2011年9月25日日曜日

杉村 春子 その4

 もう少し細かく観ていきましょう。

 杉村春子のセリフは明瞭で、声には突き抜けた華やぎがあります。頬から喉の周辺にかけては細かい筋肉がずっしり詰まったような充実感が感じられますが、かなりの鍛錬によって創られたのではないかと推測されます。しかし、鍛えた事に伴う硬さが少しも感じられません。喉から胸まで、力がスッと抜けているのです。このように彼女の身体は、基本構造がしっかりとしているにもかかわらず無駄な力が抜け、その結果、観る者に解放感や爽快感を与えると共に、演技を非常に自然なものと感じさせるのです。

 言葉は喉を通り、力みのない胸に降りていきます。この時胸部を「感情伝達のスピーカー」のように使い、セリフに乗った気持ちを直接観客の胸に伝えていくことがこの人には可能です。このときの伝達力の強さも杉村春子の特徴の一つです。さらに、セリフが通る「抜けた胸」は、声の華やぎも相まって、彼女特有の色気の源泉になっています。

 日常の軽い会話や心情の吐露、依頼や哀願は通常この胸を使った演技で行われています。他方、意志や建前の表明、説得、自分の運命を呪うといった強い感情表現となると、腹中心の演技に変化していきます。ただし、杉村春子の場合、他の人のように、ただ単に腹を使うのではありません。感情が「胸から腹に流れ落ちる」かのように胸と腹が連動するのです。腹をスタティックに使うと言うより、胸から腹の奥深くへダイナミックな流れが生じるのです。このため腹を使った演技にも、たんなる強さや深みだけでない、「色気」や「真情」のニュアンスが加わってきます。

 

2011年9月23日金曜日

杉村 春子 その3

 これまでいくつかの項で書いたように、歌唱や演技が腹を中心に行われると、そこには深み、落ち着き、信頼感、強い意志や怒りと言った要素が表現されるようになります。対照的に、胸を中心に行われると、歓び、悲しみ、悲哀、優しさなどの感情が、観客へ直かに、自然なかたちで伝達されていきます。杉村春子はこの胸と腹の使い分けが非常に上手く、しかもそれぞれの要素の作りが強力であるため、明瞭に伝達されるうるという特色を持っています。

 もう少し彼女の身体全体を見ていきましょう。

 画面や舞台に登場した杉村を見た瞬間、観客が直感的に受ける感覚とはどんなものでしょう。小津作品で彼女は気さくな親戚のおばさんとして良く登場します。それではそういった時の明るさ、さっぱりした物腰、親近感などでしょうか。
確かにそういった感情をわれわれが呼び起こされるのも事実です。しかしそれは、あくまでそのような役を演じている上でのこと。もっと奥深くに、役柄を越え、「演技者 杉村春子」としての存在と、それによって、観るものを揺り動かす情動があります。

 それは何か。

 厳しさとそれに伴う周囲の緊張です。

 杉村の体には明らかに中心軸が存在します。しかしそれはバレリーナのように体を訓練して作り上げたものではありません。おそらく、生来備わっていたと思われます。中心軸と言っても体の背側に近く、「背骨」と言っても良いような位置にあります。この軸が文字通り「バック・ボーン」となってこの人を支えています。この中心軸が確固として存在する時、周囲の「場が締まり」、ある種の厳格さや威厳に支配されます。その結果、周りの人々は「緊張」を味わいます。役者、杉村春子はこのようにして演技の場を支配し、観客を絡め取っていきます。

 しかし、もう一つ重要な要素があります。腹です。軸のように表立ってはいませんが、彼女の腹はしっかりとして安定感があり杉村の存在を裏から支えます。その結果「厳しくはあるが落ち着いて、信頼できる」存在としての杉村春子の骨格が出来上がります。

杉村 春子 その2

 私が杉村春子の身体に初めて気づいたのは小津安二郎の「浮草」(1959)を何度目かに観た時でした。「浮草」は小津がホームグラウンドの松竹を離れ、大映で撮った一作。出演者の顔ぶれはもちろん、演じられた「激しいドラマ」からも、普段の小津作品とは違った印象を受ける映画です。

 紀州の海辺の町にやって来た旅回りの一座の座長、駒十郎(二代目 中村鴈治郎 )は、この町で一膳飯屋を営むお芳(杉村)を久しぶりに訪ねます。二人の間には二十歳になる息子(川口浩)がいるのですが、「伯父」として通し、息子も駒十郎を実の父とは知りません。ここから、一座の女優で駒十郎と良い仲のすみ子(京マチ子)の嫉妬や、座の困窮を動因に物語は進展していきますが、杉村が登場するのはあくまで自宅である飯屋の中だけ。訪ねてくる駒十郎や息子を介した受けの芝居がほとんどです。















  映画の終盤、一座の若い女優、加代(若尾文子)と出奔した息子を案じ、駒十郎とお芳が語り合う場面です。

 期待していた息子の軽はずみな行動に落胆し、悪し様に言う駒十郎に対し、お芳は半分自分に言い聞かせるように「あの子はきっと帰ってくる」と強く言い切ります。この時の杉村の体の使い方は、この後、駒十郎の「三人で一緒に暮らそうか」の言葉に、「そうしてくれる? ありがと、ありがと」と優しい口調でたたみかける部分と明らかに違っていたのです。

 どう違っていたのか。

 前者が腹の底まで通るように深く体を使ってセリフを言っているのに対し、後者は胸を主体に、軽やかに、しかし心をこめて語っています。
  この違い---「杉村春子は言葉と状況に反応して身体を使い分ける」---に気づいてから、彼女の演技が少しずつ明らかになってきたのです。


2011年9月21日水曜日

杉村 春子 その1

 突然ですが、杉村春子 先生であります。

 こういう希有な演技者の身体はどうなっているのか、一度書いておきたいと思ったことが理由と言えば理由なのですが、書いたからと言ってそれが誰かの役に立つのかどうか・・・・・・。
まあ、「私はこう考えています」と言ったところで、ご勘弁を願いたいと思います。

 杉村春子の舞台を私は見たことがありません。テレビに出ている姿は知っていますが、出演作を丹念に追いかけるようなファンでもありません。残りの知識と言えば、脇役として出演する昔の日本映画程度しかありません。その名声は確立され、今さら「大女優」だの、「名演」だの、ことごとしく言い立てる必要もない。そういう存在でありました。

 ところが5月、たまたま衛星放送で伊藤大輔の「反逆児」(1962)を見て、「ヘェェェー」と驚かされたのです。そこに現れた杉村春子の演技は、これまでTVや映画で見知っていたものとは異なっていたからです。













 彼女演じるは、今川義元の姪であり、かつ、信長に切腹を命ぜられる松平信康(中村錦之助)の母---築山御前 。名家に生まれた矜恃と時の流れに翻弄される屈辱を、傲岸と息子への偏愛の中に浮きたたせる演技は、普段見知った「市井の人」を演じる際のそれとは質を異にしたものでした。これまで知っていた彼女の出演作をさしずめ「世話物」とすれば、「反逆児」は「時代物」。その時代物らしい大仰さの中に、時と人間が切り結んだ瞬間の火花を杉村春子の身体が見事に表現していたのです