2008年3月11日火曜日

ご挨拶

 長らくご愛読いただきました「踊る大ハリウッド」も、このへんでいったん終了とさせていただきます。

 平成18年10月からの一年半にわたり、さまざまなご声援、ご意見を頂き有り難うございました。当初からたいした計画もなく、日頃ビデオやDVDを見て考えたことを文章にできればと軽い気持ちで始めたものです。しいて言えばジーン・ケリーで始めてアステアで終われればよいと思ったことが計画といえば計画なのかもしれません。そう言う意味では最後に何とか平仄を合わせ、形だけは首尾一貫することができました。

 勝手なことを書いているようですが、これでも資料を読んでまとめるのはなかなか大変なことです。とくにミュージカルに関する重要な著作はほとんど英語なので、私の英語力では時間がかかって負担になります。そういうことも含めこれからしばらく勉強しなおしたいと思います。

 今から十五年くらい前なら、ネット上で自分の考えを公表するなど夢にも考えなかったでしょう。自分の頭の中だけで消えてしまうはずのことが、少数であれ人様の目に触れる機会を作れたというのも時代の幸運かもしれません。一年半の年月のわりに大した分量ではありませんが、一般には語られていないようなことも書け、自分で読んでもなかなか面白いと自画自賛できたのがわずかな救いです。

 また何かの機会に書き始めることもあるかもしれませんが、ひとまずここでお別れをさせていただきます。


ではいずれまた。


OmuHayashi 


フレッド・アステア その19 「最後に」

 なんだかまとまりのない文章になったが、アステアについての論考もこのへんで終わりにしなければならない。

 アステアのダンスはそのパフォーマンス全体の効果に占める質感の割合が他のダンサーに較べて極端に大きいという特殊性をもっている。このため、他のダンサーとの直接の比較が困難になり、結果としてダンサー間の優劣争いから隔離されかつ擁護されるという特異な存在になった。

 最終的に「アステアは上手いのか」との問いには、「比較する階層が違うので比べられない」という答えになってしまう。

だがこれだけは言える。

アステアのダンスは彼一人だけの比類のないジャンルであること。

そして


「そのジャンルの堅牢さにおいて誰も並び立つものはいない」


フレッド・アステア その18 「上手い?」-4

 ここでもアステアはその身体的特性と同様、他に類を見ない孤立したジャンルの人である。運動能力としての動きは飛びぬけて優れているわけではない。しかしその力みのない動きからは、まるで振動が極端に細かくなって観客の脳と身体に直接浸透してくるような波動が生まれる。

 常に上昇するベクトルは見る者を揺り動かし、あたかも広大な愛のヴェールで観客を包み共に上昇して行く神の救済のようである。この類まれな質感の極まりこそがアステアの動きを常に裏側から支え「上手さ」を形作る本質ではないか。

 アステアはバレエなど他分野の踊り手から賞賛されることが多い。高い身体能力に裏打ちされたものなら反感や嫉妬も生まれようが、この質感はどれほど優れたバレエダンサーにもまねできず、まして競合もしない。

 自分と同一平面で勝負していない相手に対しては人間素直になれるものである。

 バレエのギエムやマラーホフといった人々と比べアステアが優れているのかという問いへの解答はそういうわけで難しい。比較する階層が違うからである。あえてダンサーとしての身体能力と技術、それによって表現される芸術性ということのみに絞れば、彼らの方が優れているのかもしれない。



 しかし同じような人が今後現れるかという再現性の問題になると話は違ってくる。ギエムがどんなにすばらしくても百年に一人くらいは同じレベルの人が現れるだろう。それはバレエを学ぶ基礎人口がこれだけあり、訓練の方法が完成されているからである。つまり彼女はバレエの訓練の延長線上で優れている人に過ぎない。ミュージカルの踊り手でも話は同様である。

 しかしアステアはどうか。現在のミュージカルやショーダンスの鍛錬や要求内容の延長線上にアステアの身体は存在しない(昔も同様だったのかもしれないが)。再来は偶然を待つしかないのである。

 そこを考えるとスタジオシステム全盛期にどうして彼の活躍期がスッポリ収まったのか、その偶然は謎としか言えない。


2008年3月10日月曜日

フレッド・アステア その17 「上手い?」-3

 管見しただけでもこれだけいるのだから、身体能力と芸術性を一定レベル以上に兼備えたダンサーの数は見当もつかない。こういったレベルのダンサーを上手さを考える上でまず第一のカテゴリーとして分類してみたい。

 上手さには別のカテゴリーに分類せざるを得ないものもある。

 当ブログを書き始めた頃に触れたシルヴィ・ギエムのパフォーマンスである。ただ立っているだけで、観客に直接情念で語りかけてくるような圧倒的な伝達力。 ギエムはもちろん卓越した身体能力も持っているが、時にはこのような能力も見せてくれる。同じ範疇にはいる人物に能の友枝喜久夫がいる。

 こういう人々の踊りでは基本的に動きはごく少ない。もっと言えば、動きは邪魔になる。このカテゴリーはいわゆる名人の領域なので、人数としてそう多くはないが、上手さを考える上で落としてはならない。

 ではわれらがアステアはどうか。第一のカテゴリーを基準に考えると、飛んだり跳ねたりの身体能力の点でまず落第ということになる。本人に元々その気がなかったのかもしれないが、回転数や高さで表される身体能力と、その能力に裏打ちされた技術の点で、彼らに到底およばない。明らかにこのカテゴリーの人ではない。

