたいのは、歌の出来の良し悪しではなく、ジュディ・ガーランドという存在が持つ、大衆(観客)との交流に関するきわめて特異な能力なのです。


 すでに語られていることですが、このパフォーマンスは彼女の力だけで成り立ったものではありません。カーネギーホールを立錐の余地もないほどにした3165人の観客、さらにその背後に控える多くの大衆に支えられたものです。会場はジュディのファンや友人によって埋めつくされ、その声援の暖かさがCDからも伝わってきます。この雰囲気の中で彼女は普段より「気を入れて」歌います。他の歌手なら緊張して声を張り上げたり硬くなったりするのでしょうが、彼女は違います。ここ一番と言うときのジュディは、逆に柔らかく心をこめて歌うのです。

 ジュディ・ガーランドの胸から腹の一部にかけ、大きなカプセル状の「装置」が備わっています。一言で言えば「主声域」なのですが、他の凡百の歌手と違うのは、この装置のエネルギー密度の高さです。副声域をほとんど聞き取れなくしているほどパワーがあるのです。
 この「装置」が上下に伸縮可能であることはすでに述べましたが、それだけではありません。彼女が心をこめて歌うとこの主声域の力が非常に強く発揮され、一種の「粘り」とも言える弾性をもって観客の胸に貼りついていきます。口から出た声を通して伝わるのではなく、観客との感情の交流がほとんど直に胸を通して行われるのです。このように胸を通して瞬間的に大衆を「絡め取っていく」能力は、ジュディ・ガーランドの歌手として、スターとしての重要な特性の一つです。


 しかしこの感情の流れは、ジュディから観客への一方的なものではありません。この日詰めかけた観客の多くは、おそらく彼女のMGM時代の映画を思春期や青年期を通して見続け、ともに成長してきた40歳前後の人々と思われます。それは61年の時点で言えば、せいぜい二十年前の出来事です。
 40年代には週に八千万から九千万の人々が映画を観に行っていたわけですから、その時代の人口を考えると、おそらく映画を観に行ける環境にあった人はほとんど皆が毎週映画館に通っていたと推測されます。彼らは人生の最も多感な時期に、ジュディの映画を観てともに笑い、泣き、そして歌を楽しんできました。彼らの心の中には、彼女へのあこがれが人生における期待や不安、喜びや悲しみと結びついた形で渦を巻いています。そういったジュディ・ガーランドへの思いは、郷愁を帯びた巨大なエネルギーとなって、復活した彼女に降り注いで行くのです。


 彼女の観客に与えるエネルギーと観客から降り注がれるエネルギーは無限の循環を重ねてふくれあがり、劇場内の空間を満たし、さらに社会を巻き込んでいきます。この時点でまさにジュディは、大衆が抱く夢や希望をエネルギーとして循環させる巨大なシステムの中心に存在し、「リアクター」としての役割を担っていたのです。


 これが、カーネギーホール・コンサートにおける彼女の「存在の意味」であったと思われます。


 しかしこれは生身の人間にとって余りにも過酷な役割です。彼女の肉体がこの役割を担えるだけの時間は、もはやそう長くは残されていません。


2010年2月14日日曜日

ジュディ・ガーランド その18 「転落」


 肝臓疾患のためしばらく静養したジュディは、健康を取り戻すとともにステージ活動を再開。614月、ツアーの最後を飾るカーネギーホールでのコンサートは大反響を呼び、その模様を録音した二枚組アルバムが7月に発売されると、ヒットチャートで13週連続ナンバーワンという快挙を達成します。
 また、同年の映画「ニュールンベルク裁判」ではシリアスな演技が評判を呼びますが、後に主演した「愛の奇跡」(1963)と”I Could Go on Singing”1963)の二作は内容も地味で興行成績も上がらず、彼女の最後の映画となります。


 63年秋、和解したCBSで「ジュディ・ガーランド・ショー」の放送が始まります。コンサートツアーに較べ身体的負担も軽く、多額の収入がえられるショーの継続に彼女も期待しますが、視聴率が伸びないことなどを理由に、番組は翌年3月で打ち切られます。

