2010年1月22日金曜日

ジュディ・ガーランド その13 「L.B.」 続き


 このようなエピソードにもかかわらず、ガーランドは長年にわたり彼女の抱える多くの問題の責任はひとえにルイ・B・メイヤーにあると吹聴していました。彼女の言うところではメイヤーは、彼女を働かせるために薬を与え、体重を減らすために薬を与え、眠らせるためにまた薬を与えたというのです。

 実際のところ二人の関係を他の人々はどう考えていたのか、”Lion of Hollywood The Life and Legend of Louis B. Mayer “から抜粋してみました。

ベティ・コムデン 

「彼女は彼が災いの原因だと思っていたのよ」


 しかし、ジュディがワーナーブラザースかパラマウントで働いていれば、こんなひどいことは起きなかったろうと云う世間の考えを、アーサー・フリードは即座に否定します。

「こういった権力の迫害論はだな・・・・・・・・まず第一に、彼女が病気になったり入院したとき
治療費を払ったのはメトロだ。ルイ・メイヤーはすべての面倒を見てやったんだ。」 

ジョージ・シドニーも同じ意見です。

「スタジオが何らかの形で彼女をズタズタにしたと多くの人が考えているが、そりゃあナンセ
ンスだよ。彼女の私生活は問題が多すぎたんだ。」

 ガーランドはメイヤーが彼女を膝の上にのせようとしたり、感触を楽しむために尻を触ったと言っていました。

これに対してキャサリン・グレイスンは言います。

「気をつけた方がいいわ。ジュディは飲んでたのよ。彼女は酔っぱらうとよく突拍子もない
ことを言ってたの。彼はそんなこととをする人じゃないわ。彼はいつでも父親のように振る 舞っていたの。私に対してと同じような気持ちでジュディに接していたのよ。彼は私にそん な風に触ったりしなかったし、そんな風に考えもしなかったわ。人はレディならレディとして 扱われるの。そしてもしふしだらな女なら、ふしだらな女として扱われるの。それに彼はふし だらな女が嫌いだったのよ。」

アドルフ・グリーンの考えです。

 L.Bはジュディのさまざまな問題の象徴のようになっていた。でもルイにその責任を押し つけることができるのかわからないよ。どれ一つとして悪魔のごとく計画されたわけじゃない んだ。 スタジオの首脳たちは悪魔のように冷酷な判断を下していたと誤解されている。でも 彼らは ただ単に映画を作ろうとしていただけだよ。

『これを試してごらん。 うまくいかない?  じゃあこれは・・・・』 

いたいけない子供を怪物に変えるように計画してたわけじゃない。たまたま結果としてまず い扱いになったんだ。
ジュディ・ガーランドは偉大な歌手であり役者だが、過酷な人生を背負った不幸な女の子 だった。」


最後に娘のローナ・ラフトの著作の言葉を。

「振り返ってみると、母はL.B.メイヤーのことを人生の最後まで好きだった。MGMをやめ てからの十年間、母は自分自身に降りかかったことでL.Bを責めたことはなかった。母は 彼のことをいつも懐かしげに私たち子供や父に話していた。MGMに在籍していた間、母が病 気になると入院費を払ってくれたのはL.B.メイヤーだった。もう母が彼のためにこれ 以上映画を作ってあげられないとわかったときでさえも。」




















1952年、MGMにラナを訪ねたジュディ
契約解除後もこういうこともあったのかと思うと、なぜかほっとします


ジュディ・ガーランド その12 「L.B.」


 1945年から50年まではMGM在籍期間の最後です。しかし、私の心にかかるのは、なぜか彼女の歌や演技ではありません。彼女とL.Bメイヤーにまつわる事柄です。

 ジュディの混乱と期を一にしたのは偶然としても、そもそも40年代末期は、MGMにもハリウッドにとっても激動の時代の始まりでした。

 反トラスト法による制作・配給と興行部門の切り離しは撮影所の財政基盤を脆弱にします。また、48年に100万台に達したテレビの普及は、観客数減少というかたちで大きな影響を及ぼすようになります。46年から48年にかけ週に9000万人いた映画館の入場者が、49年には7000万人、50年には6000万人と激減するのです。さらに終戦後の社会や人々の変化は、MGMの不得意な西部劇やフィルム・ノワールと言ったジャンルの人気となって現れます。

