2010年6月27日日曜日

レスリー・キャロン 自伝 その12 「ジュディ」

 「ジュディ・ガーランドの二十九回目の誕生日(前後の状況から考え満二十八歳の誕生日のこと?)、彼女と『巴里のアメリカ人』の関係者がアイラ・ガーシュインの家に招待されました。夕食も素敵だったけれど、それ以上にその晩は忘れられない夜になりました。ジュディがこう言ったのです。

 『今夜は私の夜よ。言っとくけど、今日は好きなだけ歌うわ』」


 「アイラがピアノを弾き、ジュディは自分のレパートリーをすべて歌い始めました。数時間も歌い続けながら、彼女の目はヴィンセントに釘付けになっていました。彼らの結婚がこの後破局を迎えるなんて、誰も予想できなかったのです。」

 「『トロリー・ソング』や『虹の彼方へ』も歌いましたが、特に印象深かったのは、心を打つ「サムワン・ウォチ・オーヴァー・ミー」の解釈でした。実際にこれは、この後ステージで披露し大成功となるパフォーマンスの予行演習でもあったのです。

 彼女の声は心から直に伝わってきます。彼女の内には熱情が存在し、まるで自分自身を燃え尽くしてしまうほどのスピードで生きているように見えました。茶色の目は大きく見開かれ、極端な傷つきやすさが手に取るようにわかりました。『繊細なバランス』という言葉は彼女のためにあるように思えたのです。」

 「パーティーから間もなく、『アニーよ銃をとれ』に関わっていた頃、飛行機の中で彼女は手首を切り、自宅の浴室でもう一度切ったのです。スタジオは驚き、ベティ・ハットンを後釜に据えました。」


 「そうは言っても、彼女にはとんでもないユーモアのセンスがあり、そのためパーティーの花形でもあったのです。とても背の低いルイ・B・メイヤーが、よくやり玉に挙げられていました。」

彼女によると、

 「メイヤーは本部ビルに専属の整体師を雇っていました。整体師はある装置を考え出します。その装置の上にメイヤーが寝そべり、首と足首が固定されると、機械によって体が上下に引っ張られます。この方法は効果があって、L.B.が喜んで治療室を出る頃には一インチぐらい大きくなっているのです。もちろん一時間後には元の身長に戻っているのですが・・・・・。

 この装置が次のように呼ばれていることをあえて彼に教えるものはいません。

   『拷問台』 」



註;
 この項にはレスリー・キャロンの記憶違いと思われる記載が多い。
 彼女の渡米時期やジュディとヴィンセント・ミネリの関係から考え、このパーティーは1950年6月10日前後と思われるが、ジュディが「アニーよ銃をとれ」を降ろされたのは前年の1949年5月、「のど」を切ったのはパーティー直後の1950年6月20日である。


2010年6月26日土曜日

レスリー・キャロン 自伝 その11 「土曜の夜は」

 「土曜の夜はノース・ロデオ・ドライヴのジーン・ケリーの家でくつろぐことになっていました。夕暮れ時になると正面玄関のドアが開かれ、ブロードウェイやヨーロッパから集まった俳優、歌手、エンタテイナー、脚本家、監督らがやって来ます。」

 「飲みたい人は勝手にバーで飲み、何か演じたい人は順番に。音楽監督のソール・チャップリンがピアノでガーシュイン、コール・ポーター、ジェローム・カーン、ロジャース&ハートやハマースタインの曲を弾きますが、どの歌の歌詞も誰もが知っていました。

 ベッツィー・ブレアは熱心に歌うものの、調子っぱずれ。ジーンがやるのはアイルランド人の決まり事---ウイスキーとおしゃべりです。スタンリー・ドーネンは周囲のやかましさにおかまいなく、ソファでぐっすりと寝込んでいます。レナ・ホーンは夫と来ていましたが、即興には加わりませんでした。」

 「オスカー・レヴァントは彼と私の顔が似ていると言って皆を笑わせ、アドルフ・グリーンとベティ・コムデンはいつも顔を出しては、ニューヨークのショーにかけるコントを見せてくれました。『雨に唄えば』という退屈な歌をもとにストーリーを作らなくてはいけない苦労を、毎週のように愚痴っていたのを思い出します。」

 「その歌の作者アーサー・フリードは皆から愛され、尊敬もされていましたが、彼のつきあい下手はいつもジョークのネタでした。恥ずかしがり屋で容易に人と交わろうとしなかったのです。テキサスから来たショーガールなどには目もくれず、彼の秘めたる情熱は蘭に向いていました。自宅には大きな温室があって、アメリカでも有数の蘭の栽培家だったのです。」


