2010年9月29日水曜日

ディアナ・ダービン その3 「ユニヴァーサル3」

 1928年、レムリは息子のカール・レムリ・ジュニアを映画制作のトップに据え、自分は裏から息子を支えます。ジュニアはユニヴァーサルとしては画期的な150万ドルもの予算を注ぎ込み、「西部戦線異状なし」(1930年)を完成させます。この映画は大変な評判を呼び、アカデミー作品賞も受賞しますが、恐慌の影響もあり、ユニヴァーサルの年間赤字は200万ドルにまで達してしまうのです。

 以後彼は大作重視の方針を転換し、ドラキュラ、フランケンシュタイン、ミイラ男、透明人間といった恐怖映画路線に舵を切ります。しかし、給与の削減と人員整理にもかかわらず、毎年100万ドル以上の赤字が続くことになるのです。1936年春、ついにレムリは資金の提供を受けていた投資家のチーヴァー・カウディンにユニヴァーサルを譲渡。400万ドルの現金を手に、親子共々映画の表舞台から姿を消すこととなります。

 投資家であるカウディンの目的は、ユニヴァーサルの経営を立て直し、価値を高めて転売することにありました。そのため、RKOの重役だったチャールズ・ロジャースを映画制作の責任者として雇い入れます。ロジャースは恐怖映画路線の中止など経営改革に努めますが、結局赤字は解消しません。そのため1937年に解任され、ネイサン・ブルンバーグを社長、クリフ・ワークを制作担当副社長とする新たな体制がスタートするのです。

 しかし、ロジャースの行ったことすべてが無駄だったわけではありません。彼の仕事の中にはその後のユニヴァーサルにとってかけがえのない財産が残されていたのです。


 プロデューサーのジョー・パステルナークをベルリンから呼び戻したこと、そして14歳のディアナ・ダービンとの契約です。

ディアナ・ダービン その2 「ユニヴァーサル2」















1915
年、ユニヴァーサル・シティ完成記念式典のレムリ(左から二人目)


 レムリは1915年、当時ロサンゼルス最大と言われた撮影所「ユニヴァーサル・シティ」(広さ約100万平方メートル)を作り上げます。しかし、隆盛を誇った彼の経営にはいくつか欠点がありました。

  • 13巻物のプログラムピクチャーを優先し、長編作品を嫌ったこと

  • ヴァレンチノやロン・チェイニー、ジョン・フォード、そしてプロデューサーのアーヴィン・サルバーグなど優秀な人材を抱えていながら、長く配下にとどめておかなかったこと

  • 設立したニュース映画会社を活用しなかったこと

  • ドイツの親類縁者や知人を多く雇い入れ、重用したこと

などが挙げられます。

 さらに1920年代後半には自前の映画館チェーンの形成に失敗し、制作・配給・興行のうち、制作・配給部門からしか利益を上げられない構造を抱えることになります。

 その結果ユニヴァーサルは、ハリウッドのメジャー8社に名を連ねながらも、MGM、ワーナー、パラマウント、二十世紀フォックス、RKOの「ビッグ・ファイブ」に対し、コロンビア、ユナイテッド・アーチストと共に「リトル・スリー」と呼ばれる地位に甘んじるのです。

 大恐慌期、MGMA級映画に平均50万ドルの制作費を掛けたのに対し、ユニヴァーサルはその半分の予算しか組めませんでした。


2010年9月26日日曜日

ディアナ・ダービン その1 「ユニヴァーサル1」
















カール・レムリ(18671939


 1867年、ドイツ南部の町ラウプハイムに生まれたカール・レムリは、1884年、兄を頼って渡米。英語を学びながら小売業に従事し、シカゴで販売員の仕事に就いた後、ウィスコンシン州オシュコシュへ移り、衣料品会社の帳簿係から支配人にまで出世します。

 三十一歳で上司の姪と結婚した彼は、再びシカゴに戻り、それまでの蓄えを元手に自ら事業に携わるようになります。安物雑貨チェーンへの投資を手始めに、1906年には、当時ニッケルオデオンと呼ばれた安手の映画館を自ら経営し、映画興行に進出するのです。


 商売敵の小屋がおしなべて暗く、暑く、汚らしいことに目を付けた彼は、自分の映画館に大きな換気扇を取り付け、清潔を保ち、用心棒を雇って乱暴者をつまみ出すよう心がけます。二ヵ月後に早くも二番目の小屋を建設するほどの収益を上げたレムリは、他の劇場にフィルムを仲介するサービスも始め、さらにこれを発展させ、アメリカ各地にフィルム交換所を作り、配給業にも乗り出して行きます。


 当時、映画の制作、配給に携わる者は、フィルムや撮影に関する特許料をエジソンらの設立した特許会社「トラスト」に支払うよう要求されていました。ここで利益が吸い上げられるのを嫌ったレムリは、1909年「トラスト」からの独立を宣言。同年には「独立活動写真会社」を設立し、映画の制作および配給に本格的に取り組むようになります。1910年、全米一の配給業者となったレムリに対し、「トラスト」は様々な妨害工作に出ますが、彼はひるまず、映画制作を続行します。バイオグラフ社からを引き抜いたメアリー・ピックフォードが人気を集めるなど経営も順調に運び、その結果、他のプロダクションを吸収合併。1912年、ここに「ユニヴァーサル・ピクチャーズ」が誕生することとなるのです。