2010年11月28日日曜日

ディアナ・ダービン その24 「with Judy」2




















 さらに他の世代との交流にも違いがあります。

 すでに触れたことですが、ディアナの、特に少女時代の作品は、恋へのあこがれが遙かに年上の中年男性との恋や交流として表現されています。背伸びをして大人に見せようとしています。そこに認められるディアナの特徴は、個人としての明確な意志の存在と、単独行動です。

 他方、同時期のジュディはミッキーその他の同世代との交流が主です。同じ年頃の男女との付き合いを通して、悩み、恋をし、笑うのです。ティーンエイジャーのコミュニティが主な活動の領域となり、等身大の恋愛や、仲間意識が主に描かれる対象となっています。

 その相違はおそらく観客層の違いになって(あるいは初めから異なった観客層を狙って)現れたと思われます。ジュディの映画は同年代のファンを中心に人気を得たのに対し、ディアナの映画は大人から子供までを引きつける映画であったのではないかと想像されます。

 このような違いは単にシナリオの設定の違いであり、スタジオがどんな観客層を狙って企画したかによるだけのことかもしれません。しかし、そう見えることを裏から支え、役に説得力を持たせるには、スター自身のパーソナリティがどこかで関係している気がするのです。

 ディアナ・ダービンという人は、撮影の合間にも年上の男性との交流を嫌がらないどころか、むしろ積極的だったといいます。「アヴェ・マリア」撮影中には、同世代の女の子との友情を育む一方、休み時間にハーバート・マーシャルと芸術について語り合っていたそうです。かえって大人との間の方が、満足のいく会話ができていたのかもしれません。結婚相手も二度目、三度目の夫は彼女よりかなり年上です。

 ジュディ・ガーランドも当初はかなり年上の男性と結婚しています。しかし様々な状況から考えると、ディアナが自分と同じ土俵で話のできる成熟した人格を求めていたのに対し、ジュディは年上の男性に依存し、保護してもらいたいという欲求が強かったように感じられるのです。


  MGMとの契約に残ったのが仮にディアナであったなら、それぞれの人生はどうなっていたのでしょう。まったく異なっていたと思うときもあれば、紆余曲折はあっても結局同じような人生を歩んでいたような気がするときもあります。この半年しか生まれの違わない二人の少女は、共に歌と演技に際だった才を持つカリスマ性に富んだスターであったにもかかわらず、映画界を去ってからの人生は極端に対照的です。その人生の明と暗は、まるでスタジオの圧力という光を透過する二枚のガラスの色の違いのように思えてならないのです。


ディアナ・ダービン その23 「with Judy」
















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「ジュディには初めからとてつもない才能が備わっていました。彼女はプロで、二歳の頃からステージに立っていたのです。彼女の後半生は悲劇かもしれませんが、彼女は決してあきらめなかったと思います。彼女には呼吸をするのと同じように観客が必要だったのです。」

 ディアナ・ダービンとジュディ・ガーランド、ラナ・ターナーの人生と映画を、対比しながら書いたらおもしろそうだと考えたことがあります。実際には、三人並べて書くこと自体が難しそうなので、そんな考えはすぐに捨てましたが、この生年もあまり違わぬ---ディアナ1921年、ジュディ22年、ラナ21年(20年?)---三人を、当初抱いていたイメージから、それぞれ良い子、普通の子、悪い子に当てはめる事ができそうだと思ったからです。

 もっとも、彼女らのことを調べてみると、とてもその様な図式通りにはいかないことがすぐわかります。私生活を覗いてみると、ディアナは別として、ジュディとラナのどちらが「悪い」かは一概には言えませんし、役柄から考えても、蠱惑的なラナが「悪い」のは一目瞭然としても、ディアナが良い子で、ジュディが普通と言い切ることはとてもできません。初めに私がディアナから抱いた印象は、「オーケストラの少女」と「アメリカーナの少女」だけからのものでした。そこでは彼女が親のためにつくす優等生としてのイメージしか感じなかったのです。ところが、彼女のすべての主演作を見てみると、その印象を大きく修正せざるを得なくなります。しかも、フィルム上のこととは言え、ジュディとの性格や設定の違いがかなり対照的なのにも気づくことになります。

 映画の上でのジュディは、暮らし向きは基本的に中産階級かそのやや下くらい。まあ、平均的なアメリカ人のそれと思われます。そうでないのは、「踊る海賊」のお姫様と”Everybody Sings”くらいではないでしょうか(「アンディ・ハーディー」シリーズに出てくるベッツィー・ブースも? 「カップル・オブ・スウェルズ」はナシね)。