2010年6月22日火曜日

レスリー・キャロン 自伝 その10 「エスター」




















ハリウッドに来て初めての宣伝写真
ヴェラ=エレンのチュチュはウエストが長かった


 彼女を教える二人のアシスタントとは、スタンリー・ドーネンと別れたばかりのジニー・コイン、そしてキャロル・ヘイニーです。二人が見守る中、レスリーは練習を続け、その様子を二人はケリーに伝えます。映画の冒頭、彼女が踊るソロに使うアイデアを提供していたのです。

 ジャズに合わせての「モダン・ダンス」は新しい経験でした。動いているとついクラシックバレエの基本に戻ってしまうため、二人はレスリーを抑え続けなければなりませんでした。

 

「膝を曲げるの、レスリー。足は前に出したまま。第二ポジションは忘れて!  腕の力は抜いて!」

 彼女は、力強さと官能的な優雅さを兼ねそなえたキャロル・ヘイニーの踊りをコピーし、練習します。


 宣伝も大事な仕事です。

 着ているものがあまりに垢抜けないので、スタジオも困りはて、衣裳部に連れて行かれます。マスコミへのお披露目ではエリザベス・テイラーが「花嫁の父」で着た服を着せられますが、サイズが同じなのでピタリと合いました。 映画の宣伝写真用にはヴェラ=エレンのチュチュを着せられますが、これはウエストが長すぎたそうです。

 スタジオ内でのお披露目も大切です。

レスリーは宣伝部に連れられ、当時の主だったスターのところを挨拶に回ります。 ハワード・キール、ヴァン・ジョンソン、ピーター・ローフォード、ジューン・アリソン、ジュディ・ガーランドらについてはおおむね好意的な印象を記していますが、エスター・ウィリアムズにだけはいささか違ったようです。

 興味深いのでそのまま訳してみました。

 当時の興行収入No1のスター、MGMミュージカルの女王、エスター・ウィリアムズにも会いました。彼女は水の中でも外でも、あからさまで、傲慢なほどに自分のステータスを見せつけていました。負けず嫌いで、愛想よく振る舞う気などさらさらなく、他人の話など聞く様子もありませんでした。船乗りのように口汚く、レディらしく見せるつもりもなかったようです。彼女のことは好きだけれど・・・・近寄りたくはありません。


書かれる方もすごいが、書く方もすごい。


2010年6月20日日曜日

レスリー・キャロン 自伝 その9 「ジーン・ケリー」

 彼女はケリーについて多くの言葉を費やしています。


 「 ジーン・ケリーは素晴らしいダンサーで完璧なリズム感をもっていましたが、そればかりではありません。頭が良くて、リーダーの資質に富み、実際に皆を指揮するのも好きだったのです。

 パートナーの能力を推し測り、どうすればその魅力を最大限に引き出せるかを知っていました。映像の構成力にすぐれ、カメラが動くとどう映るかもわかっていました。撮影機器の技術的な側面にも詳しい知識を持っていました。」

 「 振り付け家として創造性に富み、斬新で、ダンサーというよりむしろスポ-ツマン的な面が強かったと思います。彼が求めていたのは優雅さではなく、今を生きる者の肉体表現だったのです。

 カッとしやすいところもありましたが、同時にフェアで、抑えた態度で良いところを指摘してくれました。悪い部分の指摘は鋭く、直截的で、何らの言い訳も許しません。彼の叱責をスタジオ中の誰もが恐れていました。」

  「幸いなことにリハーサルのほとんどは二人のアシスタントによるものでした。彼の言動は人を励ますものでしたが、ジーンの前ではたぶん私は自信を失っていたことでしょう。」


 冷房のない当時、夏になるとリハーサル室は灼熱地獄のようになりました。

 「それでもまるで工場労働者のように8時間そこにいないといけませんでした。自分の仕事が終わりいつ帰っても良いような時であっても、ジーンは良くこう言っていたものです。

