2010年10月28日木曜日

ディアナ・ダービン その11 「 許容」

 子役がスターとして大衆に受け入れられた時、'30年代の映画界でスタジオがとるべき態度は決まっていました。受け入れられたときのイメージを壊さぬこと。そして、成長を観客にできるだけ気づかせないことです。そのため、子役スターの年齢は、「可能な限り低いままで、可能な限り長い期間」押し通すのが通例だったのです。

 しかしディアナ・ダービンの場合は状況が異なります。彼女が映画界にはいったのは14歳。決して子役とは言えません。その成長は速く、子役のように時間を稼ぐ暇もありません。苦肉の策としてユニヴァーサルとパステルナークの採ったのは、「成長を売り物にする」方法でした。大衆から強く支持されたディアナの歌やパーソナリティはそのままに、映画ごとに状況設定を変え、ストーリーの中で彼女の成長を小出しに見せ、時には観客がどこまで彼女の成熟を許容するかを調べるための冒険もさせたのです。

 たとえば、「年ごろ」(”That Certain Age” 1938年)


















 ディアナの父は新聞社の社長。自分の屋敷に特派員(メルヴィン・ダグラス)を泊めたところ、ディアナが彼に恋心を抱いてしまうと云うお話。お屋敷で開かれたパーティに白くてフリルの付いた少女向けのドレスをあてがわれ、「こんなのは赤ん坊の服」と怒ります。母親の衣装庫から勝手に借りて着たのがこのドレス。肩まで出した黒いドレスに髪もアップの色っぽさで、階段を下りていきます。成長をストーリーの工夫で垣間見せながら、観客の反応を探ったのです。

 映画では母親に見つかり、すぐに元の服に着替えさせられますが、実際にファンからの反対意見も殺到し、成長した姿はまだ早いという判断になったようです。

 しかし映画の設定を別にしても、ディアナは前作「アヴェ・マリア」よりずっと大人びて見え、観客もそれを受け入れざるをえなくなるのです。


















 「銀の靴」(”First Love” 1939年)

 ディアナの初キスと大宣伝され、もちろん大ヒット。観客が固唾をのむ中、キスの時間は2秒くらい。 お相手はロバート・スタック、映画初出演。

 テレビのアンタッチャブルしか知らないので、20歳の頃はこんなにいい男だったのかと驚きました。 当初シンデレラをそのまま映画化する企画もあったようですが、最終的に当時のアメリカに設定を移し、内容は文字通りの「シンデレラストーリー」。

 両親のいないディアナが寄宿学校を卒業し、ニューヨークに住むお金持ちの伯父の家に身を寄せますが、伯父以外の家族から冷たい仕打ちを受けます。スタックの家の舞踏会に召使いたちの協力で出かけることのできた彼女が、バルコニーで彼と初キス。上の写真はその直後の、照れて気まずい二人。

 結局伯父の家を去らねばならなくなったディアナが学校に戻り、音楽教師になるための奨学金を申請します。教師のはからいで審査会が開かれ、プッチーニの「ある晴れた日に」を歌っていると扉を開けて入って来たのがスタック。舞台から駆け寄ったディアナが彼と抱き合い、二人でそのまま会場を去って行くエンディングは、ある種彼女の映画を象徴するような作り方です。


 このようにディアナの成長を少しずつ織り込みながら話題作りを行い、大衆を納得させ、しかもヒットを重ねたことはパステルナークのプロデューサーとしての大きな功績であると考えられます。そしてそれに応えるかのように、かつ幸運にも、ディアナ・ダービンは少女の頃の魅力を少しも失うことなく、美しく成長したのです。

 すべては順調に進んでいるかのように思われました。


2010年10月24日日曜日

ディアナ・ダービン その10 「Little Miss Fix-It 」

 彼女のふるまいを具体的に映画のシーンから見てみましょう。









 「天使の花園」

 これだけでは何だかわからないでしょうが、父親のトレーニングルームに入ったディアナが吊り輪にぶら下がり、正面のカメラに近寄ったり遠ざかったりするところです。アップになったディアナの顔が本当に楽しそうで、演技なのか地なのかさえわかりません。彼女の無邪気さや、動作の自然さが良くわかる場面です。