 このような変化による興行収入の落ち込みに対し、ニック・スケンクはメイヤーを時代に対応できない「滅びゆく恐竜」と見なし、追い落としを謀ります。制作部門の責任者としてドーア・シャリーを送り込んだのです。互いのさや当ては撮影所に混乱を引き起こし、その過程でメイヤーは次第に追い詰められ、権力を失っていきます。


 こういった状況の中でメイヤーがジュディに示した言動は、複雑なルイ・B・メイヤーという人物のある一面を際だたせ、心に迫るものがあります。
Summer Stock”の撮影がジュディのために進捗しなかった当時、ジョー・パステルナーク は撮影を中止し損失の少ないうちに手を引いた方が良いとメイヤーに進言しますが、メイ ヤーはそれを聞き入れません。
 「ジュディ・ガーランドは良いときにはスタジオのために一財産稼いでくれたんだ。我々が してやれるのは彼女にもう一度チャンスを与えてやることしかない。今制作を中止すれば彼 女はおしまいだ。」
    彼女は何とか映画を撮り終えます。
解雇通告に端を発した自殺未遂の後、具合の良くなってきたジュディをメイヤーは見舞 います。彼女はそこで自身の経済的窮状を訴え、メイヤーは会社が金を貸してくれることを 請け合います。その場でニューヨークのスケンクに電話をかけたメイヤーですが、会話は長 く続きませんでした。受話器を置きながらメイヤーは言います。
 「スケンクさんが君は慈善病院に行った方がいいと言うんだ。我々は金貸し業じゃないとも ね。」
彼はちょっと考えてからこう言います。
「判るかい、彼らが君にこういう態度を取るということ は、私に対してもそうするってことなんだ。」
メイヤーはスケンクの態度を恥ずべきことだと言い、個人的にジュディの借金を肩代わりし ます。

2010年1月19日火曜日

ジュディ・ガーランド その11 「解除」

















Summer Stock”1950)より”Friendly Star”
ケリーへの思いを込めて歌います
だいぶ太っていますが、透けて見える純真さはドロシーの頃と変わりません



  19456月、ジュディは監督のヴィンセント・ミネリと二度目の結婚をします。


 「若草の頃」や「時計」の撮影を通じて信頼感を深めた二人は44年から同棲を続けていましたが、ホモセクシャルであるミネリとの結婚に周囲の賛同はなかなか得られませんでした。しかし、不安定なジュディを優しく保護し仕事につかせるにはミネリしかいないと考えられるようになると、スタジオも承認します。LB・メイヤーも出席しての結婚式の後、ハネムーン先のニューヨークで彼女は、二度と薬物を使わないことをミネリに宣言します。


 妊娠の判明したジュディは、「雲流れ去るまで」(1946)にゲスト出演した後、出産や育児のため194510月より翌年12月まで休養。この間463月に初めての子ライザを出産するなど比較的穏やかな状態が続きます。


 しかしミネリが監督する「踊る海賊」(1948)の撮影にはいると、薬物の使用や不安定な行動がぶりかえします。
 演技や歌への不安、ケリーに場面をさらわれるのではないかとの心配、さらには夫とケリーの仲さえ邪推し撮影は進行しません。意欲亢進や減量を目的に、さらに薬物の使用量が増えるという悪循環に陥ります。この映画以降、一つの作品中で彼女の体が場面ごとにやせたり太ったりするのがはっきりと見て取れるようになります。


  19477月には自殺未遂を起こし精神科療養所に入院。8月には治療を切り上げ一旦は落ち着いたかに見えましたが、結局その後も不安定な言動と薬物への依存は変わりませんでした。
 この後彼女は「イースター・パレード」(1948)、”Words and Music”(1948)、”In the Good Old Summertime”1949)、”Summer Stock”1950)に出演します。いずれも彼女の人気により収益を上げたものの、不安定な精神状態のジュディををなだめすかして撮影を続けさせる苦労は並大抵ではありませんでした。