 対照的にディアナはお金持ちの娘という設定の割合が相当高く(21作中8作)、さらに、貧乏な娘が最終的にお金持ちと結婚する(らしい)という作品を加えれば、「金持ち化率」はもっと高くなります。そういう意味で、ディアナの映画は大衆の夢を叶えるおとぎ話的な要素が強く、ジュディの出演作は当時のティーンエイジャーの等身大の生活に近いと言うことが可能です。

 役柄も対照的です。何度も書いたようにディアナは"Little Miss Fix-It”として、困難な状況を解決するため自ら果敢に行動していく積極性があります。そのため、時にはその場を取り繕うための嘘をつくこともあります。そういう意味ではとても良い子とは言えません。ただ、観客に「それも仕方がない」、「当然だ」と思わせる説得力を持っているのです。

 一方、ジュディは自分から積極的に動くことはありません。その違いは、ディアナとくらべると本当にはっきりしています。周囲の状況や他者の行動にまきこまれ、その中での反応として行動したり悩んだりするのです。そのため、他者と対立したり、説得しようとしての激しいやりとりも少ない傾向にあります。その違いは、ディアナの映画を観た後でジュディのそれとくらべると、ジュディの映画が、演技も含めて「静か」だという印象を直感的に抱いてしまうほどなのです。

 以前も書いたことですが、ジュディには彼女のペルソナを裏から支える批評性が内在し、周囲の出来事をどこか醒めた目で見ています。周囲の状況と薄紙一枚隔てた距離があります。それに対してディアナは、すべての出来事を「現実」として受け取め、自らそれに関わろうとしていきます。その行動の純粋さ(単純さ?)と積極性が観客に爽快感を与え、「おとぎ話」に一層のめり込ませていくのです。

 この違いは、両者が生活する「映画内世界」に設定された環境とも分かちがたく結びついており、「受け身の批評性」と「行動力の現実性」が、それぞれの物語にそれぞれの「真実味」を加えることになっているのです。


2010年11月27日土曜日

ディアナ・ダービン その22 「引退」

 結婚の後、出産、育児と続いたためか、この時期のディアナの公開作は少なくなっています。1945年は”Lady on a Train”のみ。翌461月に、チャールズ・ロートンと二度目の共演となる”Because of Him”が封切られた後は、「私はあなたのもの」(”I'll Be Yours” 472月公開)まで一年以上の空白があります。

 以後この作品も含め47年と48年に二本ずつの作品が公開されます。内容は、”Up in Central Park”1880年代のニューヨークを舞台にしたミュージカルの映画化である以外は、いずれも以前と変わらぬコメディタッチの作品です。しかしディアナには、スターとしての生活を続ける意欲がすでに消え失せていました。19489公開の「恋ごころ」(”For the Love of Mary; 実際の撮影時期は”Up in Central Park”より前)を最後に、彼女の映画はもはや制作されることはありませんでした。49年末には、36年から続いたユニヴァーサルとの契約も終了。両者間に金銭や制作本数を巡る係争があったものの、最終的にスタジオ側が折れる形で決着することとなります。

 ジャクソンとの離婚が成立したディアナは、50年に娘を連れフランスに移り住みます。同年12月にチャールズ・デイヴィッドと結婚、翌516月に長男のピーターを出産。以来、パリ近郊の農村Neauphlé-le-Châteauに居を構え、マスコミとの接触を断ったまま、今日に至るのです。

 

 但し1983年に、彼女は一度だけインタヴューに応じています。その内容は英国の映画雑誌”Films and Filming”に掲載されましたが、記事の中で、映画界を去る頃の気持ちを次のように振り返っています。

どうして引退したかですって? たとえば、最後の四本を観てご覧なさい。そうすれば、私が演じなくちゃいけなかったお話は、”出来が良くなかった”なんてもんじゃなくて、”どうしようもない”方に近いのが良くわかるわよ。ストーリーや監督について不満や希望を伝えても、スタジオはいつも受け付けてくれないの。私は最高のギャラをもらいながら、最低の題材を割り当てられてたの。今になって考えると、私の給料は、どこにも良いところのないこういった作品と付き合わなくちゃならなかったつらさの代償みたいなものね。


 相変わらずの辛辣さです。

 しかし、そういった「最低の題材」を観たファンからの手紙は、ビデオやDVDの普及と共にますますその数を増し、返事を書ききれないほどの数が今も彼女に届いているのが現実なのです。