 監督もこれは使えると思ったのか、他の人々が話をしている場面の背景で、彼女をまだブラブラ揺らしています。
















 第三作「アヴェ・マリア」(”Mad About Music” 1938年)から

  スイスの寄宿学校に入れられたハリウッドの大女優の隠し子がディアナ。父親は有名なハンターだと嘘をついたことがきっかけで、いないはずの父を迎えに駅へ行かされるはめになります。馬車の上で腹をくくった時の様子が上の写真。動いていないとわかりにくいでしょうが、居直ったときの彼女の強さが感じられます。

 この後、駅で出会ったイギリス人の作曲家を強引に父に仕立て上げたのが縁で、母との再会を果たし、母も作曲家と結婚するというハッピーエンドになります。

 歌はもちろん、状況を強引に動かしていくディアナの行動力が楽しめる作品で、これも大ヒット。”Little Miss Fix-It” と呼ばれた彼女のキャラクターが完全に確立されています。


 ちなみに”Miss Fix-It”というのは「困難な状況や問題を巧く解決していく女性」という意味だそうです。 あえて意訳すると ”Little Miss Fix-It”は 「おせっかいお嬢さん」とか「世話焼きお姉ちゃん」といった感じになるのでしょうか。










 「青きダニューヴの夢」(”Spring Parade” 1940年)

 アルプスの村から山羊を売りに市場にやって来た少女が、男と値段の交渉をします。そのやりとりが本当にしたたかで、本物の彼女もこうなのかとつい考えてしまうほどです。どんな役にもリアリティをもたせる複合的な身体の裏付けがあればこそです。

 欧州出身のスタッフのせいか、この時期の彼女の出演作にはヨーロッパに関連した設定が多いようです。


 このように'30年代後半から'40年にかけてのディアナの映画は、いずれもコメディタッチの肩のこらないストーリーに5曲ほどの歌をちりばめた構成で大ヒットを連発。ユニヴァーサルはもちろん、社会的にも大きな影響力を持つ少女スターとしての地位を築きます。

 作品一本あたりの出演料も、「天使の花園」当時の2万ドルから、1940年には30万ドルにまで跳ね上がっています。

 しかし思春期のスターには、必ず乗り越えねばならない宿命と課題があります。


 「成長」です。


2010年10月20日水曜日

ディアナ・ダービン その9 「一筋縄ではいかない」

 ガルボやディートリッヒの写真を見た後で出演映画を見ても、写真のイメージがそのまま動いているという印象を受けるだけで、格別の違和感はありません。

 しかしディアナ・ダービンの場合はそうではありません。彼女の写真の後で映画を見ると、「想像していたものとはかなり違う」と感じられます。妙に歯切れの良いセリフ、腰の据わった落ち着き、ごく自然な動作---これらはディアナの写真から受ける明るく無邪気な印象だけからは予測しにくい事柄です。ディアナの写真から想像するものと実際の映画で動く姿との間には、「乖離」と言うには大げさだが、「写真だけでは分からないものだ」と思わせる多くの要素が横たわっているのです。












 ディアナ・ダービンの顔の仕組みはディートリッヒやガルボとはかなり異なっています。彼女らのように周囲を圧倒し、対する者をひれ伏させるような目の重みは存在しません。その代わり、上の写真、緑色の部分の奥に非常に強い何かが存在し、そこから溢れたものがまっすぐ前方に放射されています(下の写真)。











 この「まっすぐ」であることは単に方向がまっすぐ前を向いていることだけを意味しているわけではありません。「まっすぐ」であることは、大衆に広く受け入れられるディアナの人気の強い浸透力の源泉です。さらに、どんな役を演じても純粋で、天真爛漫で、正直で嘘のないと感じられる彼女のイメージの質をも説明しているのです。

