2010年12月1日水曜日

ディアナ・ダービン その26 「おまけ」


 124日はディアナ・ダービンさん89歳のお誕生日です。



この項終わり



 <追記>
2013月に91歳で亡くなられたそうです。
ご冥福をお祈りいたします。


ディアナ・ダービン その25 「エピローグ」

 (MGMの)オーディションを受けた私と母を迎えに、父がスタジオまで来た時のことは良く憶えています。父は顔色が悪く、具合が悪そうでした。それまでに二回倒れたことがあって、医者から当分の間仕事をしない方が良いと言われていたのです。先の見えない状態だったのです。 「パパ、週に100ドルずつ私がもらってくれば、お家は助かるの? 明日またパパに来てもらって私と契約したいってスタジオで言われたの」  そう話した時の父の顔を決して忘れません。うれし涙があふれていました。

 ディアナ・ダービンはけなげな少女です。それは役の上だけのことではありません。病弱な父を抱え、家族の生活が彼女の肩にかかっていたのです。ディアナかジュディかを選ぶ時、メイヤーが「太ったほうを落とせ」と指示したという逸話の真偽は定かではありません。しかしMGMから契約解除を伝えられた彼女のつらさは、われわれの想像を絶するものがあったのです。

 私にとってこの出来事はまさに”終わり”だったのです。犬のティピィとしばらく散歩をしながら思いきり泣いて、死のうとさえ考えました。負け犬のまま学校には戻れません。それから数ヶ月もしないうちに、『天使の花園』の宣伝旅行を終えてニューヨークから戻ると、私の顔が描かれた大きなポスターがハリウッド中に貼られていたのです。疲れていたけれど、幸せで心も浮き立ちました。

 ユニヴァーサルと契約し瞬く間にスターとなったディアナは、仕事にも前向きに取り組みます。

 ショウビジネスは嫌いじゃありません。歌うことも好きでした。撮影現場は楽しかったし、一緒に仕事をしてる人たちも好きだった。最初の日は緊張したけれど、その後はカメラの前でもとてもリラックスできました。共演した皆さんとも楽しく仕事ができたのです。ハーバート・マーシャル、メルヴィン・ダグラス、フランチョット・トーン、ヴィンセント・プライス、ウォルター・ピジョン、ジョセフ・コットン、それにロバート・カミングス---相手役の男性はみんなずっと年上でしたけど。二つの作品で共演したチャールズ・ロートンとは特別なお友達になりました。こういった才能ある男性と共演したおかげで、とても勉強になったし、普通の十代よりは早熟だったと思います。難しかったのは、こうした大人びた様子は隠しておかなくてはいけなかったことです。映画や宣伝でのイメージどおり、子供らしくしていなくてはいけませんでした。

 成長はやがてスタジオへの不満へ、批判へと進んでいきます。その過程で明らかになるのは、彼女の誰にも頼らぬ決断力であり、それを貫き通す意志の強さでした。ヴォーン・ポールとの恋愛も親しい友人にさえ話さず、最後は自分で決めたと謂います。何事につけディアナは自分で判断し、自分で決める人だったのです。スクリーンに立ちのぼる彼女の爽やかさは、おそらくその「きっぱりとした決断力」に裏打ちされたものだったのです。

 映画会社とスターとの軋轢は枚挙にいとまがありません。与えられたイメージへの嫌悪、より多くの報酬、演じがいのある役---これらをめぐって多くのスターが戦い、傷ついて来ました。スターに勝ち目はありません。問題は時間だからです。時の前に容色は衰え、かつての魅力は消えうせていきます。年齢にあわせ適応していけた数少ないスターを除き、多くは戦う自身の足場を失っていきます。その過程で「やめる」ことの選択肢を自ら選び取れたのは、何より彼女に備わった偉大な健康さであり、確固とした決断力があったからです。