  1948年、ミネリが別居の声明を発表。翌495月には期待の大作ミュージカル「アニーよ銃をとれ」の主役を降ろされます。さらに19506月には彼女のため撮影の進まない「恋愛準決勝戦」から降板させられたばかりか、給与の支払いも停止。彼女の自殺未遂をはさんで、ついに19509月、ジュディ・ガーランドとMGMとの間の契約解除が公表されたのです。


 19359月の初契約からちょうど十五年の年月が経過していました。


2010年1月17日日曜日

ジュディ・ガーランド その10 「貫禄」
















”For Me and My Gal”(1942)より”After You've Gone”


 ジュディ・ガーランドの歌声が「上方へ進展する伸びやかさ」から「下方に向かう深み」を中心とした大人の歌に変化した時期を特定することはなかなか難しいのですが、おおよそ、「青春一座」(1939)以降徐々に進行し、”For Me and My Gal”(1942)のあたりで完成されたと思われます。このように変わっていった原因が、成長に伴う心身の変化なのか、ロジャー・イーデンスらの指導によるものなのかは明らかではありませんが、この変貌により彼女は、歌を手段に役の内面をより深く表現できる歌手となっていきます。

 さらに1944年の「若草の頃」や「ジーグフェルド・フォリーズ」(撮影は同年7月)になると、歌の重心がより下方に移動して安定するばかりか、声の質自体も、それ以前の軽やかさからエネルギーの充実した力強さに変化しています。ジュディの歌は当然その後も変わってはいきますが、彼女の歌唱の原型はこの頃にほぼ確立されたと思われます。

 このような変化と同時に、少女期のジュディの特徴であった「足腰による大地のとらえ」が弱くなっていきますが、これは声の響きが上昇型から下降型に推移したためのある意味しかたのない変化かもしれません。ただしこの変化は、後年彼女の衰弱と共にかなりデフォルメされた形で現れることになります。









”Thousands Cheer”(1943)より”The Joint Is Really Jumpin' Down at Carnegie Hall”




 さらにこの変化と対になって、1943年以降の”Girl Crazy”や”Thousands Cheer”ではその身体に一種の「貫禄」さえ見て取ることができます。このため”Girl Crazy”では、すでにミッキー・ルーニーとの釣り合いがとれなくなっています。

 ミッキーが思春期のはつらつさを失い、いくぶん「とっちゃん坊や」化しているのに対し、彼女が美しさと存在感を増したため、「突っ走るミッキー」と「脇で支えるジュディ」の構造が成り立ちません。 ドラマの設定自体、いわゆる「裏庭ミュージカル」とは異なっていますが、容貌も含めた二人の身体の落差が大きくなり、すでにこれまでのミッキー=ジュディ コンビの枠組みを維持できなくなって来ています。ミッキー・ルーニーの人気凋落という事実も含め、後年の”Words and Music”を除いて二人の共演がこれで最後になったのも致し方ないのかもしれません。

2010年1月12日火曜日

ジュディ・ガーランド その9 「ラナ」

 スタジオ内での地位が確立されてから後も、ジュディは自分の外見にコンプレックスを懐き続けます。理由の一つは、同時期に人気を集め、友人でもあったラナ・ターナーの存在でした。ジュディは常にラナの美しさを意識し、我が身に引き比べていたと言われています。

 19402月に起きたラナ・ターナーとアーティー・ショーの駆け落ち事件は、ジュディとラナの友情にも影を落とすことになります。当時ジュディはショーに夢中になっていたからです。

 この辺のいきさつは、娘のローナ・ラフト原作の伝記ドラマ"Life With Judy Garland: Me and My Shadows" にも描かれていますが、ラナ・ターナーとのつきあいはこれで終わったわけではありません。

 今回、ターナーの一人娘シェリル・クレイン(ジョニー・ストンパナートを刺した本人)が書いた”LANA The Memories, the Myths, the Movies” (2008) に母親ラナ・ターナーとジュディの関係が書かれた一節を見つけましたので、以下に転載してみました。
 二人の関係が少しわかります。




