 彼女の顔は一見単純です。多少肉厚の顔に輝く笑顔と、上記の放射が重なるとすべてが説明できそうに思われます。

 しかし実際はそう一筋縄ではいきません。

 彼女の顔を正面から見ると、表情に隠れて非常にわかりにくいのですが、鼻の奥からのどや食道に向かって何かを飲み込んで行くような力の流れが存在しています。この流れは彼女の腹に達し、かなりの重みを作っています。しかしこの腹の重みは、ガルボやディートリッヒのように「相手を引き込み捕獲してしまう装置」として働くのではなく、より実際的な「行動する人間としての重み」を形成しているのです。


 次の映像を見て下さい。

 注釈がないので、いつ頃の映像か明らかではありませんが、話の内容や登場人物から推定すると、「天使の花園」の続編として撮影された、「庭の千草」(”Three Smart Girls Grow Up” 1939)封切り前後のインタヴューではないかと思われます。

 注目していただきたいのはディアナの「物腰」です。いやに落ち着いて物怖じしない態度、挨拶の歯切れの良さ、話した後に周囲に目を配り、ファン?と握手するときの自然さ---自由に振る舞っていながら嫌みが無く、他の人の邪魔をしている印象もない、その物腰です。

 「庭の千草」公開時(19393月)とすればまだ17歳のはずですが、これは到底17歳の少女の振る舞いではありません。かなり世慣れた中年女性のとる行動です。それでは彼女が大人びて生意気だとか若さに欠けるのかというと、そんなこともありません。映画のディアナはあくまで純真で天真爛漫にも見えます。

 普通人間の雰囲気や性質を表現する個々の要素はいくつかが「セット」となって存在します。たとえば、腹が据わって落ち着いた人は喜怒哀楽の表現に乏しいとか、表情が豊かで感情表現に富んでいるが、人間としての重みにかけ、頼りないとか。個々の要素は本来別々で、相互に独立して存在しても良いはずですが、特定の要素同士がグループ化されているのが普通です。それが人間のタイプとして類型化されていくわけです。

 しかしディアナ・ダービンは違います。彼女には普通の大人以上に腹が据わり、落ち着いている面があるにもかかわらず、幼い子供のような周囲を和ませる朗らかさや明るさ、天真爛漫さが同居しています。本来別のものだが、一般には相互にワンセットになっている個々の要素の癒着を引き剥がし、普通にはあり得ない組み合わせで成り立った身体---それがディアナ・ダービンという希有な存在の本質です。

 より有り体に言えば、この人は「少女のふりをしたおばさん」なのです。


2010年10月17日日曜日

ディアナ・ダービン その8 「顔」

 このあたりでディアナ・ダービンの魅力について触れたいと思いますが、その前に、これまでも何度か書いてきた「顔」について、もう一度考えてみましょう。

 演劇とは異なる映画に特徴的な機能の一つに、登場人物のクローズアップがあります。このクローズアップによって、芸や技術ではない俳優の生(なま)の魅力---とりわけ「顔の魅力」---が、観客に強く意識されるようになります。この「生の魅力」にひときわ優れた者が、大衆に受け入れられ、スターとしての地位を得ていくのですが、では個々のスターをスターとして特徴づける魅力とはいったい何なのでしょう。

 そこで、この問題を考えるに当たり、際だった特徴を持つスターらしいスターを例にとりながら、その魅力の一端と、さらに顔の魅力の因って来るところを探ってみたいと思います。

 もっとも、説明の根拠は相も変わらぬ私の独断的な直感によってではありますが・・・・・・・・・・。


















まずはマレーネ・ディートリッヒ

上の写真を予断を捨てて見ながら、どんな印象を受けるか考えていただきたい。


 この人の顔を見ていると、まず、全体的にひどく静謐で、落ち着いた、かつ神秘的な雰囲気が醸し出されているのがわかりますが、それだけではありません。見る者に訴えかける「何か」がこの人の目の周囲から強く放射されています。さらにこれと相矛盾するように、見る者を吸引し引き込んでいく力もまた同時に存在しています。

 これがディートリッヒの表情であり、彼女のスターとしての魅力です。

では、この人の顔が持つ構造とはどんなものか。



















 ただのいたずら書きのようですが、これは眼です。ディートリッヒの眼球の意識は実際の眼球の二回りから三回りくらい大きく、それも非常に重い質感をもっています。そのような重量感のある巨大な眼球が頭蓋骨の中に収まっている(様に感じている)のです。その眼球全体を使い、あまり焦点を絞らず見る。それがこの人の世界を見る「見方」です。