 645月のオーストラリア、メルボルン公演では、開演を大幅に遅らせたばかりかまともに歌うこともできず、大変な不評を買うことになります。帰国途中の香港では自殺未遂を起こし、昏睡状態に陥ります。回復はしたものの健康状態は再び悪化。
彼女の人生もこれ以降、急激な下降線をたどって行きます。


 655月には、50年代末から離婚にまつわる訴訟合戦を重ねていたラフトと正式に離婚。9月、骨折を理由にロサンゼルスでのコンサートをキャンセルしたことから、友人や業界からも完全に見放され、仕事も少なくなります。
 67年、フォックスから出演依頼のあった映画「哀愁の花びら」も、お定まりの撮影トラブルのため解雇されてしまいます。


 事態はさらに悪化していきます。

 声量も落ち喉も荒れて、かつての歌のレベルはもはや望めません。体力の低下も明らかとなります。体のふらつきが強まり、椅子や柱などの支えがないとステージで立っていられません。薬物やアルコールによる攻撃的な言動はさらに友人を失なわせます。
税金の督促ばかりか、代金の未払いやコンサートのキャンセルに対する訴訟も多く抱え、更に、それらを処理する弁護士やエージェントへの未払い金も加わり、借金が膨らんでいきます。時に食べる物にも事欠くようになります。ホテル代を払わぬためブラックリストに載せられ、友人宅を泊まり歩くという惨めな境遇にも陥ります。


 ナイトクラブ出演などでなんとか生活を続けていたジュディは、1969622日、滞在先のロンドンで死亡しているのを五番目の夫により発見されます。死因は睡眠薬の過剰摂取、死亡時刻は同日未明と推定されています。
 47歳でした。



 627日、ニューヨークで執り行われた葬儀には、二万二千人以上の人々が参列したと云われています。


2010年2月7日日曜日

ジュディ・ガーランド その17 「あなどれない」


















「スター誕生」から“Lose That Long Face”
「陰気な顔をせずに明るくいこう」と歌い踊ります。

 このナンバーは他の曲に比べ、あまり話題にされることがありません。監督のジョージ・キューカー自身もさして重要視していなかったらしく、撮影も振り付家任せだったそうです。歌の内容に合わせ、皆と楽しく踊っていると云うだけで、なんら新しい趣向があるわけでもありません。


 しかし、ことジュディの身体を考えるにおいて、このダンスは重要だと私は考えています。


 これまでにも多くの作品で彼女は踊ってきました。"Presenting Lily Mars”ではフィナーレでチャールズ・ウォルターズとかなり長い時間踊っていますし、ケリーやアステアとも共演しています。相手はそれぞれトップの実力を持つ踊り手なので、較べてしまうと、本格的にダンサーとしての訓練を受けていないジュディには分の悪いものになります。
 まあ、「意外と踊れるな」とか「ぼろを出さずにそこそこ踊っている」というのが正直な感想でした。彼女に関する記事を読んでも、振り付けを一度見ただけで覚えてしまう記憶力の良さについての記述はあっても、稽古法やダンスに関する彼女の考えなどに出会ったことはありません。


 しかしこのナンバーの彼女を見ると、技術やテクニックではない基本的な身体能力のすばらしさに驚くことになります。タップとしてはさして複雑なステップではないのでしょうが、全身がリラックスして余分な力が入っておらず、重力に逆らわずに落ちた腰が安定し、体が動いても重心があまりぶれません。とくに股関節周辺がリラックスして非常に柔らかく、体内筋群で操作しながら、ステップにあわせ下肢を放り出すように使っています。

 このリラックス感と必要な筋肉のみで体をコントロールする能力は、ジョージ・マーフィーやキャグニーなど、おそらく彼女よりダンスの訓練を専門的に積んだと思われる人々が、結局手に入れることができなかったものです。彼らはそれを他のテクニックで「ごまかし」、自分の個性にしていくしかなかったのです。

