2008年2月27日水曜日

フレッド・アステア その14 「ジンジャー 3」

 極めつけはこれ。


上は”Cheek to Cheek”
下は"Dancing in the Dark”のシド・シャリース。


 どちらものけぞりながらアステアに身を任せている体勢。一見似たようだが、微妙にちがう。

 何がちがうか。

 アステアの腕にかかる重みである。どちらも物理的な重みは大して違わないが(・・・・たぶん)、アステアの感覚としてはジンジャーの方が重い。なぜか。ジンジャーの方がより完全に脱力して身を任せているからである。 
 脱力した体の重みは支える者の腕により深く浸透して行く。ぐっすり眠った赤ん坊と、起きているときの赤ん坊を抱いてみれば、その違いがわかる。脱力して任せきった体は、どこかセックスのときの無防備な姿を匂わせ、二人の体は溶け合う。

 シド・シャリースはのけぞるときに頭部の方向に体軸を少し伸ばすような体の使い方をしている。美しく見せるためにはこの方が良いが、結果として体に多少の力が残り、自分自身を支えてしまう。アステアに完全にまかせきることができない。

 シド・シャリースはダンサーとしてジンジャーより訓練された身体を持っている。しかし、訓練された体は自身を最後まで支え続け、結果として相手と溶け合わない。互いの身体は斥け合い、アステア=ロジャースの癒合した体から生まれる、えも言われぬ陶酔感が生まれない。

 訓練されたダンサー同士からは「素晴らしいダンス」は生まれるかもしれないが、観客の胸を直に刺激するエロティシズムに乏しくなる。

 鍛えることの難しさはここにもある。


 ジンジャーにはさらに大きな役割がある。


 ”Cheek to Cheek”を踊り終わった直後の二人。

 この写真一枚ではよく分からないので、DVDでこの場面を見直してほしい。

 二人のダンスに観客は陶然としている。一方、踊り終わってうっとりとした彼女はアステアを見つめる。ダンスにうっとりした観客は、うっとりとしたジンジャーを観ることで映画と同調し、何の違和感もなくその後のストーリー展開へ引き込まれていく。このときのアステアの言動はただ脳天気なだけである。 

 ジンジャーは常に地に足をつけ、観客の気持ちを一身に引き受け、映画(アステア)と観客の接点---インターフェース---の役割をになう。二人のコンビにおける彼女の重要な役割である。


 よくジンジャーの踊りはさして上手くないと書かれることがある。確かに純粋なダンスの技術のみを取り出せばそうかもしれない。しかし彼女のダンスには必ず素晴らしい表現力が加わっている。技術の不足を補って余りある表現力。そこからダンスの技術だけを分離してどうこういったところで現実には何の意味もない。

 これだけの美貌と表現力を兼ね備えた人に、更にこれだけ踊れる力が備わっていることだけで、稀有なことだと言わざるをえない。


 美しさ。類まれな表現力。脱力し腹に重みの落ちた身体。

 二十代のジンジャー・ロジャースがまだ若い三十代のアステアと出会うとき、銀幕上に仮想の身体は溶け合い、観客の想いは引き込まれる。


アステア=ロジャース
時の創った贈り物である。


フレッド・アステア その13 「ジンジャー 2」

 お次はこれを。

 ジンジャーの顔をよく見ていただきたい。

 この人の顔のRKO時代の特徴は二つある。

 重く覆いかぶさるように降りてくる上まぶたと、少し苦いものを味わっているかのようなその口元である。そういう表情なのだと言ってしまえばそれまでだが、実はこれが彼女の身体を規定する大切な要素になっている。

 一般に意識されることは少ないが、顔の動きは体幹部の動きとつながり、相互に影響し合っている。顔の動きは全身の力の分布を決定し、ジンジャーの身体の特徴を作り出す。

 ためしに舌全体を上顎(口腔内の天井である)にべったりと付け、少し苦いものを味わうつもりになってみてほしい。横隔膜が適度に緊張するのがわかる。さらに上まぶたが普通の何倍も重くなってゆっくり下りてくるつもりになってみてほしい。緊張した横隔膜に更に上から力がかかってくる。これがジンジャー・ロジャースの身体イメージである。