 これだけ巨大な重量感のある眼球が、瞳孔に力を集中させることなく存在してると、その重みが横隔膜から腹に流れ落ちていきます。その結果、物事に動じない、非常に深みのある(ように見える)身体ができあがるのです。


 人と人の間には、相互に影響し合う「意識の空間」のようなものが存在します(それが気とかオーラと呼ばれるものかはわかりませんが・・・・)。ディートリッヒの身体は、腹にかかった重みのため、相対する人間にとって、「意識の空間」上では、一種の窪地や穴のような存在になっています。そのため、この人の前に立った(あるいは写真や映画を見た)人は、空間の勾配に沿って、あたかも目の前の穴に転がり落ちるように、引き込まれてしまうのです。

 巨大な眼球(意識)の質量感によって前方に放射される力と、「窪地」である身体によって引き込んで行く力。この相反する二方向の力が同時に存在する「矛盾」が、動的な神秘性として常にこの人を覆っています。

 これがマレーネ・ディートリッヒのごく大まかな顔と身体の(意識上の)構造です。


次はグレタ・ガルボ












 この人にもディートリッヒと同様に体の下方に重みが落ち、その結果相手を引き込んでいく構造が認められます。しかしガルボにはディートリッヒの様な巨大な眼球は存在しません。それとはまったく別な、彼女に特徴的な顔の仕組みがあるのです。



















 ガルボの眼球の下縁あたりには、かなりの重量感が感じられます。この重みは外にあふれ出し、水平方向より下方45度くらいの角度に向けられた「何か」となって、見る者に常に放射されます。視線がどちらに向いているとか、どちらに向けられたかとは関係のない、この人の持って生まれた顔の構造です。この放射によって、ガルボに相対すると、互いの物理的な位置関係がどうあれ、常に斜め上から見降ろされている---相対する者からすれば常にガルボを見上げている---関係ができあがります。

 これこそが誰もが抱く彼女の「神聖」さの源です。


2010年10月14日木曜日

ディアナ・ダービン その7 「大当たり」







「天使の花園」、チャールズ・ウィニンガーと。

MGMではうらぶれた役の多いウィニンガーもユニヴァーサルでは大金持ち





 物語は・・・・・・・

 十年前に両親が離婚し、母親とスイスで暮らす三姉妹。父(チャールズ・ウィニンガー)と財産目当ての女との結婚話を悲しむ母を見かねてアメリカに渡った三人が、結婚の邪魔をし、最後は両親を元の鞘に収めるというコメディー。ディアナは末娘のペニー。


 撮影が進むにつれ、ディアナの自然な演技や輝くような笑顔、年齢に似合わぬ深みのある歌声の魅力が明らかになります。そのため、当初、次女中心だったストーリーが末娘中心に変更され、映画の初めと終わりはディアナのクローズアップで締めています。 変更のせいか、途中で次女のエピソードが続くなどやや不自然な構成ですが、それでもテンポの良い楽しい作品に仕上がっています。

 最終的な制作費319千ドルに対し、公開後は誰もの予想を覆す大ヒット(興行収入160万ドル)。財政難のユニヴァーサルにとって、ディアナ・ダービンという少女が貴重な財産であることが明らかになります。


 ユニヴァーサルはさっそく彼女を主演に、同じ陣容で第二作「オーケストラの少女」(”One Hundred Men and a Girl” 1937年)の制作にとりかかります。観客が求める「明るく素直な少女が、困難な状況を解決しようと走り回り、失敗もするが、それを乗り越えハッピーエンドに終わる」というプロットはそのままに---題名にも前作から引き続き”Girl”を入れている---マンネリを避けるため設定に工夫をこらします。

 大金持ちの一家から貧乏な音楽家の娘に変え、当時有名な指揮者のレオポルド・ストコフスキーを本人役で引っ張り出し、きちんと演技までさせているのです。  撮影所の彼女に掛ける期待と自信は、タイトルクレジットからも明らかです。第二作目にして早くも、ディアナの名前がタイトルの上に置かれています---”Deanna Durbin in One Hundred Men and a Girl”