 では第二のカテゴリーではどうか。

 日常の立ち居振る舞いからして観る者を魅了するところは一見似ているようだが、アステアは不動だとか動きが不要なわけではない。たとえわずかな動きであってもそれが観客を魅了し、かつ動きが邪魔にならない点において大きく異なっている。

 さらに、第二のカテゴリーにおいて伝えられる情念は常に凝縮され、観客はそのエネルギーに見合うだけの緊張と疲労を強いられるのに対し、アステアの伝えるものはあまりに明るく拡散し、観客はうっとりと安らぐばかりである。


フレッド・アステア その16 「上手い?」-2

 さて、下らないと思われるかもしれないが、私はミュージカル映画のダンスがオリンピック種目だったら誰が優勝するだろうと考えることがある。芸術的要素の入った競技だから、ちょうどフィギュア・スケートやシンクロナイズド・スイミングと同じように、技術点と芸術点の両方で採点されることになるだろう。そうなると当然、ジャンプやスピンのための高い身体能力と芸術性をバランス良く備えたダンサーが優勝することになる。そこを考えると、男性ではニコラスブラザースが断トツの一位になるのではないかと思う。

 多用するスプリットはいささか鼻につき、兄のフェイヤードが言うほど優雅で品があるとも思わないが、その驚嘆すべき中心軸の安定とジャンプ力、両手と体幹を連動させた独特の表現力はやはり賞賛せざるを得ない。

 彼らが一位とすると、その後を追うのは誰か。三十代のジーン・ケリーではいささか荷が重いので、二番手はトミー・ロールやボブ・フォッシーあたりを考えるのが妥当なのだろうか。しかしこれはいわゆる「おなじみ」の中から選んだ場合であって、「ちょっとだけ出ている」人まで範囲を広げると話は変わってくる。誰が一番とは言わないが、身体能力と上手さを兼ね備えた人はそれこそたくさんいるからである。

 たとえばエレノア・パウエル主演の ”Lady Be Good” (1941) にゲストとして出てくる黒人三人組のベリーブラザース。アクロバットと言ってしまえばそれまでだが、ジャンプして相棒の首に両足で絡みついたり、自分の前に立てたステッキが倒れない内に、スピン一回転と両足のスプリットから立ち上がるまでを行う身体能力には唖然とする。

 リタ・ヘイワースの「今宵よ永遠に」(1945)は「ヘンダーソン夫人の贈り物」(2005)と同じ題材を踊り子の側から描いたミュージカルだが、二人の素晴らしいダンサーが登場する。一人は当時バレエ・リュス・ド・モンテカルロ のスターだったマーク・プラット。もう一人はキャロル・ヘイニーの項で少し触れた振付家のジャック・コールである。



 マーク・プラットは冒頭一座への入団シーンで、ラジオから流れる様々なジャンルの音楽に合わせ、これまた様々なダンスを見せてくれる。ジャズをバックにしても、いささかバレエ臭さはあるものの、みごとにスイングし、訓練しきった身体の素晴らしさを堪能させてくれる。

 一方のジャック・コールは、プロダクションナンバーの一つでリタ・ヘイワースと絡み、かなり長めに踊っている。リタがメインであるから、当然ジャック・コールは彼女に合わせ、力をセーブしている。それでも垣間見られる鋼のようなバネと力を抑えたことで生まれる一種の軽みが、不思議な凄みを醸しだし、「本気で踊ったらどれほど素晴らしいのか」と観る者に期待を抱かさせずにはおかない。

 

フレッド・アステア その15 「上手い?」-1

「フレッド・アステアは上手いのか?」

と書けば、「何をいまさら」と怒られるかもしれない。確かにアステアのダンスを評するには、「上手い」とか「すばらしい」という言葉以外見当たらない。「上手くないと思っているのか」と反問されれば、やはり「上手いです」と答えざるをえない。

 でも、「上手い」というのは他に適当な言葉がないからそう表現するだけであって、「皆が誉めているアステアの素晴らしさは、単なる上手さとは実は少し違うところを指しているのではないのか」というのが正直な気持ちである。この「単なる上手さではないが上手いとしか言いようのない」ところをなんとか言葉にできないか。それがこの項の目的である。

 アステアが当時にあってそれぞれのダンスの分野でナンバーワンであったかというと必ずしもそうではない。たとえば、ヴォードヴィルの百科事典”Vaudeville, Old and New: An Encyclopedia of Variety Performers in America ” で著者は、タップやボールルームダンスにおいて当時のダンサーたちが彼を最高の踊り手とは考えていなかったと書いている。

 では何に優れていたのか。

 アステアは男女二人の踊りがたんなる身体運動ではないことに気づき、二人の性格や様々な感情が観客や批評家に理解し納得できるようなダンスをした。他のダンサーはどうか。たとえばタップダンスなら、鋭いリズム感や歯切れの良さ、速さ、エレガントな姿、さらにはステップの組み合わせの斬新さなどに気を配り、プロ同士の評価を優先させていたという。

 また具体的なテクニックとしてアステアは、タップやボールルームダンス、アクロバット、プロップ等の様々な要素を取り入れ、混ぜ合わせるとともに、一つのダンスの中でスタイルやテンポを何度か変え、観る者を退屈させないようにした。

 これがアステアをして他の追随を許さない評価を得さしめた理由だという。

 「観客や批評家に理解できるダンス」には「なるほど」と納得しながらも、これは「上手さ」を同じ平面で少しずらしただけのことを語っているように思える。つまり踊り方の戦術や戦略みたいなものであって、私が冒頭で掲げた疑問にたいする答えとして期待するものとは少し違う----そう思えるのである。