 ディアナ・ダービンは特異なスターです。観客はスクリーン上に放たれるその明るさと行動力に魅せられ、歌を愛し、仮想の彼女自身を追い求めていきます。"Little Miss Fix-It”のイメージは個々の映画を飛び越え、ディアナ・ダービンという一つの作品を作り上げます。「いつまでも突然歌い出す"Little Miss Fix-It”ではいられない」と彼女が語った時、まさに引退を決断するしか道は残っていなかったのです。

 彼女の偉大な健康さは、その力によって「ディアナ・ダービン」を作り上げ、そして最後はその力によって「ディアナ・ダービン」に終止符を打ったのです。


後年、ジュディ・ガーランドはパリでばったりディアナ・ダービンに出会います。ディアナはいかにも幸せそうだったといいます。ジュディはこの昔の同僚に自分の悩みを打ち明けます。すると、ディアナは笑いながら言ったそうです。

「そんな仕事、どうしてやめちゃわないの? お馬鹿さんねェ」


2010年11月28日日曜日

ディアナ・ダービン その24 「with Judy」2




















 さらに他の世代との交流にも違いがあります。

 すでに触れたことですが、ディアナの、特に少女時代の作品は、恋へのあこがれが遙かに年上の中年男性との恋や交流として表現されています。背伸びをして大人に見せようとしています。そこに認められるディアナの特徴は、個人としての明確な意志の存在と、単独行動です。

 他方、同時期のジュディはミッキーその他の同世代との交流が主です。同じ年頃の男女との付き合いを通して、悩み、恋をし、笑うのです。ティーンエイジャーのコミュニティが主な活動の領域となり、等身大の恋愛や、仲間意識が主に描かれる対象となっています。

 その相違はおそらく観客層の違いになって(あるいは初めから異なった観客層を狙って)現れたと思われます。ジュディの映画は同年代のファンを中心に人気を得たのに対し、ディアナの映画は大人から子供までを引きつける映画であったのではないかと想像されます。

 このような違いは単にシナリオの設定の違いであり、スタジオがどんな観客層を狙って企画したかによるだけのことかもしれません。しかし、そう見えることを裏から支え、役に説得力を持たせるには、スター自身のパーソナリティがどこかで関係している気がするのです。

 ディアナ・ダービンという人は、撮影の合間にも年上の男性との交流を嫌がらないどころか、むしろ積極的だったといいます。「アヴェ・マリア」撮影中には、同世代の女の子との友情を育む一方、休み時間にハーバート・マーシャルと芸術について語り合っていたそうです。かえって大人との間の方が、満足のいく会話ができていたのかもしれません。結婚相手も二度目、三度目の夫は彼女よりかなり年上です。

 ジュディ・ガーランドも当初はかなり年上の男性と結婚しています。しかし様々な状況から考えると、ディアナが自分と同じ土俵で話のできる成熟した人格を求めていたのに対し、ジュディは年上の男性に依存し、保護してもらいたいという欲求が強かったように感じられるのです。


  MGMとの契約に残ったのが仮にディアナであったなら、それぞれの人生はどうなっていたのでしょう。まったく異なっていたと思うときもあれば、紆余曲折はあっても結局同じような人生を歩んでいたような気がするときもあります。この半年しか生まれの違わない二人の少女は、共に歌と演技に際だった才を持つカリスマ性に富んだスターであったにもかかわらず、映画界を去ってからの人生は極端に対照的です。その人生の明と暗は、まるでスタジオの圧力という光を透過する二枚のガラスの色の違いのように思えてならないのです。


ディアナ・ダービン その23 「with Judy」
















1936


「ジュディには初めからとてつもない才能が備わっていました。彼女はプロで、二歳の頃からステージに立っていたのです。彼女の後半生は悲劇かもしれませんが、彼女は決してあきらめなかったと思います。彼女には呼吸をするのと同じように観客が必要だったのです。」