 結果は、制作費76万ドルに対しアメリカ国内の興行収入だけで227万ドル。世界中で大ヒットしたこの映画でディアナは、単なる少女俳優から本物のスターになったのです。


 スタジオは以後もパステルナークに彼女の作品をプロデュースさせ、年間2本のペースで封切っていきます。映画はいずれもヒットし、ユニヴァーサルの屋台骨を支えます。 フィルム賃貸時の撮影所の取り分が通常25%のところ、彼女の作品に関しては35%1939年、雑誌「フォーチュン」に載った記事によると、1938年にユニヴァーサルから公開された映画全体の収益の17%は、ディアナのたった2本の主演作でまかなわれ、

「この業績の悪い撮影所をダービン一人で破産から救ったとハリウッドでは考えられている」

のでした。

2010年10月11日月曜日

ディアナ・ダービン その6 「パステルナーク」










ヘンリー・コスター(左)、ディアナ、パステルナーク
  1939年



 ディアナ・ダービンがユニヴァーサルと契約した1936年、かつてカール・レムリが断行したベルリン支社での映画制作中止の影響で、契約していた多くのスタッフが、ユニヴァーサル・シティにやって来ます。

  その中の一人が35歳のプロデューサー、ジョー・パステルナークでした。

 ハンガリー出身の彼は少年時代にアメリカに渡り、20年代初頭、パラマウントの社員食堂の皿洗いになったのを手始めに、助監督にまで出世します。トーキーに移り変わる直前にユニヴァーサルへ入社。欧州向けの映画制作のためベルリンに派遣され、プロデューサーとして働くことになります。

 そこで彼が出会ったのがジャーナリスト兼漫画家の若きヘンリー・コスターでした。コスターはまもなくベルリンスタジオで最も多作な脚本家となり、さらに1930年代初めには監督として働くようになります。ドイツでの制作中止に伴い、英語の出来ないコスターもハリウッドにやって来たのです。


 パステルナークはドイツ時代、すでに数本のミュージカルをヒットさせた実績がありました。そこで、チャールズ・ロジャースは彼に同様の企画をコスターと作るよう勧めます。パステルナークはこの機を逃さず、ユニヴァーサルと契約したばかりのディアナを使い、後に「ダービン組」とも「パステルナーク・スペシャルズ」とも呼ばれる制作陣(コスター、脚本のブルース・マニング、カメラのジョー・ヴァレンタイン、音楽監督のチャールズ・プレヴィン)らと撮影を始めます。

 予算は約26万ドル。制作担当重役をはじめ誰もが、ごく一般的な低予算映画と見なしていた作品、「天使の花園」(Three Smart Girls; 1936)です。


2010年10月9日土曜日

ディアナ・ダービン その5 「MGM」















「頑固なんじゃないの。意志が強いだけ」



 ディアナ・ダービン(本名Edna Mae Durbin エドナ・メエ・ダービン)は1921124日、カナダ、マニトバ州ウィニペグで、イギリスから移民した両親と姉一人の家庭に生まれます。彼女が一歳の頃、一家はロサンゼルスに移り住みますが、その理由は「父親の健康問題」から「娘をハリウッドで一旗揚げさせる」まで諸説あるようです。

 子供の頃から音楽の才能を認められたディアナは、1932年、ラルフ・トーマス・アカデミーで歌のレッスンを受けるようになります。アカデミーでは生徒の勧誘と発表会を兼ねたコンサートをしばしば開いていたため、優等生のディアナは様々なクラブや教会で歌を披露していました。

 その頃MGMでは、ドイツ出身の声楽家エルネスティーネ・シューマン=ハインクの半生を描く映画 ”Gram” が企画されていました。主人公の子供時代を演じる「歌える少女」を捜していたキャスティング担当のルーファス・ルメールはディアナのことを聞きつけ、L.B.メイヤーも出席の上オーディションを行います。その結果、彼女の採用が決定。1935年、MGMと半年間の契約を交わすことになるのです。