60~61歳頃のディアナさん



2010年11月24日水曜日

ディアナ・ダービン その21 「Lady on a Train」

 194412月の末に封切られた“Can't Help Singing”は、ディアナ初のカラー作品ということもあり大ヒットを記録します。
 翌456月、彼女はプロデューサーのフェリックス・ジャクソンと、ラスヴェガスの小さな教会でひっそりと結婚式を挙げます。ジャクソンは彼女より19歳年上で、すでに離婚歴が三度もある人物でした。案の定(?)一年ほどすると、ジャクソンの方から結婚生活に不満を漏らすようになります。二人の間には、'462月に初めての子供ジェシカが誕生したものの、'471月、ついに別居。最終的には、194910月に離婚することとなります。

 さて、” Can't Help Singing”の次の作品として'458月に封切られたのが、サスペンス・コメディーとして楽しめる、”Lady on a Train”
 監督は後にディアナの三番目にして最後の夫となるフランス人チャールズ・デイヴィッドです。
 サンフランシスコからニューヨークにやって来た大富豪の娘ディアナは、速度を落とした列車の窓から向かいのビルで行われた殺人事件を目撃してしまいます。到着するなり警察に駆け込みますが、事件の起こった証拠もないため取り合ってもらえません。ミステリー好きの彼女は愛読する本の作家の協力も得て、殺されたと思われる男の屋敷に忍び込みます。そこで男の愛人と間違われたことから、一族の争いに巻き込まれ・・・・・
というお話。
 サンフランシスコの父親にベッドの上から電話で「きよしこの夜」を聞かせる場面は、少女時代の同様な場面を彷彿とさせると共に、現在のグラマラスな彼女を見せることで、変わらないディアナを見たい観客と成熟した姿を見せたい彼女自身を同時に満足させる妥協の産物だと言われています。



 もちろんナイトクラブの場面での”Gimme a Little Kiss, Will Ya, Huh?”のセクシーな歌声も素敵です。
 結局われわれ観客には、この映画や”It Started with Eve”のようなコメディタッチの作品が、この時期のディアナ・ダービンの良さを最も引き出しているように思えるのですが、当人の不満はやはり続いていたようです。 





2010年11月23日火曜日

ディアナ・ダービン その20 「Can't Help Singing--歌わずにはいられない」
















旅の途中、風呂桶の中でタイトルソングを歌うディアナさん

そういうわけで、非常にふくよかである

体型に関する感覚が今日とは異なる当時においてすら、太りすぎではという声が多くなっていきます


 ディアナ・ダービンの出演作を通して観ていると、果たして彼女の映画はミュージカルなのかと疑問に思うことがあります。もちろん” Can't Help Singing”や”Up in Central Park”1948年)のような「本格的な」ミュージカルも存在します。こういった作品では、それまで普通にしゃべっていた登場人物が、会話の文脈と感情の流れに乗って「突然歌い出す」という、典型的なミュージカルの手法が使われています。ダンスの場面もあります。

 しかしほとんどの作品で彼女が歌うのは、演奏会やパーティー、ナイトクラブ、家族に歌を聞かせるなど、何らかの「歌う理由」をストーリーの流れの中に設定されてのことです。その意味では、それなりの必然性を備えています。けして彼女は「突然歌い出し」てはいません。ただ、歌う設定が少しばかり強引に作り上げられ、彼女の歌を「とにかく聴かせ」ようとする点をとらえれば、「突然に歌い出すと言えなくもない」だけです。


 私たちがミュージカルと「思っている」映画の中での歌の使われ方を考えてみると、おおよそ次の三つに分けられると思われます。一つは、ドラマの部分で、場面の緊張や登場人物の感情が何らかの意味で高まったときに、その状態が歌としてさらに展開されていく場合。二番目は、舞台や映画撮影、ナイトクラブなどのショーの場面として歌われる場合。三番目は、一番目、二番目の意味を多少は含みながらも、「とにかく歌う」場合---プレスリーの一連の作品などいわゆる「歌謡映画」が当てはまると思われます。

 彼女の歌はミュージカルに中核的な歌の使用法と思われる第一の場合---「場面の緊張や感情の高ぶりを有機的に歌に発展させる」---の要素が非常に希薄です。 そのほとんどは、第二の場合を含みながらも、どちらかというと第三の場合に近いものです。観客はとにかくディアナ・ダービンの歌を聴きたがっています。その観客の欲求に沿うかたちで、映画の中に歌う設定を少しばかり強引に作り上げ、「とにかく聴かせ」ていくのです。歌がストーリーを邪魔しているとまでは言わないが、本来別に無くてもかまわない。それでも観客は彼女の歌を聞き満足する---そういった点でディアナの映画は、ミュージカルの一種ではあっても、歌を聞きたい観客のために歌う機会を設定していった歌謡映画的な色彩が濃いと思われます。