ジュディとラナ
1941年、ナイトクラブMocambo
姉に付き添われた中学生のようです

 「 ジュディと母は『初恋合戦』で共演した頃からとても親しかった。ジュディは母に対しちょっとした嫉妬心を抱いていたが、それにはいくつか理由があった。ルイ・B・メイヤーがジュディを『可愛いいせむしちゃん』と呼んでいたせいもあって、彼女は自分が母ほど魅力的ではないと思っていた。でも最大の理由はアーティー・ショーだった。ジュディは彼と結婚するつもりでいたのだ。母はずっとこのことに罪の意識を感じていたが、後になると、死ぬよりつらい運命からジュディを解放することになったと言っていた。二人の友情はアーティー・ショーに勝ったのである。

 ジュディと母はいつも一緒に出かけていた。二人ともマレーネ・ディートリッヒに首ったけだった。クスクス笑う女学生のように、二人はできる限りおめかしをしてサンセット通りのゲイクラブへ出かけたが、そこはディートリッヒが歌手のガールフレンドによく会いに行く場所だった。二人はその場の雰囲気に飲みこまれ、ディートリッヒがテーブルに呼んでくれると、興奮でゾクゾクしていた。

 ラナの母親もジュディの母親もいつも娘のそばに付き添い、存在感も大きかったが、それぞれの人生に与えた影響は正反対だった。ジュディの母親はステージママで、薬物がどんな影響を与えるのか知らなかったのだろう。今から考えれば恥ずべきことだが、当時は誰もスタジオがジュディにしたことを非難しなかった。彼女に鎮静剤と興奮剤を与え、結局悲劇につながったのである。母に対しては誰もそんなことを試してみようとしなかった。たとえ前の晩に遊び歩いていたとしても、母は時間通りに現れ、仕事の準備はできていた。彼女はエネルギッシュで覚醒剤をのむ必要などなかった。コーヒー一杯でも十分すぎるほどだったのだ。」














わざと怒っているのがラナ。左は当時つきあっていたトニー・マーチン
右はジュディと最初の夫、作曲家のデイヴィッド・ローズ


 上の文章で「死ぬよりつらい運命」とあるのは、ショーがラナの劣等感を刺激して追い詰め、教養を押しつけたことや、帰宅後の家事を要求し、おしゃれを禁じたことなどを指す。
 結局、結婚生活は四ヶ月しか続かなかった。


2010年1月11日月曜日

ジュディ・ガーランド その8 「出し過ぎ」

















同じく”Strike Up the Band”から”Do the La Conga”

 当時はやっていたコンガのリズムにのせロジャー・イーデンスが作った曲ですが、バズビー・バークレーは歌とダンスで6分になるこのプロダクションナンバーを、115人のダンサーを使いワンテイクで撮影するという「暴挙」にでます。13日間のリハーサルの末撮影は無事に終了しますが、これだけのために予算が94千ドル近く余分にかかったそうです。

 ダンサーの多くはとてもハイスクールの生徒には見えないふけた人ばかり。それでも青春の躍動感にあふれた楽しいナンバーです。ジュディとミッキーが二人だけで踊る場面では、遠巻きにして眺めている人たちの表情を見るだけでも楽しめます。

 とは言え、このナンバーで一番気になるのはジュディの胸の露出度。

 当時の粒子の粗いフィルムだからさほど目立ちませんが、今の鮮明なフィルムならセンセーショナルな話題になったのではないかと思います。

 彼女のバストの豊かさを味わえるのは大歓迎なのですが、倫理規定が厳しいこの時代にハイスクールの女の子という設定で、どうしてこれだけ胸のあいたドレスを着させたのか。ショーの主役だからという理屈も成り立ちますが、他の映画で(大人になってからも)これだけ胸の開いたドレスを着ていた記憶はありません。明らかに年上と思われる他の女性ダンサーたちの服装を見ても、胸の露出はほとんど目立ちません。

気になって夜も眠れません。



2010年1月10日日曜日

ジュディ・ガーランド その7 「二重の意味」

 これからこの時期の彼女について気づいたことを書いていきたいと思います。

















Strike Up the Band”1940)から”Our Love Affair”
ピアノの前のミッキーとジュディが恋について歌います。

 興行主が選ぶ最も収益に貢献したスターのランキングで、この年ルーニーは一位、ガーランドは十位。コンビとしての人気が最高の頃です。

 とは言ってもここで注目していいただきたいのはジュディの表情です。

 何か言いたげな含みを持った顔。

 明るく誠実でしっかりしていながら、一歩下がってミッキーを支える---これが、このコンビでのジュディが担う基本のパーソナリティです。しかしその裏で、彼女には相手と周囲を批評するなにがしかの辛辣さが常に同居しています。