 つまり、彼女には常に、みぞおちから腹にかけて重みがかかり、気持ちが上ずると言うことがない。力は常に下方へと流れる。上半身の力が抜けみぞおちから腹に重心の落ちたその体は、柔らかさと共に、観客に信頼や明確な意思の存在を直感させ、スクリーン上の彼女のイメージを形作る。

 第二の特質である。


これがアステアと並ぶと、

 常に上方にベクトルのかかるアステアと、下方に力が流れるジンジャー。相補って非常にバランスが良い。

フレッド・アステア その12 「ジンジャー 1」  

 「アステアはジンジャーに品格を与え、ジンジャーはアステアに性的魅力を与えた」


 アステア=ロジャースについて考える者は誰も、キャサリン・ヘプバーンのあまりに有名なこの寸評に行き着かざるをえない。内容の的確さと表現の簡潔さのため、あらゆる批評はこの言葉の前にたじろぐ。

 「ジンジャーが持っていた品格をアステアが増幅し、アステアが持っていたセックスアピールをジンジャーが増幅しただけ」といった言い換えは単なる言葉の遊びにすぎない。どんな言葉も、結局、ヘプバーンの寸評の周囲をグルグルと廻る羽目になる。だがアステアを語れば、ジンジャー抜きに話を進めることはできない。それほど二人の魅力には抗し難く、その意味も深い。

 アステア論のゴールを目指すなら、ジンジャー・ロジャースは通らねばならない関門である。ここはあえてこう言ってみたい。

「たとえ行き着く先は決まっているにしても、旅には道中の楽しみ方がある」


  • ジョーン・クロフォード
  • ジョーン・フォンテーン
  • エレノア・パウエル
  • ポーレット・ゴダード
  • リタ・ヘイワース
  • ジョーン・レスリー
  • ルシル・ブレマー
  • ジュディ・ガーランド
  • ヴェラ・エレン
  • ベティ・ハットン
  • ジェーン・パウエル
  • シド・シャリース
  • レスリー・キャロン
  • オードリー・ヘプバーン


 ジンジャー以外の主だったアステアのお相手を挙げてみた。さてこの人たちと、ジンジャーの何が違うのか。

 まずはこの写真から見てみよう。


「艦隊を追って」(1936年)より”Let's Face the Music and Dance”
アステア=ロジャースを象徴する裏のトップナンバー。


 このジンジャーの姿を見ていただきたい。壁(柱?)に頭と肩をもたれかけただけの何気ない姿勢にもかかわらず、人生に絶望した女の深い憂いがみごとに表現されている。

 上手い・・・・・・・・そう、この人は上手い。日常のさりげない想いを的確に観客に伝える才能と技術をこの人は持っている。しかも美しく。

 上手さだけを取り出せば、1949年の「ブロードウェイのバークレイ夫妻」の方が優っているかもしれない。しかし、美しさと若さゆえの生硬さと演技力が微妙なバランスをとったRKO時代がやはり輝いている。場面にふさわしい情感をまなざしと体でみごとに表現する才能は、上記の誰をも凌ぐジンジャー・ロジャースの第一の特質である。


これも同様。


 「トップ・ハット」(1935年)から表の代表曲”Cheek to Cheek”
 アステアを見つめる眼差しのやわらかさに、思いのたけが伝わってくる。




 ちょっと羽飾りが邪魔でわかりにくいが、表情と共にそっと触れあう胸の使い方がうまい。このように自身の輪郭を越えて情感を伝える技能に天性のものがある。


2008年2月12日火曜日

フレッド・アステア その11 「鍛えない」

  アステアは撮影前の数ヶ月を除き、一切踊りの練習をしないという。娘のアヴァも同様の証言をしている。もちろん、隠れて稽古をしている可能性もあるのでそ のまま鵜呑みにはできないが、仮に本当なら、アステア自身の身体に対する考え方を知る上でかなり興味深い出来事である。

  普通、一流のダンサーやバレリーナは、公演予定の有無にかかわらず、ほぼ毎日稽古を続けているのではないだろうか。稽古を続ける目的はダンサーの年齢や成 長段階によっても異なるが、一般には筋肉の増強や維持、関節その他の柔軟性の確保および技術の獲得のためと考えられる。言い方を変えると、稽古を怠れば筋 力は落ち、柔軟性を失い、技術は衰える。それでは、あの稽古熱心で完璧主義者のアステアがどうして稽古を続けないのか。