 このように無駄な緊張に束縛されない身体は、彼女の歌や演技にも大きな影響を与えていると思われますが、ここではこれ以上の推測は控えておきます。


 ジュディ・ガーランドの踊りはあなどれません。
 (あなどっていたのは私だけか?・・・・・・)



2010年2月5日金曜日

ジュディ・ガーランド その16 「荒涼」
















The Man That Got Away”

 映画「スター誕生」のため、ハロルド・アーレンが作曲しアイラ・ガーシュインが作詞した名曲。以後彼女の代表曲の一つになります。

 本来なら映画で歌われるシーンを持ってくるところですが、これは1962年、シナトラ、ディーン・マーチンと共演したテレビのスペシャル番組でのワンシーン。写真では分かりませんが凝ったセットで熱唱しています。

 映画のシーンを出さなかった理由は----こちらの方が良いから。

 The Man That Got Away”はさまざまなところで歌われ多くのヴァージョンがあるため、これが最高と言うつもりはありません。しかし、私が見聞きした範囲では最良の部類に入るのではないかと思います。
 映画より抑えた導入部の歌い方は柔らかい中に深みを湛えています。50年代に比べのどが荒れ幾分弱々しい印象もありますが、それがかえって「荒涼感」といってもよい雰囲気を醸しだし、心のすさみや悔恨、哀しみが聞く者の胸に迫ります。


 映画ではまだジュディに体力があるため、力強い声で歌い上げています。まるでよく切れる日本刀をブンブン振り回しているような印象で、その迫力に聞いている者はつい後ろへ下がってしまいたくなります。


 「うまさ」については、また後で取り上げることになるでしょう。



ジュディ・ガーランド その15 「スター誕生」
















 「スター誕生」はジュディ・ガーランドの50年代での仕事の内、目にすることのできる数少ないものの一つです。ときにジュディの最高作という意見も聞かれますが、実のところ私はあまり好きではありません。

 現在観ることのできる作品は、大幅にカットされた上、カットした部分をスチル写真と残った音声で補うという無残なものなので、作品の出来自体をどうこう言うのはフェアではありません。ただ残った部分(こちらの方が当然長いわけですが)を観る限り、非常に良くできた映画であることは間違いありません。演技、撮影、美術、セット、音楽・・・お金をかけきちんと作られている----そのことは否定しません。

 でも何か違和感がある。

 その違和感の理由を考えていくと、この映画がきわめて「50年代的」であるということに行き着きます。

 彼女がこれまで出演した映画のほとんどは、いわゆるミュージカルコメディの範疇に入るものです。そこでは登場人物を包み込む人間関係や風景、音楽は明るく暖かで、善意に満ちています。登場する人物は善や悪に明瞭に色分けされ、観客は余分なことを考える必要はありません。ストーリーや心理描写は単純化され、ハラハラさせながらも最後は観客の期待する結末に向かって収束します。

 このようなミュージカルコメディの手法で描ける世界や人間関係は限定され、伝えることのできる意味はシンプルです。 では、ミュージカルコメディは単純でつまらない子供だましの作品にしかならないのでしょうか。
 そんなことはありません。記号化された単純な人物同士のありきたりの反応を積み上げたその果てには、観客の夢や希望や喜びを豊かに育む世界が現出します。観客は温かな湯に浸かるような安心感と心地良さの中で、歌やダンスを楽しみ、人生において最も大切な愛や幸福感を味わうことができるのです。

 しかし「スター誕生」はそういったたぐいの映画ではありません。

 ジェイムズ・メイスン扮するアル中で落ち目のスターと、ジュディ演じる新人女優を中心に織りなすストーリーは、最終的には二人の愛情物語に収斂されます。しかしそれはメイスンの自殺なくしては成り立たない物語です。その過程には、怒りや屈辱、哀れみに嫉妬、悲哀と悔恨など複雑な感情が立ち現れ、交錯します。まさにそれまでのミュージカル映画では描くことのできなかった題材です。