 ディアナ・ダービンとMGMとの契約はあくまで ”Gram” 撮影のためだけのものでしたが、MGMは彼女の芸名を本名から「ディアナ」に変えるとともに、ラジオに出演させることで大衆への浸透を図っていきます。ところが映画のアドヴァイザーも兼ねていたシューマン=ハインク自身が病気になり撮影は延期。使い道のなくなった彼女に対しスタジオは、同じように仕事のないジュディ・ガーランドと共演させた短編「アメリカーナの少女」を1936年の夏に撮影します。

 その頃のことをジュディ・ガーランドは次のように語っています。

「会社が本当にほしいのは5歳か18歳。その中間はいらないの。そう、私はその中間組だったの。ディアナ・ダービンも同じよ。私たちをどう使うか、会社もわかってなかったの。だから、私たちは毎日ただ学校に行って、あとは撮影所をブラブラしてたのよ」

 「アメリカーナの少女」を撮り終えたものの、結局 ”Gram” の企画が流れたディアナは、MGMとの契約期間も終了します。その頃ユニヴァーサルに移っていたルーファス・ルメールは、すぐさま彼女と週給300ドルで契約。

  ここにユニヴァーサルのディアナ・ダービンが誕生することとなるのです。


2010年10月3日日曜日

ディアナ・ダービン その4 「人気」













グロウマンズ・チャイニーズ・シアターで



  • 19382月、16歳の時、グロウマンズ・チャイニーズ・シアターで手形・足形が採られた

  • 同じ年、全米各地にファンクラブ「ディアナ・ダービン信者の会」が多数生まれていた

  • 1939年、オスカーの少年少女特別賞をミッキー・ルーニーと共に受賞した

  • 1939年から1942年まで、イギリスの興行人気ランキング、女優No1であった

  • 1940年(18歳)にはユニヴァーサルで最も観客動員力のあるスターだった

  • 21歳の時には米国で最も高給取りの女性であり、世界の女優中、最高額の給与をもらっていた(作品一本あたり、40万ドル; 現在の貨幣価値では1200万ドル位?)

  • 彼女にちなんだ数多くの商品---人形、紙人形、塗り絵、おもちゃ、文房具、レコード、衣料品---が生み出された

  • 女性として世界で唯一人、ボーイスカウトの名誉会員に選ばれた

  • 当時のニューヨーク市長から市の鍵を授与された

  • アメリカ陸軍航空部隊より名誉大佐に叙せられた

  • チャーチルもアンネ・フランクも彼女の大ファンで、ムッソリーニは政党機関紙で彼女にルーズベルトとの仲介役を希望した


 ディアナ・ダービンについて語るにあたり、「当時、彼女がどんな存在であったか」を挙げてみました。

 説明が必要な理由は二つあります。一つは、その活躍期の人気と社会に対する影響力が並外れたものであったこと。そしてもう一つ、突然の引退以降六十年以上にわたりマスコミに登場することがないため、活躍した頃のことを知る人が年齢的にも限られていることです。

 さらに残念なのは、彼女の主演した二十一本の長編作品のうちのほとんどが型にはまった古風なミュージカルコメディであるため、後世にまで傑作や問題作として喧伝されることがほとんどないことです。現在日本でDVDとして発売されている彼女の作品は「オーケストラの少女」(1937年)と「春の序曲」(1943年)しかありません。


 しかし彼女の作品を観ていくと、今でもディアナ・ダービンというスターの魅力にどうしようもなく引き込まれて行きます。彼女の魅力は表面的には、天真爛漫で快活なその明るさと言うことになるのでしょうが、それだけではありません。「引退の決断」や「マスコミとの接触を断ち続ける持続力」に象徴される強さが、表面的な純真さや天真爛漫さを裏から支え、単なる少女スターに終わらぬディアナ・ダービンの魅力を形作っています。 

 もちろん、ディアナ・ダービンというスターを産んだ、「ユニヴァーサルという環境」の力も見逃すわけにはいきません。


 彼女が日本を含め世界中で人気を集めた理由や、スターとしての人生に区切りをつけた決断の鮮やかさの訳を考えながら---できればジュディ・ガーランドとの対比も含めて----彼女の魅力と身体を明らかに出来ればと思っています。