 ディアナ・ダービンとジュディ・ガーランド、ラナ・ターナーの人生と映画を、対比しながら書いたらおもしろそうだと考えたことがあります。実際には、三人並べて書くこと自体が難しそうなので、そんな考えはすぐに捨てましたが、この生年もあまり違わぬ---ディアナ1921年、ジュディ22年、ラナ21年(20年?)---三人を、当初抱いていたイメージから、それぞれ良い子、普通の子、悪い子に当てはめる事ができそうだと思ったからです。

 もっとも、彼女らのことを調べてみると、とてもその様な図式通りにはいかないことがすぐわかります。私生活を覗いてみると、ディアナは別として、ジュディとラナのどちらが「悪い」かは一概には言えませんし、役柄から考えても、蠱惑的なラナが「悪い」のは一目瞭然としても、ディアナが良い子で、ジュディが普通と言い切ることはとてもできません。初めに私がディアナから抱いた印象は、「オーケストラの少女」と「アメリカーナの少女」だけからのものでした。そこでは彼女が親のためにつくす優等生としてのイメージしか感じなかったのです。ところが、彼女のすべての主演作を見てみると、その印象を大きく修正せざるを得なくなります。しかも、フィルム上のこととは言え、ジュディとの性格や設定の違いがかなり対照的なのにも気づくことになります。

 映画の上でのジュディは、暮らし向きは基本的に中産階級かそのやや下くらい。まあ、平均的なアメリカ人のそれと思われます。そうでないのは、「踊る海賊」のお姫様と”Everybody Sings”くらいではないでしょうか(「アンディ・ハーディー」シリーズに出てくるベッツィー・ブースも? 「カップル・オブ・スウェルズ」はナシね)。

 対照的にディアナはお金持ちの娘という設定の割合が相当高く(21作中8作)、さらに、貧乏な娘が最終的にお金持ちと結婚する(らしい)という作品を加えれば、「金持ち化率」はもっと高くなります。そういう意味で、ディアナの映画は大衆の夢を叶えるおとぎ話的な要素が強く、ジュディの出演作は当時のティーンエイジャーの等身大の生活に近いと言うことが可能です。

 役柄も対照的です。何度も書いたようにディアナは"Little Miss Fix-It”として、困難な状況を解決するため自ら果敢に行動していく積極性があります。そのため、時にはその場を取り繕うための嘘をつくこともあります。そういう意味ではとても良い子とは言えません。ただ、観客に「それも仕方がない」、「当然だ」と思わせる説得力を持っているのです。

 一方、ジュディは自分から積極的に動くことはありません。その違いは、ディアナとくらべると本当にはっきりしています。周囲の状況や他者の行動にまきこまれ、その中での反応として行動したり悩んだりするのです。そのため、他者と対立したり、説得しようとしての激しいやりとりも少ない傾向にあります。その違いは、ディアナの映画を観た後でジュディのそれとくらべると、ジュディの映画が、演技も含めて「静か」だという印象を直感的に抱いてしまうほどなのです。

 以前も書いたことですが、ジュディには彼女のペルソナを裏から支える批評性が内在し、周囲の出来事をどこか醒めた目で見ています。周囲の状況と薄紙一枚隔てた距離があります。それに対してディアナは、すべての出来事を「現実」として受け取め、自らそれに関わろうとしていきます。その行動の純粋さ(単純さ?)と積極性が観客に爽快感を与え、「おとぎ話」に一層のめり込ませていくのです。

 この違いは、両者が生活する「映画内世界」に設定された環境とも分かちがたく結びついており、「受け身の批評性」と「行動力の現実性」が、それぞれの物語にそれぞれの「真実味」を加えることになっているのです。


2010年11月27日土曜日

ディアナ・ダービン その22 「引退」

 結婚の後、出産、育児と続いたためか、この時期のディアナの公開作は少なくなっています。1945年は”Lady on a Train”のみ。翌461月に、チャールズ・ロートンと二度目の共演となる”Because of Him”が封切られた後は、「私はあなたのもの」(”I'll Be Yours” 472月公開)まで一年以上の空白があります。