 『何時に仕事に入り、何時に帰宅したか記録されている。それで8時間。そうやってスタジオは動いているんだ』」


 ある朝遅刻したレスリーはケリーから注意されます。

「どうしたんだ、目覚ましが聞こえなかったのかい」

「ごめんなさい、私・・・・・・・・目覚まし時計を持ってないんです」

「持ってない? あのね、言っておくけど戦争は終わったんだよ、お嬢ちゃん。そのへんのドラッグストアにいけばすぐ買えるんだよ」

 この言葉をきっかけに彼女は、フランスでの経験にとらわれた考えを脱し、アメリカにある無限の可能性に気づいていくのです


2010年6月18日金曜日

レスリー・キャロン 自伝 その8 「かつら」

 
 この段落はきちんと訳してみました。

 ジーン・ケリーは車を自分のバンガローの前に駐め、いくつものリハーサルの現場を分け隔てなく歩いてまわります。誰もが親しみをこめて彼に挨拶をします。
「やあジーノ、どうだい」  「じゃあネ」
 彼は毎日同じようなカジュアルな服装をしていました---ベージュの綿のズボン、ラコステのポロシャツは裾を出したまま、白いソックスに茶色のローファーを履き、そして頭には、当時ビーニーと呼ばれていた野球帽をハゲを隠すためにかぶっていました。
  ショーン・コネリーが現れるまで、ハゲのスターは皆演じる時はかつらを付けていたものです。ジーン・ケリー、フレッド・アステア、そしてデヴィッド・ニーヴン(彼は自分のかつらをAubusson(絨毯?)と呼んでいた)らは、撮影時も、マスコミの前でも、もちろんパーティーに行くときもかつらを付けていました。そのどれもが事実上の(スターとしての)パフォーマンスだったのです。
 当時のスターは、自分のイメージを崩さぬよう、気を遣っていたのです。

 アステアがハゲていたのは有名ですが、私は寡聞にしてジーン・ケリーがハゲていたことを知りませんでした。













ビーニー ?


レスリー・キャロン 自伝 その7 「MGM」

 スタジオに通い始めたレスリーは、まるで一つの町のようなその規模と設備に驚き、撮影所の様子やしきたりについて語っています。


 MGMには三つの門があります。一つは彼女が電気設備の労働者らと一緒に通っていた裏門。二つ目はスターがエグゼクティヴ用の駐車場に車を止め、歩いて入る正門。そして三つ目は日雇いの俳優やエキストラ、事務職員らが入る門です。

     「ハリウッドでは序列が尊重されていました」 

 撮影所内には、主役級の俳優や大切な客を運ぶため、いつも黒塗りのリムジンが待機していました。セカンド・アシスタントは常に彼らがどこにいるか(セット、衣装、メークアップ、結髪、食堂等々)を記録しますが、この記録が撮影所の運営を円滑にするために大切だったようです。

 ビルの最上階には、撮影所のトップの人々しか入れないダイニングルームがあり、最上級の美人ウエイトレスが接待をします。ここは一種の聖域で、俳優が入ることは滅多にありません。

 俳優は食堂で食事をとることになっていました。食堂は一種のキャスティングの場にもなっており、監督、プロデューサー、エージェントにとっても顔を出しておいたほうが良いところでした。

 さらに食堂は噂話が行き交う場所でもあります。

     「今朝、誰それが遅刻したので撮影が遅れた」

     「誰それは太った」

     「昨夜モカンボであの女優が誰それの旦那と一緒だった」

などというゴシップが行き交います。


 レスリーは毎日決まったように、半ポンドのハンバーグステーキとサラダとデザートのゼリーにコーヒーを三十分かけて食べていました。食べ終わると自分のトレーラーに飛んで帰り、三十分の昼寝をします。

 一般社員用のカフェテリアにもよく行きましたが、いつももう一人女優が来ていて、皆と気さくに食事をとっていました。

 エヴァ・ガードナーです。


2010年6月16日水曜日

レスリー・キャロン 自伝 その6 「アメリカ」

 1950年の春、空路を乗り継ぎ三十六時間をかけ、レスリーと母マーガレットはロサンゼルスに到着します。すぐにビヴァリー・ウィルシャーという名の中級ホテルへ連れて行かれた二人は、一週間分の給料百五十ドルの小切手を渡され、アメリカでの生活を始めることになります。

 戦中から戦後の貧しさやギスギスした人間関係を体験した二人にとって、アメリカでの生活では驚くことばかりでした。紹介された代理人の愛想の良さに警戒感を抱き、レストランでは皿全体を覆う巨大なステーキに驚き、街で出会ったグレゴリー・ペックに感激します。

 母マーガレットが自分用にスプリングコートを買ってしまったため、今後の生活費や宿泊代が足りなくなると考え、二人はあわててMGMスタジオに近い安手のホテル---カルヴァー・ホテル---に居を移します。部屋の臭いや環境の悪さに、レスリーはバレエ団のベイルート巡業の頃を思い出す事になります。