 人気歌手が主演した映画ならいざ知らず、本来映画スターであるディアナの出演作が歌謡映画的になってしまうところに、この人の歌うスターとしての特異性があるのです。


2010年11月20日土曜日

ディアナ・ダービン その19 「そうは言っても・・・・・・」










次回作は西部を舞台にしたミュージカル、”Can't Help Singing”1944年)。

衣裳デザインを担当したウォルター・プランケットの思い出話です。

 「ユニヴァーサル・スタジオはディアナをまるで女王のように扱っていました。彼女が望むものは何でも与えられたのです。その頃彼女は23歳くらいだったと思います。ロケ現場(南ユタ)に備えられた彼女専用のドレッシング・ルームは素敵なバンガローで、家と言っても良いほどの大きさがありました。

 彼女自身のことについても、主演の映画についても、最終決定はすべて彼女がすると聞かされていました。彼女に初めて会ったのは、衣裳のスケッチを見せるためでした。バンガローには私たち二人の他に、プロダクション・マネージャー、カメラマン、監督、セット・デザイナーが同席していました。彼女はスケッチを見て言いました。

”素敵なドレスね、気に入ったわ”

するとプロダクション・マネージャーがスケッチを皆に見せ、こう言いました。

”ミス・ダービンはこのスケッチを気に入られたそうだ。誰か意見があれば、今のうちに言ってくれ”

もちろん反対意見もなく、素晴らしいデザインだと皆が言い、承認の署名をするのです。 その時点でカメラマンはライトの良い当て方を心得ており、セット・デザイナーは彼女のドレスに合わせてセットを作るのです。」

 「映画のほとんどは6月から7月にかけて撮影されました。とても暑い頃で、朝われわれが現場に着くと、いつも霧がかかっていました。霧が晴れるのをそのあたりで待っていると、ディアナはわれわれをドレッシング・ルームに招いてくれました。そこには数カートンのシャンパンとバスケットに入った食べ物が用意されていました。霧が晴れる頃には、シャンパンと食べ物のために彼女のドレスは着るのがきつくなっていました。すると彼女が言うのです。

”さあ、お家に戻って休みましょう。撮影は明日でもできるんだから” 

その結果、その日の撮影は中止され、後には燦々と日の光が降り注いでいました。そして翌日も同じことが起きたのです。到着すると、濃い霧が立ちこめ、彼女のドレッシング・ルームでシャンパンとごちそうを食べ、撮影可能なほど霧が晴れた頃には、ドレスはパンパンに膨れ上がり、われわれは宿舎へ帰って休みます。このような事態がしばらく続き、私にはどうやって撮影を終わらせたのかわかりません。でも確かに終わらせたのです。」

 「他のスター、たとえばフレッドとジンジャーは、むちゃくちゃに稽古をしていました。哀れなデビー・レイノルズは、一日の終わりには水たまりほどの汗をかきながらこう言ったものです。

”これから衣裳合わせに行かなくちゃいけないの?” 

でも彼女はやって来て、それからまたリハーサルに戻っていきました。ドナルド・オコナー、ジーン・ケリーにジュディ---彼らは皆何時間も働き続けました。ディアナはただそのかわいらしい口を開け、愛らしい声を出すだけでした。彼女は歌を習い、そしてただ歌っただけなのです!」

 「終盤にさしかかると、シーンをカットする必要がでてきました。彼女には二つの場面がまだ残っていたので、私はそれぞれのために丹精をこめて舞踏会用のドレスをデザインしました。スタッフにはどちらのシーンをカットして良いのか決められません。彼女の承諾が必要なのです。そこでスタッフはあるアイデアを思いつきました。どちらのドレスが気に入ったかを彼女に聞き、撮るべきシーンを決めるのです。でもディアナは決められませんでした。両方気に入っていたのです。コーラスを従え、豪華に飾り付けられたフィナーレで、彼女は両方の衣裳を着たのです。最初の衣裳、次の歌では二番目の衣裳を。誰も気にしないのです。とにかく、このようなことがミュージカルではOKだなんて思いもしませんでした。」


 これは別にディアナ・ダービンを批判する文脈の中で語られたわけではありません。ウォルター・プランケットは彼女に対し好意的な人なのだそうです。

 ディアナとユニヴァーサルのやりとりだけを辿っていくと、互いに緊迫した重苦しい関係をつい想像してしまいます。しかし実際のところ、第三者の目で見ればこういう事だったのだというのがよくわかります。

 '40年代に入り、スタジオの稼ぎ頭の座はアボット&コステロに譲ったにしろ、ディアナは出演作のヒットがほぼ約束されている大スターです。彼女のカラー作品がこれ一本しかないのも、彼女の高額な出演料のため、貧乏なユニヴァーサルにはカラーで撮るだけの余裕がなかったせいだと言われています。そのユニヴァーサルでさえ(ユニヴァーサルだからこそ?)これだけの待遇を彼女に与えていたのです。