 以後この作品も含め47年と48年に二本ずつの作品が公開されます。内容は、”Up in Central Park”1880年代のニューヨークを舞台にしたミュージカルの映画化である以外は、いずれも以前と変わらぬコメディタッチの作品です。しかしディアナには、スターとしての生活を続ける意欲がすでに消え失せていました。19489公開の「恋ごころ」(”For the Love of Mary; 実際の撮影時期は”Up in Central Park”より前)を最後に、彼女の映画はもはや制作されることはありませんでした。49年末には、36年から続いたユニヴァーサルとの契約も終了。両者間に金銭や制作本数を巡る係争があったものの、最終的にスタジオ側が折れる形で決着することとなります。

 ジャクソンとの離婚が成立したディアナは、50年に娘を連れフランスに移り住みます。同年12月にチャールズ・デイヴィッドと結婚、翌516月に長男のピーターを出産。以来、パリ近郊の農村Neauphlé-le-Châteauに居を構え、マスコミとの接触を断ったまま、今日に至るのです。

 

 但し1983年に、彼女は一度だけインタヴューに応じています。その内容は英国の映画雑誌”Films and Filming”に掲載されましたが、記事の中で、映画界を去る頃の気持ちを次のように振り返っています。

どうして引退したかですって? たとえば、最後の四本を観てご覧なさい。そうすれば、私が演じなくちゃいけなかったお話は、”出来が良くなかった”なんてもんじゃなくて、”どうしようもない”方に近いのが良くわかるわよ。ストーリーや監督について不満や希望を伝えても、スタジオはいつも受け付けてくれないの。私は最高のギャラをもらいながら、最低の題材を割り当てられてたの。今になって考えると、私の給料は、どこにも良いところのないこういった作品と付き合わなくちゃならなかったつらさの代償みたいなものね。


 相変わらずの辛辣さです。

 しかし、そういった「最低の題材」を観たファンからの手紙は、ビデオやDVDの普及と共にますますその数を増し、返事を書ききれないほどの数が今も彼女に届いているのが現実なのです。










60~61歳頃のディアナさん



2010年11月24日水曜日

ディアナ・ダービン その21 「Lady on a Train」

 194412月の末に封切られた“Can't Help Singing”は、ディアナ初のカラー作品ということもあり大ヒットを記録します。
 翌456月、彼女はプロデューサーのフェリックス・ジャクソンと、ラスヴェガスの小さな教会でひっそりと結婚式を挙げます。ジャクソンは彼女より19歳年上で、すでに離婚歴が三度もある人物でした。案の定(?)一年ほどすると、ジャクソンの方から結婚生活に不満を漏らすようになります。二人の間には、'462月に初めての子供ジェシカが誕生したものの、'471月、ついに別居。最終的には、194910月に離婚することとなります。

 さて、” Can't Help Singing”の次の作品として'458月に封切られたのが、サスペンス・コメディーとして楽しめる、”Lady on a Train”
 監督は後にディアナの三番目にして最後の夫となるフランス人チャールズ・デイヴィッドです。
 サンフランシスコからニューヨークにやって来た大富豪の娘ディアナは、速度を落とした列車の窓から向かいのビルで行われた殺人事件を目撃してしまいます。到着するなり警察に駆け込みますが、事件の起こった証拠もないため取り合ってもらえません。ミステリー好きの彼女は愛読する本の作家の協力も得て、殺されたと思われる男の屋敷に忍び込みます。そこで男の愛人と間違われたことから、一族の争いに巻き込まれ・・・・・
というお話。
 サンフランシスコの父親にベッドの上から電話で「きよしこの夜」を聞かせる場面は、少女時代の同様な場面を彷彿とさせると共に、現在のグラマラスな彼女を見せることで、変わらないディアナを見たい観客と成熟した姿を見せたい彼女自身を同時に満足させる妥協の産物だと言われています。