 「それで良いの?」「本当なの?」「そうなのかしら?」・・・・・言葉にはならないかすかな問いかけが、彼女の表情からは絶えず発せられます。

 表情ばかりではありません。(耳が不自由な人用の)英語字幕を見ると、ジュディの笑いは時に、”giggling”と表現されています。日本語に訳せば「クスクス笑い」となるのでしょうが、彼女の笑いはそれとは少しニュアンスが異なります。のどの下を「クククク」と鳴らして笑うのです。

 この笑い方は相手の言動に賛意や好意を示す肯定的な意味を基本に持ちますが、同時に完全に相手の気持ちと同一化した普通の笑いと異なり、わずかに相手と距離を置いた、どこか冷めた批評性が内在しています。

 観客はこれらの複合的な意味を直感的に把握し、時代や社会が要求するヒロインの一類型の内部に、自分たちと同じ生身の人間の息遣いを感じ取り、共感し支持していきます。

 ルーニーをはじめ多くのアイドルが、その「賞味期間」を過ぎると急速に忘れ去られて行ったのに対し、ジュディ・ガーランドがその生涯を通じて人気を失わなかった理由の一つに、彼女が演じる人物が常に重層的な意味を表現していたため、真に観客との心の交流を持ち得たことが考えられるのです。

ジュディ・ガーランド その6 「成熟」












1942年、"Presenting Lily Mars” 撮影と同時期。

彼女の美しさが最も輝いていた頃です。


 1939年から1945年までの6年間は、ジュディ・ガーランドにとってMGM在籍期間中の第二期と言えます。この間に彼女は、「オズの魔法使い」までの少女らしさを脱し、美しい大人の女性へと変身していきます。

 その変貌に対する驚きは、当時の雑誌に「醜いアヒルの子から白鳥に」と言う表現がそのまま使われていることでも、うかがい知ることができるでしょう。その過程で、彼女の人気は一層高まり、「稼げるスター」としての信用も得て、スタジオ内での存在感はいやが上にも大きくなっていきます。

 この第二期をさらに、「青春一座」(1939)から”For Me and My Gal”1942)までの時期と、1943年の"Presenting Lily Mars”1942年撮影)から1946年の”The Harvey Girls”1945年撮影)あたりまでの二つに分けるのが適当ではないかと私は考えています。

 このように分類する第一の理由は、その前半が少女期を脱し美しさを増していく上り坂の過程であるのに対し、後半はジュディの美しさが---当然スターとしての価値も---その生涯において最も輝いた時期と言えることです。第二の理由は、必ずしもこの二つの時期の間に明瞭な境界があるわけではありませんが、彼女の歌声が「上方への伸び」優位から「下方への伸び」優位に変化し、大人の歌い手として成熟する過程に対応していることです。

 「歌の上手さ」にはさまざまな要素が絡んでくるので一概には言えませんが、上手さを背後から支える「身体構造としてのすばらしさ」という意味では、1940年代前半はジュディの人生において最も条件の良かった時期ではないかと考えています。

 他方、この期間は、薬物への依存がより激しくなるとともに、精神的にも不安定さが目立ち、撮影にも支障が出始める時期でもあります。

 遅刻や早退、欠勤や「すっぽかし」、さらには出勤しても控え室に閉じこもり撮影に参加しないなどのトラブルが年を経るほどに頻発。その結果、撮影期間が延び、制作費を押し上げる要因の一つとなります。それでも許されたのは、制作費の二倍から四倍近い興行収入を産みだす、彼女の高い人気があったからなのです。