 まさに「ユニヴァーサル城のお姫様」です


2010年11月17日水曜日

ディアナ・ダービン その18 「ノワール」



















 セクシーな大人の役を演じたいというディアナの要求はますます強まり、スタジオもこれを無視することができなくなります。ついに'43年末、ユニヴァーサルは声明を発表。「彼女の映画は方向を転換するので、今後はミュージカルコメディでなく、ドラマティックな役柄のディアナに期待してほしい」と宣言します。声明の責任者はフェリックス・ジャクソン。パステルナーク以降、彼女の多くの作品をプロデュースし、後に二番目の夫となった人物です。

 その結果制作されたのがフィルム・ノワール、「クリスマスの休暇」(”Christmas Holiday” 1944年)。監督ロバート・シオドマーク、相手役はジーン・ケリー。

 嵐のためニューオリンズに足止めを食った若い中尉が、ナイトクラブのホステス(ディアナ)から過去を聞かされるというオーソドックスなスタイル。 まだ純真だった彼女が出会うのが南部の旧家出身のケリー。結婚した彼女は、夫の激高しやすい性格や母親との強い結びつきを知ることとなります。夫の起こした殺人事件を母親と一緒に隠蔽しようとしますが、夫は逮捕され刑務所へ。母親から事件はディアナのせいとなじられ、自分を責めるかのようにナイトクラブの女に身を落とします。最後は脱獄したケリーが警官に撃たれ、駆け寄った彼女の悲しみの顔のクローズアップ。

 ディアナはこれまでのイメージを一新します。ナイトクラブといっても、場合によっては客と寝るような店の設定。濃い化粧に胸の大きく開いたドレス、暗く厭世的な表情や歌声。夫の行動に猜疑心を抱き、泣き、母親には頬を叩かれるといった激しい演技。後に彼女は、全出演作の中でこの映画を一番気に入っていると語っています。

 たしかに彼女の立場に立てば、この役は演じ甲斐があったのかもしれません。しかしはっきり言って、ディアナにこういう役は似合いません。フィルム・ノワールのヒロインに必要な「鋭い美貌」がないからです。肉付きの良い彼女の顔は、濃い化粧でかえって奇妙になってしまいます。男を深みに引きずり込む危うさもありません。俳優の顔にわれわれが抱くイメージは複合的ですが、彼女の顔からまず浮かび上がるのは、誠実さや地に足のついた確かさです。彼女自身の思惑とは違い、ディアナ・ダービンのセクシーさは、この種の映画に必要なそれとはレベルを異にしています。彼女のセクシーさは日常的な設定の中で意味を持つセクシーさなのです
















 加えて残念なのは、他社に一度も貸し出されることの無かった彼女にとって、これがジーン・ケリーとの一度だけの共演であったことです。作品の良し悪しは別にして、何もケリーとの唯一の共演がフィルム・ノワールでなくても良かったのではないか。変なたとえで申し訳ないが、互いに自分の宏壮な邸宅を持つもの同士が、門番の小屋で逢い引きをしているようなものです。たまには変わった所で会うのも良いのかもしれないが、もっと適当な場所がいくらでもあったはずです。二人が本来持っていたスタイルを上手く融合したミュージカルが作れていれば、また違った彼女の未来が開けていたかもしれません。惜しいことですが、出会った時期も悪かったし、ユニバーサルにもそれだけの力がなかったと言うことでしょう。

 当時の観客も同様だったようです。

 いくらスタジオからの声明があったとはいえ、ディアナ主演で相手は「カバー・ガール」が封切られたばかりのジーン・ケリー、題名が ”Christmas Holiday” とくれば、つい楽しいミュージカルを期待してしまいます。映画を観て、驚き反感を持ったファンの抗議がスタジオに殺到。映画の不評は再び針をミュージカルコメディに振り戻していきます。

2010年11月12日金曜日

ディアナ・ダービン その17 「 歌 」2

 娯楽映画の観客がスターのどんな「階層」を観ているかは複雑な問題ですが、ごく大まかに言うと、観客は「ストーリーの展開の中でスターを観る」レベルと同時に、「ストーリーを離れ、スター自身を直接観る」レベルで映画を観ていると思われます。とくにディアナ・ダービンの場合、後者のレベルが非常に強く、あえて言うと、観客は彼女と歌だけを観ていたいということになります。あとは「どうでも良い」のです。