  一般に人間の身体活動の訓練は種目それぞれの必要度によって要求される内容も水準も異なっている。極端な話、体を鍛えるからといって、ダンサーが重量挙げ の選手と同じトレーニングはしない。ダンサーにはダンサーの、必要な筋肉量とその運用法がおのずと決まっているからである。
 同じことはダンスの 分野同士にも、さらに同じ分野内のダンサー間にもあてはまる。 確かに高い跳躍力や柔軟性を要求されるバレエやショーダンスの踊り手なら毎日の訓練は必要 だろう。しかしさほどの跳躍力も柔軟性も必要なく、ごく自然な日常生活の動きの延長が要求される踊りの範疇があるとしたらどうか。

 「アステアというスタイル」であったなら。

 一般的なダンスのトレーニングが、不要な筋力を付け天性の軽やかさを阻害する諸刃の剣だということに、彼は気づいていたのではないか。だとしたら、悪影響を与える稽古はやらない方がましである。

 しかし、本当にアステアは稽古をしていなかったのか(隠れてという意味ではない)。


 「アステア  ザ・ダンサー」にはMGMの「新人」ダンサー、ボブ・フォッシーの語るアステアのエピソードが紹介されている。


 
ある昼下がり、人通りのないMGMの大通りでフォッシーは向こうから歩いてくるアステアに 出くわす。
 「・・・・・歩き方からすぐそれがフレッドだとわかった。彼はうつ向いたままぼくの方に歩い てきた。・・・・・・・・・ついにお互いが近づいた。お互いがすれ違う時、彼は顔を上げずに 『やあ、フォス』といったんだ。ぼくをそう呼んだんだ、フォスとね。彼はそのまま歩き続け、ぼ くは振り返って彼が去るのを見た、彼から目を離せなかったんだ。道に大工の使った曲がっ たクギがあった。フレッドは足で軽くはじき、サウンド・ステージの壁に飛ばすと、クギはカチ ンと音をたてて壁にあたり落ちた。あれは正しくアステアのジェスチャーだ。」(武市好古  訳)


 よく似たスタンリー・ドーネンの目撃談が”ALL HIS JAZZ; THE LIFE AND DEATH OF BOB FOSSE にもある。

 
地面に落ちた板から突き出たクギを、歩いていたアステアは一歩わきへよけ、突然それを 蹴りつけた。すぐ後ろにいたフォッシーはこの姿をまね、アステアがいなくなってから、その 場で唐突な横移動と蹴りがうまくできるようになるまで何度も繰り返した。


ケリー嫌いでアステア崇拝者のフォッシーの逸話からわかる事がある。

  1. アステアは普段の立ち居振る舞いからして、彼に特徴的な動きをしていた。

  2. その動きはフォッシーを陶然とさせるとともに、何度も稽古をしなくてはいけないレベルのものだった。

  アステアの歩く姿がすでに普段のダンスと同レベルであったと言うことは、歩くことで稽古と変わらぬことができていたとも考えられる。これにはこれまで書い てきた、骨を中核に全身を連動させたアステアの動きが関わっている。彼にとって稽古とは余分な力みをつけずに技術だけを育てて行くという繊細な作業であっ た。なまじ常識的な稽古を続けるより、日常生活の中の普通の動き・・・・・・・歩く、飛び退く、蹴る、つかむ、ゴルフ、馬・・・・・でしか磨けない 技があるのだ。日常の動作でダンスに必要な体の動きと身体感覚を養っているアステアには、撮影前の稽古はあくまで振り付けられたルーチンを完璧にこな すための目的でしかない。


アステアは鍛えない。

そして鍛えないように鍛える。


2008年2月8日金曜日

フレッド・アステア その10 「Duo」


たびたび”Puttin' on the Ritz”
このナンバーにはアステアの魅力が凝縮されている。


 ステッキで床を叩くアステア。

 あたかも三本目の足であるかのように使い、たたみこむようにリズムを刻んでいきます。ところが腰から上は下半身の上で優雅に動いているだけなので、まるで上半身と下半身が別のパートを奏でながらハーモニーを作っているような印象を与えます。

 「イースター・パレード」の有名なナンバー”Steppin’ Out with my Baby”では、スローモーションのアステアを普通のスピードで踊るバックダンサーと合成していますが、何もそんなことをしなくても、アステア自身の体が二つの異なったテンポを体現できるのです。