2010年1月3日日曜日

ジュディ・ガーランド その5 「自然」

 この時期に限らず、彼女の生涯を通して変わらない特性の一つに、歌も演技も普通の会話もそれぞれが、明らかな境界がないまま、互いにスッと移行してしまう「自然さ」があります。
 たとえば演技の最中に歌い出す場合、ことさら歌うことへ体を「ギアチェンジ」させることなく、声を張るでもなく、なめらかに柔らかく歌い出されます。
 強いて喩えれば、アステアの「動作からダンスへ」の移行の自然さを、「演技から歌へ」の移行の自然さに置き換えたと言えるでしょう。

 このようなことが可能なのは、彼女の演技や会話がすべて体幹部主体に行われているからです。

 普通我々が会話や演技をするとき、自分の顔を意識し、口を使って言葉を発します。体幹部はあまり考えません。そこから歌い出そうとすると、腹や胸に力をこめ、声帯を絞って発声しようとします。ここに会話や演技と歌との間の「身体の使い方の段差」が生じます。これでは自然に歌に移行することはできません。

 ここで自分の胸の中央に大きな口があると想像してみてください。会話や演技でしゃべる時、常にこの口を使っていると考えるのです。
 ためしに何かの台詞や文章の一節をこの「胸の口」を使うつもりでしゃべってみればより実感が持てるかもしれません。

 次に、この口を使って歌い出してみてください。
 顔にある口を使ってしゃべっていた時と比べ、ずっと自然に歌に移行できるのはないでしょうか。

 もちろんこれは何の才能もなければ訓練も受けていない素人が簡単に試すことのできるレベルの話です。ジュディ・ガーランドが実際に行っている身体の使い方はより複雑でレベルが高いのでしょうが、それでも違いの一端は感じられるのではないかと思います。 たぶん・・・・・・


 時に、歌は別として彼女の演技はさして上手くないといった意見も聞かれます。
 しかし彼女の演技は、対象を丹念に掘り下げ、作り上げていく「名優型」のそれではないため、上手さがわかりにくいのではないかと思うのです。
 彼女の演技は対象を自分に引きつけ、役の後背に常にジュディ自身が透けて見えるという、言うならば「スター型」の演技です。しかし、どの役をやっても違和感がなくごく自然で、「役の寸法に納まって」おり、スターとしての臭みもないという意味では、とても上手い人だと思うのです。

 このようなことが可能なのは、彼女自身の存在の確かさはもとより、何をするにも力みのないその身体の自然さが大きく関与しているのです。
 とくにコメディのうまさは、この力みのない身体がないと成り立ちません。

 さらにこの力みのない自然さは、観客に与える意味のレベルにも影響をあたえることになりますが、これについてはまた後で触れることになるでしょう。


ジュディ・ガーランド その4 「のびやか」

 さてこのあたりで、この時期のジュディ・ガーランドについて考えてみましょう。

 「オズの魔法使い」までを、私は彼女のMGM在籍期の最初の区切りと考えています。

 年齢にして13歳から16歳(撮影時)。

 変わると言えば一作ごとに変わっているのかもしれませんが、まだ本来の太り気味の体型で、顔つきも快活な少女らしさを残しています。精神的にも安定し、撮影時のトラブルも起こしていません。また、ようやく人気が高まり撮影所内での地位も安定し始めた時期で、その後に比べ初々しい印象があります。


















Everybody Sing” (1938) から”Swing Mr.Mendelssohn”

 メンデルスゾーンの歌曲をスウィング風に歌い出し、教室をつまみ出されるばかりか、放校になってしまいます。彼女のコメディーセンスの良さがわかるシーンです。


 さてここで見ていただきたいのは彼女の立ち姿です(と言ってもあまり良い場面がキャプチャーできませんでしたが・・・)。

  しっかり足と腰で地面をとらえています。とらえた力は横隔膜を通してのびやかに上昇し、明るい歌声となって響きます。この大地からの力を素直に吸収しあくまでのびやかに響く歌声が、その明るい質感も含めこの時期のジュディ・ガーランドの他に換えがたい魅力です。

 主声域は声の重心が安定したままで上下に伸展していきます。この声の「伸び」は他の歌手と隔てるジュディならではの重要な特性の一つです。この後、成長に従い彼女の歌声は上方より下方への伸びが主になっていきますが、この時期はまだ上方への伸びが主です。そのため大人になってからに比べ歌の深みにはいささか欠けるものの、この年齢にふさわしい明るく素直なおおらかさが表現されるのです。