 彼女を評して揶揄的に「突然歌い出す”Little Miss Fix-It”」という表現が使われます。「突然歌い出す」かどうかはまた後で考えたいと思いますが、仮に「突然歌い出す」としても観客は一向に気にしていない---大衆はディアナが歌う理由などにまったく無頓着である---ことに、制作を重ねていく過程で撮影所は気づいたのです。彼女の歌う場面の多くはバックの踊りも、歌うための劇的な設定もありません。必要ないと言うより邪魔なのです。観客の望むのは、たわいのない物語の中で、何の夾雑物もなしにクローズアップで歌う彼女の姿だけです。そこで味わった至福感がこの上ないものであったため、成長してからの彼女にも大衆はそれを求め続けることになります。

 しかし、たとえディアナと観客が直接結びついているように見えても、その間には必ず「撮影所が作る映画」という媒体が存在し、「利潤の追求」を伴っています。彼女が成長したシリアスな役柄をどれほど望んだとしても、大衆がそのことを望まなければ撮影所は動きません。かくして、ディアナ・ダービン自身の天賦の才が生み出した大衆との強い絆は、逆に彼女の変化の軛となっていきます。彼女の変化への志向は、撮影所や観客と三つ巴となって、右往左往を繰り返すことになるのです。



美しいという意味ではこれが一番。「ホノルル航路」より「アヴェ・マリア」


この人なりの色気がある、”Something in the Wind”より”The Turntable Song”



ディアナ・ダービン その16 「 歌 」1

 これまで私はディアナ・ダービンの看板とも言うべき歌について、あえて触れることを避けてきました。その理由は、「厄介なもの」だからです。彼女の歌には単に「スターが上手い歌を唱っている」ということだけでは括れない複雑な事柄が関わっています。それを一つ一つ探って行くには、扱う順序と予備知識が重要になると思ったのです。しかし話を進めるためには、このへんで彼女の歌について考えてみないといけないようです。

 まず最初に、ディアナの歌唱力を考えてみます。

 映画の中で歌われる彼女のレパートリーは声楽曲から民謡、古謡、ポピュラー、ジャズまで幅広いのですが、基本はクラシックの発声と言うことになります。そこで、「彼女の歌はうまいのか」という話になれば、「うまいにはうまいが、一流のオペラ歌手に較べれば、声量、音域、声の響きなど、やはり見劣りする」と言う結論になります。しかし、「じゃあ、二流の声楽家レベルか」と問われると、必ずしもそうとは言えません。それは「歌の勘所においてうまい」からです。

 彼女の主声域は胸の下部から腹にかけ、横隔膜を中心に存在し、比較的大きな球状で偏りがなくしっかりした構造をしています。その結果彼女の歌は、そのパーソナリティに似て、深みがあり、力強く、まっすぐで、しかもしっかりした、非常にオーソドックスなものなのです。声量や音域といった技術的な問題で多少劣っていても、観客の心に響くうまさを十分に持っています。このあたりは、パステルナークがMGMで育て上げたディアナのエピゴーネン---キャスリン・グレイスンやジェーン・パウエル---と較べると良く分かります。

 彼女の歌というと歌曲や古謡がまず頭に浮かびがちですが、殊に成長してからはジャスやポピュラーも歌っており、かえってこういった分野の中に捨てがたいものがあります。”Lady on a Train”1945年)で歌われる”Gimme a Little Kiss, Will Ya, Huh?”や”Something in the Wind”1947年)での”The Turntable Song”は声や歌の深みと色気の混淆が何とも言えず魅力的で、こういった歌の方に「うまい」と言う印象を抱かされます。


 しかしより根本的な問題は、彼女の歌が上手いとか下手だというところにはありません。彼女の歌はスクリーン上のディアナのパーソナリティと分かちがたく結びつき、互いが互いを補完、補強する関係が成り立っています。その結果、クローズアップで映し出された彼女の顔と歌は融合した一つの「装置」として観るものに働きかけてきます。映画という枠を離れ、銀幕上から観客に直接訴えかけ魅了する強い力を持っているのです。しかも「装置」の力はそれだけにとどまりません。ディアナの歌は一種の神々しさでプロットの綻びや無理を覆い隠し、場面を鎮めていきます。観客は映画の楽しさも欠点も矛盾もすべてを許容したうえで彼女の歌に包み込まれ、至福の時を味わうのです。

 歌えるスターには多少なりともこのような力が備わっているものですが、ディアナ・ダービンの場合、とりわけ強いのです。

その結果がどうなったか。


2010年11月10日水曜日

ディアナ・ダービン その15 「反抗 」

 ”It Started with Eve” が封切られた'41年10月以降、ディアナは家に閉じこもり、ユニヴァーサルの要請に一切応じなくなります。突然の結婚に続く第二の反抗です。