一人で踊るダンスデュオです。

 そのほかにも、中心軸をピタッと据え、大きく開脚したまま滑るように移動したり、スローモーション様の動きを取り入れながら動きとタップの間を自在に操ったりと、ダンステクニック満載です。


2008年2月3日日曜日

フレッド・アステア その9 「瞬間移動」

 またまた出てくる”Puttin' on the Ritz”
 アステア屈指のダンスナンバーに温泉旅館のロビーのようなこのセット。パラマウントも偉い。


 これも動きを見ないとわからないでしょうが、このナンバーの冒頭、アステアが写真のような姿勢から右に左に体の向きを入れ替え、回転します。この動きが実に速い。ただしここで言う「速い」は単純に距離を時間で割った速さのことではありません。単純な速さ自体はそれ程でなくとも、動きの予備動作がないため観客が始動を予測できないことによって生じる感覚としての「速さ」---「気配の無さ」---です。一種の瞬間移動と言ってよいでしょう。

 これも筋肉でなく骨格全体が一挙に動き出すことによって起こる現象です。

 ジーン・ケリーと較べてみるとよくわかります。以前書いたようにケリーの動きの特徴は、筋肉を伝わる波動--「うねり」--にあります。これが重みや質感とあいまってケリー特有の色気を醸し出すのに対し、骨から瞬間的に動くアステアからは、軽さが極まった果ての快楽が生まれるのです。


  続いて「ダンシング・イン・ザ・ダーク」
 公園を散策する二人はこの映像の直後に踊り始めます。


 散歩からダンスに移行する瞬間の二人の動きに注目していただきたい。シド・シャリースが準備段階として左足に重心を移し、右足を上げ、その力を腰や胸にためて右へ回転しながら胸を開いて、やや上方に動き始めるのに対し、アステアはこの姿勢のままややうつむき加減で、前触れもなくフッと動き出します。

 ここでも「うねり系」と「瞬間移動系」の対照があきらかです。


2008年2月1日金曜日

フレッド・アステア その8 「捨てる」

 これまでアステアが体を動かす大まかな仕組みについて見てきました。ここからは体の実際的な運用を考えてみましょう。

 アステアは軸型のひとですが、受ける印象はクラシックバレエのダンサーとはだいぶ異なっています。バレエの踊り手が手足の末端や頭の先まできちんとしたラインを作り、寸分の隙もないのにくらべ、アステアは逆に末端を「捨てて」いきます。

 手でいえば「七分袖」くらいのところまでは気持ちを入れてコントロールしますが、あとは自然に任せています。バレエダンサーの特徴である、のどの下から上胸部をスッと伸ばして首のラインを際だたせる体のつくりも行いません。首も力まず自然に任せたままです。

 アステアはバレエ風の踊りを嫌っていたといわれますが、このように末端を捨てることで、バレエのダンサーからわれわれが直感的に受ける緊張を感じさせません。中心軸がしっかりしていながら観る者に安らぎを与える自然さも、アステアの大切な特性です。

 ただしここで気をつけないといけないのは、末端を「捨てて」はいても、いい加減に扱ってはいないことです。いざ必要なときには手足の先端まで気持ちを入れてコントロールします。

この違いを見ていきましょう。


 「ガール・ハント・バレエ」のワンシーン。

 写真だけでは動きがわからないと思いますが、シド・シャリースが指の先端まできっちりラインを作っているのに対し、アステアの手の使い方は一見奇妙です。素人が盆踊りで手を左右に振るような・・・・・あるいは、片手で壁に何かをペタペタ貼っていくような・・・・・素っ気ない手の動き。

次は同じく「バンドワゴン」から「ダンシング・イン・ザ・ダーク」


ここぞというときは足の先端まで気を行きわたらせますが、それでも力感がないのがアステアならではです。


 最後に一つ。以前から気になっている動きを。


 ”Puttin' on the Ritz”から。 ブレてよくわからない。


 子供が駄々をこねるように手足をばたつかせる動きを本人は嬉々としてやっています。他のナンバーでも同様の振りがあったような気がしますが、アステアのエレガンスや隙のなさとはあまりに対照的で、この動きをとり入れていることが不思議でした。

 今回アステアの体を考えてみて、仮に上述のように末端を捨て身体の中心部を使うことに彼が「快感」を抱くとしたら、この動きを取り入れている意味もなんとなく納得できる気がします。まあ、こればかりはあまり自信がありませんが・・・・・・。