 ある特定のジャンルが成熟すると、更なる表現や題材を求めて革新が始まります。そして新しい題材とそれを描くための表現方法が見つけ出されたとき、そのジャンルは新たな段階へと進化するのです。ミュージカルもその例に漏れません。「明るく幸せな」世界を描くミュージカルコメディから脱皮し、複雑な人間の内面や葛藤を描こうとする潮流-----「スター誕生」はまさにその一歩を踏み出したことによってきわめて50年代的作品です。

 しかしそこでは、まだ過去の表現法を引きずっています。

 色鮮やかに画面に映ったすべてを見せる撮影、書き割りやスクリーンプロセスとわかる風景、きっちりと明瞭にしゃべるセリフ術----これらがドラマの持つ現実感を薄めていきます。ミュージカルコメディでは違和感のなかったこれらの表現方法は、リアルで生々しい感情を描こうとするときにはその足かせとなるのです。深刻で複雑な感情をそれに適した表現方法で描ききることが出来ないとき、題材と表現は乖離し、映画全体の印象をどこかよそよそしくします。私にはまるで登場人物が(映画で描かれる)世界から疎外されているように感じられるのです。そんな映像世界にプロダクションナンバーが挿入されると、それ自体の出来の良さにもかかわらず、作り物めいてそこだけ浮いてしまいかねません。


 新たな題材を得ながらまだ真にその表現方法を獲得していなかった過渡期の大作----「スター誕生」はそういう作品です。

2010年2月3日水曜日

ジュディ・ガーランド その14 「パレス」


 MGMをクビになったジュディ・ガーランドはニューヨークで後に三番目の夫となるシド・ラフトと知り合います。ラフトは、一時エレノア・パウエルの愛人兼秘書を務め、B級映画のプロデュースなどもしていた人物でした。ミネリのように洗練されたインテリジェンスはありませんが、周囲を動かして突き進むヴァイタリティを備え、生きる方向を見失っていたジュディには最適の人物だったと思われます。


 撮影時のトラブルが知れ渡り、映画会社から声の掛からない彼女に、ラフトはイギリスでのコンサートを勧めます。19514月から5月、ロンドン、パラディアム劇場での公演は大変な反響を呼び、評判はアメリカにも伝わります。その結果5110月から翌年2月まで、ブロードウェイのパレス劇場で彼女を中心としたヴォードヴィルショーが行われますが、この公演は大衆が待ち望んだジュディ復活劇として、伝説となるほどの大変な評判を呼ぶことになります。

 パレス出演の後は全米各地を巡演しながらラジオ出演も続け、私生活ではミネリと正式に離婚すると共に、ラフトと結婚。5211月には娘ローナを出産します。


 19539月、彼女はワーナーブラザースでミュージカル「スター誕生」の撮影を開始します。
   ジャック・ワーナーの信頼を得て、ラフトをプロデューサーとして制作されたこの映画は、相も変わらぬジュディのトラブルに、途中で撮影をシネマスコープに変更するという問題も加わり、撮影期間十カ月、制作費五百万ドル以上という文字通りの「大作」となります。
 映画自体は批評家から絶賛されますが、公開一カ月で客足が落ちると、観客の回転を良くするため撮影所は上映時間三時間以上のフィルムを勝手に三十分も短縮。内容も物足りないものになり、監督や出演者を嘆かせることとなります。

 最終的に映画は制作費を回収できず、ジュディに期待されたアカデミーの主演女優賞もグレース・ケリーにさらわれてしまいます。

 長男出産後554月よりコンサートを再開したジュディですが、薬物の使用や不安定な精神状態は変わりません。体重が増え、それを揶揄されることが増えていきます。テレビ出演時のトラブルのためCBSとの連続契約も打ち切りとなります。それでもMGM時代からの贅沢な生活を変えようとしないため出費は重なり、働いても借金が膨らんでいくようになります。体調も悪化し喉も荒れ、56年頃からしゃがれた声が目立つようになります。

  59年には倦怠感から入院。肝炎による肝機能の低下で余命は五年とまで言われるようになるのです。