 反抗の理由は、以前からくすぶっていた不満にありました。”Little Miss Fix-It”と呼ばれた役柄に飽きたらず、シリアスな題材で年齢相応の人物を演じたいと希望したにもかかわらず、撮影所から作品の企画や役柄について何の相談もなかったことです。加えて、年二本の撮影ペースでは子供を作る余裕もないとの心配もあったようです。

 ディアナの態度は予想以上に強硬で、彼女の主演作は'42年には一本も封切られないことになります。稼ぎ頭のストライキが長引くにつれ、当初は高をくくっていた撮影所も、本腰を入れて交渉に当たらざるを得なくなります。その結果、企画や役柄には彼女の了承を得ることで両者は妥協。ようやく新たな作品の撮影に入ります。 当時ハリウッドにいたジャン・ルノワールを監督に迎えた「海を渡る唄」(”The Amazing Mrs.Holliday” 1943年)です。

 ところが、大監督の起用と新たな役柄に期待が集まったものの、脚本の不備などからルノワールは途中で降板。ブルース・マニングが代役を務めて映画を完成させます。できあがった作品は、ファンの間では「”大ダービン日照り” は終わった!!」と歓迎されたものの、批評家の評価も低く、内容も役柄も前作より後退した印象は否めません。結局次の二作は、元の路線に戻ったかのような「天使の花園」シリーズの最終作”Hers to Hold”、そして明るい彼女の歌が楽しめるコメディ、「春の序曲」(”His Butler's sister” 1943年)となります。観客は歓び、ヒットにスタジオも満足しますが、彼女の不満は再び高まっていきます。

 追い打ちをかけるように、夫との行き違いも大きくなり、1943年12月、ついに二人は離婚に至るのです。

















離婚法廷でのディアナ

2010年11月7日日曜日

ディアナ・ダービン その14 「It Started with Eve 2 」



















 二つ目はディアナと年上の男性との関係です。

 これまでの彼女の映画には、中年の男性に憧れ、恋心を抱く設定が多いことに気がつきます。「年ごろ」、「ホノルル航路」、「Nice Girl?」 、恋人ではありませんが、中年男性との交流が大きな役割を果たす「アヴェ・マリア」。

 中年男性との恋愛は様々な意味で利点があります。まず、この時代の制約の中では、中年男性は知的で分別がある存在と描かれているため、彼女の思いをうまく「いなし」、恋愛にまつわる性的な生々しさを避けることができます。次に、少女でありながら存在として大人びているディアナと対等に渡り合える対象であること。さらに、時代の枠組みや倫理規定、物語の構造などがブレーキ役となり、「この恋愛は成就しない」と観客が直感的に予想するため、映画を安心して観ることができることです。

 加えて、若者だけが活躍する「青春映画」とくらべ、中年男性がストーリーに絡むことで様々な年代の人々が興味を持ち楽しめる要素が増える利点も挙げられます。

 一方、 ”It Started with Eve”での相手は中年どころか死期の近づいた老年、ロートンです。しかも思いは彼からディアナに強く向いています。その結果この映画の主題は、ロートン、ディアナ、カミングスの(一辺を隠した)三角関係になっています。表面上はディアナとカミングスを結びつけようと画策するロートンですが、その過程で浮かび上がってくるのは、ロートンからディアナへの強い思いと、それを包容力で受け止めていくディアナとのセクシャルな情感の交流です。地下の水脈のように鈍い光を放つ性的な情感が、この軽妙なコメディに豊かな陰翳を加えているのです。

 少女ではない彼女にとって、もはや年の離れた男性にあこがれる必要はありません。ロートンを介しカミングスと結ばれることによって、作品の中でのディアナは自らの少女の役割を無事、終焉に導くことができたのかもしれません。


 しかし、この作品を最後にパステルナークもコスターも相次いでMGMに去って行きます。

「成長する少女」のテーマを失った彼女の迷走が始まります。


2010年11月6日土曜日

ディアナ・ダービン その13 「It Started with Eve 1」

















 ”It Started with Eve”はロートン、ロバート・カミングスと共演のスクリューボール・コメディ。決して傑作、名作と言うわけではありませんが、配役の妙、ストーリーの巧みさから、とても楽しめる映画になっています。

 死の床に就いた大富豪(ロートン)は、駆けつけた一人息子(カミングス)に彼の婚約者の顔を一目見ておきたいと言い出します。お抱え医師から今晩持つかどうかと聞かされた息子は、婚約者を迎えに雨の夜、ホテルへ向かいます。ところが婚約者は母親と出かけたまま。どこへ行ったのか、いつ帰ってくるのかもわかりません。困った息子は、仕事を終えホテルを出てきたクローク係の女性(ディアナ)に事情を話し、婚約者のふりをしてくれないかと頼みます。翌日郷里へ帰る予定のディアナは一旦断りますが、お礼の50ドルに心を動かされ、引き受けることになります。ロートンは彼女をいたく気に入り、安心したように眠りに就きます。お礼をもらいアパートへ帰るディアナ。

