2011年10月2日日曜日

杉村 春子 その6 「終わりに」

 初めにも書きましたが、私は杉村春子の舞台を見たこともなければ、彼女に関する本を読んだこともありません。そのような者が彼女について書くこと自体おこがましい話なのですが、演技と身体について、とりあえず気づいたことを記してみました。

 杉村春子の演技でもう一つ印象に残っているのは、199410月から翌年9月にかけて放送されたNHKの連続テレビ小説「春よ来い」の一シーンです。職場のテレビで昼休みにたまたま見ただけなので、詳しいことも覚えていませんが、'974月に91歳で亡くなった杉村春子としてはそれこそ最晩年の仕事であったと思われます。

 うろ覚えの記憶だけで、はなはだ心許ないのですが、役は確か主人公が通っていた女学校(か何か)の国文の教師。戦況が悪化し授業ができるのも今日が最後という日、教壇に立った彼女が生徒に語りかける姿を正面から撮した場面です。
 その時どんなセリフを喋っていたのか、まったく記憶がありません。ただ、女学生たちに訓話する彼女の姿は、「何か異様なものに覆われていた」のです。

 年齢は90歳に近いながら、当時の杉村から、さほど衰えたと言う印象を受けた覚えはありません。ただ老齢者の常として、表情の動きが乏しくなっていました。ところがそのために、表面的ではない心の演技を、かえって見る者に強く感じさせるようになっていたのです。黒っぽい和服を着て教壇で身じろぎもせず、表情も動かぬ彼女からは、和服の色がそのまま周囲に浸みだしたような質量感のある何かがあふれ、教室とテレビの画面を覆い尽くしているように私には思えたのです。「説得力」とか「存在感」などと言う言葉では片付けられないその姿は、周囲の空間を巻き込んでただそこにあり、観る者を釘付けにしたのです。
 あれが、杉村春子の最後にたどり着いた境地だったのでしょうか。

 '971月に入院後も浴衣をきちんと着こなし、ハンサムな主治医が出張に出かける挨拶に病室を訪れると、やおら起き上がってその腕をかきいだき、「先生、帰ってきて下さるわよねぇ」と縋ったといいます。

 素と演技の区別など意味をなさない、女優 杉村春子がいたのです。


2011年10月1日土曜日

杉村 春子 その5


 それでは、これまでの話を手がかりに、もう一度「反逆児」での演技を観ていきましょう。

 武田勝頼からの密書を携えた使者は、信康を押し立て信長・家康に反旗を翻すよう築山御前に進言します。訪れた信康と二人きりになった築山御前=杉村春子は、ここから、あざといばかりの大芝居を展開します。













 信康と信長の娘との間にできたばかりの孫娘を、「可愛くないぞよ」と言い切り、信長の娘の腹から跡取りとなる男の子など産んで欲しくないとまで言い放ちます。さらに、女の子を二度続けて産んだ嫁を「面当てがましく見舞うに及ぶまい・・・・・・フフフフフフ・・・・・・」とふてぶてしく笑い、「産んだ者も、生まれた子も、それではあまりに不憫」という信康の言葉には、次のように反応します。

「不憫?・・・・・・・・・・・・ 不憫なのは妾(わらわ)じゃ。夫には見限られ、嫁には見下げられ・・・・・妾が一番不幸せなおなごではないか」

 見事な腹の演技で我が身の不幸を呪い、尊大さの中にも自らの哀れを聞く者に強く訴えかけていきます。

 このあと局面が変わります。

 正面の高座から立ち上がり、信康に歩み寄りつつ語りかけます。
「三郎(信康)殿、そなただけじゃ、この岡崎の城中で・・・・・この広い世の中で、たった一人そなただけが妾の味方じゃ・・・・」
 この時、それまでの腹の演技は、突然、胸を介した演技へと転換されています。さっきまでの尊大さはありません。誇りを捨て、我が子に縋り付くようにおのれの心の丈を訴えかけるのです。
「そなただけじゃ、そなただけじゃ・・・・・・・そなただけが妾の物じゃ、誰にもやらぬ、誰にもやらぬ・・・・・・」

 信康ににじり寄り抱きつく姿は、おのれの欲望と子への愛情が渾然となって、鬼気迫るものがあります。












 このように、自分の不遇を周囲に宣言する場面では腹を使い、真情の吐露に胸を使うということは、単なる部位の使い分けを意味しているのではありません。胸を使い、腹を使うと言うことは、人間の身体に隠された様々な感情表現の装置を掻き立て、観る者の身体を共鳴させ、演者=観客の間に一種の情念の時空を作り上げることなのです。
 シナリオの意図を越え、登場人物に生身の身体のみが表現可能な意味を付け加えることのできる能力こそ、杉村春子の偉大さといって良いでしょう。