 もちろんナイトクラブの場面での”Gimme a Little Kiss, Will Ya, Huh?”のセクシーな歌声も素敵です。
 結局われわれ観客には、この映画や”It Started with Eve”のようなコメディタッチの作品が、この時期のディアナ・ダービンの良さを最も引き出しているように思えるのですが、当人の不満はやはり続いていたようです。 





2010年11月23日火曜日

ディアナ・ダービン その20 「Can't Help Singing--歌わずにはいられない」
















旅の途中、風呂桶の中でタイトルソングを歌うディアナさん

そういうわけで、非常にふくよかである

体型に関する感覚が今日とは異なる当時においてすら、太りすぎではという声が多くなっていきます


 ディアナ・ダービンの出演作を通して観ていると、果たして彼女の映画はミュージカルなのかと疑問に思うことがあります。もちろん” Can't Help Singing”や”Up in Central Park”1948年)のような「本格的な」ミュージカルも存在します。こういった作品では、それまで普通にしゃべっていた登場人物が、会話の文脈と感情の流れに乗って「突然歌い出す」という、典型的なミュージカルの手法が使われています。ダンスの場面もあります。

 しかしほとんどの作品で彼女が歌うのは、演奏会やパーティー、ナイトクラブ、家族に歌を聞かせるなど、何らかの「歌う理由」をストーリーの流れの中に設定されてのことです。その意味では、それなりの必然性を備えています。けして彼女は「突然歌い出し」てはいません。ただ、歌う設定が少しばかり強引に作り上げられ、彼女の歌を「とにかく聴かせ」ようとする点をとらえれば、「突然に歌い出すと言えなくもない」だけです。


 私たちがミュージカルと「思っている」映画の中での歌の使われ方を考えてみると、おおよそ次の三つに分けられると思われます。一つは、ドラマの部分で、場面の緊張や登場人物の感情が何らかの意味で高まったときに、その状態が歌としてさらに展開されていく場合。二番目は、舞台や映画撮影、ナイトクラブなどのショーの場面として歌われる場合。三番目は、一番目、二番目の意味を多少は含みながらも、「とにかく歌う」場合---プレスリーの一連の作品などいわゆる「歌謡映画」が当てはまると思われます。

 彼女の歌はミュージカルに中核的な歌の使用法と思われる第一の場合---「場面の緊張や感情の高ぶりを有機的に歌に発展させる」---の要素が非常に希薄です。 そのほとんどは、第二の場合を含みながらも、どちらかというと第三の場合に近いものです。観客はとにかくディアナ・ダービンの歌を聴きたがっています。その観客の欲求に沿うかたちで、映画の中に歌う設定を少しばかり強引に作り上げ、「とにかく聴かせ」ていくのです。歌がストーリーを邪魔しているとまでは言わないが、本来別に無くてもかまわない。それでも観客は彼女の歌を聞き満足する---そういった点でディアナの映画は、ミュージカルの一種ではあっても、歌を聞きたい観客のために歌う機会を設定していった歌謡映画的な色彩が濃いと思われます。


 人気歌手が主演した映画ならいざ知らず、本来映画スターであるディアナの出演作が歌謡映画的になってしまうところに、この人の歌うスターとしての特異性があるのです。


2010年11月20日土曜日

ディアナ・ダービン その19 「そうは言っても・・・・・・」










次回作は西部を舞台にしたミュージカル、”Can't Help Singing”1944年)。

衣裳デザインを担当したウォルター・プランケットの思い出話です。

 「ユニヴァーサル・スタジオはディアナをまるで女王のように扱っていました。彼女が望むものは何でも与えられたのです。その頃彼女は23歳くらいだったと思います。ロケ現場(南ユタ)に備えられた彼女専用のドレッシング・ルームは素敵なバンガローで、家と言っても良いほどの大きさがありました。