 すべて上手くいったかに思われましたが--- 翌朝、なんとロートンがすっかり元気になってしまい、婚約者と一緒に朝食をとりたいと言い出したから、さあ大変・・・・・・・。

 


 40ポンド(18Kg) 減量の上、わざと大きめの服を着て病後のやつれた姿を演じるロートンは相変わらずの上手さですが、ディアナもスターとしての存在感でロートンに一歩も引けを取りません。グランドピアノを階段の下に引っ張り出し、二階のロートンに弾き語りで歌を聴かせる場面の「腰の据わった力強さ」には、一種の爽快感さえあります。

 さらにまわりを囲む役者が適材適所です。二人の間で翻弄されるカミングスの軽み。ロートンやディアナの言動に右往左往する執事、お抱え医師や看護婦のおかしみ。婚約者を演じる女優さえ、「美人で品もあるが、痩せぎすでちょっと影が薄く、ロートンがディアナの方を気に入ってしまうのも無理はない」と思わせる、「ほどの良い美しさ」です。

 しかし表面的な映画の楽しさとは別に、この物語にはこれまでの彼女に区切りをつけるいくつかの大切な要素が隠れています。

 一つは、この作品で彼女が初めて、少女ではなく年齢相応で、とりわけ金持ちでも貧乏でもないごく普通の働く女性を演じていることです。自ら状況を変えていく”Little Miss Fix-It” でもありません。かえって周囲の状況に「巻き込まれていった」役柄です。これこそ「けなげな少女」の役に不満を抱いていた彼女にとって、(コメディという枠組みを除けば)この時点での理想とも言える等身大の設定だったと思われます。



2010年11月3日水曜日

ディアナ・ダービン その12 「突然 」



















「ハリウッドのピンナップガールが欲求不満な人たちのためにセクシーな役を演じているのと同じように、私は多くの父親、母親たちが期待する理想の娘を演じているの」


 スターの気持ちとはどんなものだろうと考えることがあります。といっても、大人になって自らその地位を勝ち取った人々のことではありません。年端もいかぬ子供のうちに、周りからお膳立てされた道を歩かされ、気づいたらそこがスターの居る場所だった---そういう子供や思春期のスターたちのことです。

 初めは目の前に与えられたことをただ一生懸命にやっている。そのうち、周囲が変わってくる。ちやほやされるが、勝手に一人で行動もできない。言動を縛られ、毎日忙しいだけの生活。その中で自分のやっていることの意味を考え、社会との距離を知り、さらにありうるなら、周囲との関係を批判的に捉えることが、いったいいつ頃起こるのか。そう云うことについて考えることがあります。

 しかし多くの場合、彼ら彼女らは成長と共にその魅力を失い、批判力や疑問が育つ頃にはすでに周囲からうち捨てられています。批判や疑問は過去を振り返る形でしか存在しません。それに引き替えディアナ・ダービンは、捨てられるどころか成長と共にその価値を増していった数少ない例です。批判や疑問は不満と形を変え、現在形で進行していきます。

 そして、いつかそれが表に現れる時が来るのです。


 1940124日、”Nice Girl ? “1941年) 撮影中のサウンドステージを会場に、ディアナにとって十九回目となる誕生パーティが盛大に行われます。多くの取材陣が待ちかまえる中、「突然の出来事」にディアナが「驚き」、新曲を贈られ、次回作の企画が発表されるなど、お約束の進行の内にパーティは終了します。

 ところがその翌日に突然、彼女の両親からディアナの婚約が発表されるのです。挙式は翌年4月、お相手は「天使の花園」の頃から助監督を務めていた5歳年上のヴォーン・ポール。ユニヴァーサルへの相談もなく、まったく唐突だったと言われるこの発表に対し、撮影所側の反応は伝わっていません。しかし両者の力関係からか、ユニヴァーサルもこれを認めざるを得ず、逆に宣伝の材料として使っていくことになります。

 1941418日の挙式は、ジュディ・ガーランド夫妻やミッキー・ルーニー等も含め招待客の総計900人余り。会場の外に詰めかけた数千人のファンと警備の警察官も見守る中、式は無事終了します。


  一カ月間の新婚旅行から帰ったディアナは、さっそく次回作 ”It Started with Eve”1941)の撮影に入ります。チャールズ・ロートンと共演したこの映画は、世上、彼女の最高作との呼び声も高いばかりか、パステルナークやコスターとの最後の仕事であるなど、様々な面で「少女期の終わり」を象徴する作品となっていきます。