 さらに後の時期と比べ主声域が横に広い(あるいは副声域が力強い?)ため、体幹部の広い範囲を使って声が出ています。その結果としての声の豊かさは、声自体が持つ高いエネルギー密度も相まって、三十代や四十代よりかえって勝っているように感じられます。

 後の身体的衰えを考えると、「成長と共にだんだん上手くなりました」という一般論ではくくれない早熟の天才ならではの問題が、彼女の歌唱には隠されているのです。


ジュディ・ガーランド その3 「人気」

 MGMと契約したにもかかわらず、ジュディには一向に映画の企画がまわってきません。歌は上手いが外見に魅力がなく、年齢も13歳と中途半端なこの少女をどう使えば良いのか、スタジオ側も考えあぐねていたと思われます。
 ラジオ出演でつなぎながら、ようやく1936年、「アメリカーナの少女」という短編がディアナ・ダービンとの共演で制作されます。年齢の近い二人の少女が観客にどう受け入れられるかを探り、どちらを残すか判断する目的だったようですが、契約の切れ間にディアナ・ダービンはユニヴァーサルと契約してしまいます。

 L.B.メイヤーの思惑とは違い、結局ジュディがMGMに残留することになったのです。


 彼女が最初に出演した長編映画は、MGMではなく、二十世紀フォックスに貸し出されてのミュージカル”Pigskin Parade” (1936) 。
 


 














農場の純朴な女の子を、自然な演技で好演しています。


 以後、「踊る不夜城」(1937) や”Thoroughbreds Don't Cry” (1937)で飾らない人柄と歌の上手さが大衆に浸透してくると、人気も次第に上昇。1938年には初の主役となる”Listen, Darling”を含め三本の作品に出演すると共に、大作ミュージカル「オズの魔法使い」の主役ドロシーにも抜擢されます。

 19398月に公開された「オズの魔法使い」は、制作費高騰のため利益は産まなかったものの大変な評判を呼び、ここにジュディ・ガーランドの人気は完全に確立されることになるのです。


 しかしこの間、彼女を生涯悩ますことになる問題の萌芽が、すでに現れています。

 

 契約直後の193511月、信頼していた父を亡くし、もともと上手く行かなかった母との間にいっそうの葛藤を抱えるようになります。

 さらにスタジオからは体型をスリムにするためダイエットを強制されたばかりか、過密なスケジュールに耐えて仕事が続けられるよう、覚醒剤(当時の法律では違法ではない)や睡眠薬を与えられるようになるのです。


2010年1月2日土曜日

ジュディ・ガーランド その2「生い立ち」

 ジュディ・ガーランド(本名 フランシス・エセル・ガム)は1922610日、ミネソタ州の田舎町グランドラピッズに生まれます。

 父フランクはヴォードヴィルの歌手、母エセルはそのピアノ弾きとして出会い、結婚。グランドラピッズに転居した後、映画とヴォードヴィルを興行する劇場を経営するようになります。

 ジュディは二人の姉---7歳上のメリー・ジェーン、5歳上のヴァージニア---とともに、2歳半の頃から舞台に立つようになりますが、すでにこの頃から観客を引きつける魅力を備えていたようです。

 父フランクがホモセクシャルであったことなどから両親の関係はギクシャクしますが、それもあってか、1926年、一家はカリフォルニアに移り住むことになります。以後、子供たちを「ガム・シスターズ」として有名にしたい母はロサンゼルスを中心に生活。時に近郊のランカスターに住む父と一緒に暮らすなど、姉妹にとっては行ったり来たりの不安定な生活が続きます。

 1930年代に入ると姉妹は舞台で少しずつ認められるようになりますが、とりわけジュディの歌の実力は高く評価されるようになってきます。

 1934年、「ガーランド・シスターズ」と改名。さらに1935年には名前もフランシスからジュディと変え、ここに「ジュディ・ガーランド」が誕生するのです。

 同年9月、13歳のジュディは念願のMGMと契約することになります。週給100ドルの7年契約ですが、当初は半年ごとに契約を見直すという頼りないものでした。