 彼女自身のことについても、主演の映画についても、最終決定はすべて彼女がすると聞かされていました。彼女に初めて会ったのは、衣裳のスケッチを見せるためでした。バンガローには私たち二人の他に、プロダクション・マネージャー、カメラマン、監督、セット・デザイナーが同席していました。彼女はスケッチを見て言いました。

”素敵なドレスね、気に入ったわ”

するとプロダクション・マネージャーがスケッチを皆に見せ、こう言いました。

”ミス・ダービンはこのスケッチを気に入られたそうだ。誰か意見があれば、今のうちに言ってくれ”

もちろん反対意見もなく、素晴らしいデザインだと皆が言い、承認の署名をするのです。 その時点でカメラマンはライトの良い当て方を心得ており、セット・デザイナーは彼女のドレスに合わせてセットを作るのです。」

 「映画のほとんどは6月から7月にかけて撮影されました。とても暑い頃で、朝われわれが現場に着くと、いつも霧がかかっていました。霧が晴れるのをそのあたりで待っていると、ディアナはわれわれをドレッシング・ルームに招いてくれました。そこには数カートンのシャンパンとバスケットに入った食べ物が用意されていました。霧が晴れる頃には、シャンパンと食べ物のために彼女のドレスは着るのがきつくなっていました。すると彼女が言うのです。

”さあ、お家に戻って休みましょう。撮影は明日でもできるんだから” 

その結果、その日の撮影は中止され、後には燦々と日の光が降り注いでいました。そして翌日も同じことが起きたのです。到着すると、濃い霧が立ちこめ、彼女のドレッシング・ルームでシャンパンとごちそうを食べ、撮影可能なほど霧が晴れた頃には、ドレスはパンパンに膨れ上がり、われわれは宿舎へ帰って休みます。このような事態がしばらく続き、私にはどうやって撮影を終わらせたのかわかりません。でも確かに終わらせたのです。」

 「他のスター、たとえばフレッドとジンジャーは、むちゃくちゃに稽古をしていました。哀れなデビー・レイノルズは、一日の終わりには水たまりほどの汗をかきながらこう言ったものです。

”これから衣裳合わせに行かなくちゃいけないの?” 

でも彼女はやって来て、それからまたリハーサルに戻っていきました。ドナルド・オコナー、ジーン・ケリーにジュディ---彼らは皆何時間も働き続けました。ディアナはただそのかわいらしい口を開け、愛らしい声を出すだけでした。彼女は歌を習い、そしてただ歌っただけなのです!」

 「終盤にさしかかると、シーンをカットする必要がでてきました。彼女には二つの場面がまだ残っていたので、私はそれぞれのために丹精をこめて舞踏会用のドレスをデザインしました。スタッフにはどちらのシーンをカットして良いのか決められません。彼女の承諾が必要なのです。そこでスタッフはあるアイデアを思いつきました。どちらのドレスが気に入ったかを彼女に聞き、撮るべきシーンを決めるのです。でもディアナは決められませんでした。両方気に入っていたのです。コーラスを従え、豪華に飾り付けられたフィナーレで、彼女は両方の衣裳を着たのです。最初の衣裳、次の歌では二番目の衣裳を。誰も気にしないのです。とにかく、このようなことがミュージカルではOKだなんて思いもしませんでした。」


 これは別にディアナ・ダービンを批判する文脈の中で語られたわけではありません。ウォルター・プランケットは彼女に対し好意的な人なのだそうです。

 ディアナとユニヴァーサルのやりとりだけを辿っていくと、互いに緊迫した重苦しい関係をつい想像してしまいます。しかし実際のところ、第三者の目で見ればこういう事だったのだというのがよくわかります。