 三日目、マーガレットがケリーに電話を入れると、受話器の脇にいても聞こえるような大声が響きます。

 「どこに行ってたんだ。今どこにいるんだい。スタジオ中がこの二日間、君たちを捜してたんだよ。カルヴァー・ホテル? 信じられないよ。そのへんのアシスタントが昼休みにショーガールを連れ込むようなとこだよ。ヘッダ・ホッパーにこんな事を知られないように、ジッとしてなくちゃだめだ。マーガレット、すぐタクシーに乗って家まで来なさい。ハリウッドについていくつか教えとかなくちゃいけないから・・・・・・・」

 結局二人はカルヴァー・ホテルより少しましな、MGM裏のモーテルに引っ越し、そこで生活することになります。


2010年6月14日月曜日

レスリー・キャロン 自伝 その5 「電話」

 数週間後、スクリーン・テストのことさえすっかり忘れていた彼女のもとへ電話がかかります。

  「MGMの採用が決まった。三日の内にハリウッドへ向け立つように」。


 彼女が映画界入りを決断した理由は、母親の希望以外にもまだありました。舞台でコンビを組むJean Babilee(フランス語の読み方がわからない)の存在でした。 レスリーは彼に激しい恋心を抱いていたのです。

 しかし彼は二年前に結婚したばかり。しかも彼女は敬虔なカトリック。このどうにもならない状況から逃れるため、レスリーはハリウッドに目を向けるようになります。

 「三日の内にハリウッドへ向け立つように」という言葉が、頭の中で何度もこだまするのです。


 この頃母親が彼女に言っていた「今後のキャリアへの忠告」がおもしろいので、ついでに書いておきます。

 「あなたはちょっとジーン・ティアニーに似てるわ。どこかエキゾチックなところがあるの。だから撮影所でサロン(東南アジアの腰布)なんか着せられないようにするのよ。ドロシー・ラムーアの情けない姿をよく考えるの。それから、何をしても良いけど、ミッキー・ルーニーとだけは結婚しないように」(?!!!)


2010年6月13日日曜日

レスリー・キャロン 自伝 その4 「スクリーン・テスト」

 シャンゼリゼ・バレエ団に入団したレスリーは、当初からソロに抜擢されます。

  一般にバレエの世界では、初めはその他大勢として踊り、出世するにつれソロで踊る場面をまかされ、さらに主役をはじめ主要な役を割り当てられて行くのが普通です。このことから考えても、バレリーナとしての彼女が入団まもなくからどれだけ期待される存在であったかが明らかです。

 客席にはジャン・コクトーやジャン・マレー、アルベール・カミュといった人々の顔も見られ、文化的で洗練された雰囲気の下、彼女はバレエに没頭していきます。公演もヨーロッパばかりかエジプトやレバノンにまで及び、戦後の貧しい環境の中、貴重な経験を積んでいくことになります。

 さて、1949年(はっきり書かれていないが、前後の文脈から推定するとこの年。IMDbでは1948年となっている)、レスリー主演の”La Rencontre”を観たジーン・ケリーが、終幕後の楽屋を訪れます。ところが当時の彼女は幕が下りるとすぐ家に帰ってしまっていたので結局会えずじまい。翌年、約束を取り付けたケリーは彼女と会い、来訪の経緯----MGMで「巴里のアメリカ人」という作品を撮る予定であること。終盤に約二十分間のバレエシーンがあること。その相手役として、カメラ写りや演技を知りたいのでスクリーンテストをしたいこと。会社からはオディール・ヴェルソワ(マリナ・ヴラディの姉 )をテストする許可だけをもらっているので、こんな事をしたらクビになるかもしれないこと。----を告げるのです。

 初めて会うケリーに対し彼女は「優しく、信頼できる」人とその印象を語っています。

 実は、彼女への映画の誘いはこれが初めてではありません。イギリスやフランス(マルセル・カルネ!!!など)からもスクリーンテストの要請があったのです。この事実からだけでも、彼女が舞台でどれだけ魅力的であったかがわかります。

 しかし、当時のレスリーには映画への関心はまったくありませんでした。彼女にとって、バレエとクラシック音楽だけがあこがれの対象だったのです。それでもテストを受けたのは、母親を喜ばせたいという気持ちが大きな力になっていました。

  彼女の母は、バレエよりも映画の世界の方がレスリーにとって将来性もあり、長くやっていけると考えていたのです。


2010年6月10日木曜日

レスリー・キャロン 自伝 その3 「生い立ち」2

 二人が恋に落ちたのはクロードが大学最後の年です。しかし、離婚歴があり年も五つ上、髪は脱色したブロンドでおまけにタバコも吸う元ブロードウェイのダンサーをキャロン家が受け入れるには相当の抵抗があったようです。

 クロードが兵役を終えた1929年、ようやく二人は結婚。結婚後も祖父の屋敷に同居し、レスリーもそこで育つこととなります。彼女には二歳年上の兄がおり、お転婆な彼女は兄のマネをしながら楽しく子供時代を過ごしますが、1939年に第二次世界大戦が勃発。物資も不足し、不安の中で窮屈な戦時下の生活を余儀なくされます。しかしドイツ軍に占領されると逆に治安は安定したらしく、11歳の時に彼女はバレエを習い始めることになります。

 レスリーがバレエを習うようになったのは彼女自身の意志によるものですが、母親の影響もあったようです。母親は常にアンナ・パブロヴァやニジンスキー、バレエ・リュスのすばらしさを語っていたのです。

 母マーガレットは世間一般の母親とは少し違った人でした。夫が帰る頃までを自室で過ごし、好きな読書や友人との会話を優先させていました。しかし子供を放っておいたというわけでもなく、彼女なりの方針で育てていたようです。レスリーに対しても、自分自身で食べていけるようなプロのキャリアを身につけることや、それが男性のために途中で挫折することがないようにと教えています。


 14歳の時レスリーは50人の中から選ばれた6人の内の1人として国立バレエ学校「コンセルヴァトワール」に入学します。懸命に稽古に励んでいた彼女ですが、なんと、学校で与えられたチュチュのデザインが気に入らないからという理由で退学してしまいます。オペラ座に入る夢も絶たれたと落胆するレスリーですが、母親はローラン・プチのいるシャンゼリゼ・バレエ団への入団を勧めます。

 最終的にプチから認められた彼女は、シャンゼリゼ・バレエ団に入団することになります。

19479月、16歳の時でした。


2010年6月8日火曜日

レスリー・キャロン 自伝 その2 「生い立ち」1

 本題に入る前に彼女の生い立ちを簡単に書いておきたいと思います。

 奇妙なことに、この本では彼女の生年月日について全く触れられていません。

「・・・・年に何歳だった」と言う記述はあるので、年齢をまったく秘密にしているわけではないようですが、具体的な生年月日の記載がないのです。

 というわけで、仕方がありませんが、必要なところは他の資料で補いながら書き進めることにします。


 レスリー・キャロンは193171日、パリ近郊のブローニュ=ビヤンクールに生まれます。祖父がいくつもの会社の顧問弁護士をしていたため、生家は使用人を何人も抱え、たいへん裕福だったようです。

 彼女の父親クロードは四人兄弟の三番目。祖父の仕事は兄が引き継ぎ、法律に興味がなかったクロードは、大学で薬学を専攻。最終的には祖父の援助で薬局を経営しながら、研究所も作ってもらい薬の研究も続けていました。独自に考案したビタミン剤や香水なども売っていたようです。

 母親のマーガレットはカンサス州トペカ出身のアメリカ人。幼い頃父親に捨てられ、母と二人、散々苦労を味わった末、最後はシアトルに落ち着きます。ここでバレエを習い始めた彼女は、後にレヴューやヴォードヴィルに参加。’20年代初めには、ブロードウェイへも進出しますが、結局、期待したような成功を収めることができず、シアトルに舞い戻ることとなります。ここでハイスクール時代からの友人であるシアトル銀行の御曹司と結婚したものの、偏狭な地方の社交界になじめなかったのか、彼女の方から離婚。 別れた夫の姉妹にあたる女性とパリへ渡り、そこでクロードと知り合うことになるのです。


2010年6月7日月曜日

レスリー・キャロン 自伝  その1

 去年出版されたレスリー・キャロンの自伝  ”Thank Heaven: a memoir”Viking Penguin 2009) を眺めていたら、なかなかおもしろいことが書いてあるので紹介してみることにしました。

  但し、彼女のダンスについてどうこう言うつもりもなければ、本の内容全般にわたって紹介するものでもありません。あくまで彼女の映画---それもMGM時代---に関連した部分から、興味をそそられたところを紹介するだけにとどめたいと思います。

 いつものことですが、誤訳、誤解にもとづく記載があればご容赦下さい。


2010年6月6日日曜日

久しぶりに・・・・

あまり怠けていると「書かない癖」がついて、本当に何も書きたくなくなるので、このへんで一つ。