 '40年代に入り、スタジオの稼ぎ頭の座はアボット&コステロに譲ったにしろ、ディアナは出演作のヒットがほぼ約束されている大スターです。彼女のカラー作品がこれ一本しかないのも、彼女の高額な出演料のため、貧乏なユニヴァーサルにはカラーで撮るだけの余裕がなかったせいだと言われています。そのユニヴァーサルでさえ(ユニヴァーサルだからこそ?)これだけの待遇を彼女に与えていたのです。


 まさに「ユニヴァーサル城のお姫様」です


2010年11月17日水曜日

ディアナ・ダービン その18 「ノワール」



















 セクシーな大人の役を演じたいというディアナの要求はますます強まり、スタジオもこれを無視することができなくなります。ついに'43年末、ユニヴァーサルは声明を発表。「彼女の映画は方向を転換するので、今後はミュージカルコメディでなく、ドラマティックな役柄のディアナに期待してほしい」と宣言します。声明の責任者はフェリックス・ジャクソン。パステルナーク以降、彼女の多くの作品をプロデュースし、後に二番目の夫となった人物です。

 その結果制作されたのがフィルム・ノワール、「クリスマスの休暇」(”Christmas Holiday” 1944年)。監督ロバート・シオドマーク、相手役はジーン・ケリー。

 嵐のためニューオリンズに足止めを食った若い中尉が、ナイトクラブのホステス(ディアナ)から過去を聞かされるというオーソドックスなスタイル。 まだ純真だった彼女が出会うのが南部の旧家出身のケリー。結婚した彼女は、夫の激高しやすい性格や母親との強い結びつきを知ることとなります。夫の起こした殺人事件を母親と一緒に隠蔽しようとしますが、夫は逮捕され刑務所へ。母親から事件はディアナのせいとなじられ、自分を責めるかのようにナイトクラブの女に身を落とします。最後は脱獄したケリーが警官に撃たれ、駆け寄った彼女の悲しみの顔のクローズアップ。

 ディアナはこれまでのイメージを一新します。ナイトクラブといっても、場合によっては客と寝るような店の設定。濃い化粧に胸の大きく開いたドレス、暗く厭世的な表情や歌声。夫の行動に猜疑心を抱き、泣き、母親には頬を叩かれるといった激しい演技。後に彼女は、全出演作の中でこの映画を一番気に入っていると語っています。

 たしかに彼女の立場に立てば、この役は演じ甲斐があったのかもしれません。しかしはっきり言って、ディアナにこういう役は似合いません。フィルム・ノワールのヒロインに必要な「鋭い美貌」がないからです。肉付きの良い彼女の顔は、濃い化粧でかえって奇妙になってしまいます。男を深みに引きずり込む危うさもありません。俳優の顔にわれわれが抱くイメージは複合的ですが、彼女の顔からまず浮かび上がるのは、誠実さや地に足のついた確かさです。彼女自身の思惑とは違い、ディアナ・ダービンのセクシーさは、この種の映画に必要なそれとはレベルを異にしています。彼女のセクシーさは日常的な設定の中で意味を持つセクシーさなのです
















 加えて残念なのは、他社に一度も貸し出されることの無かった彼女にとって、これがジーン・ケリーとの一度だけの共演であったことです。作品の良し悪しは別にして、何もケリーとの唯一の共演がフィルム・ノワールでなくても良かったのではないか。変なたとえで申し訳ないが、互いに自分の宏壮な邸宅を持つもの同士が、門番の小屋で逢い引きをしているようなものです。たまには変わった所で会うのも良いのかもしれないが、もっと適当な場所がいくらでもあったはずです。二人が本来持っていたスタイルを上手く融合したミュージカルが作れていれば、また違った彼女の未来が開けていたかもしれません。惜しいことですが、出会った時期も悪かったし、ユニバーサルにもそれだけの力がなかったと言うことでしょう。

 当時の観客も同様だったようです。

 いくらスタジオからの声明があったとはいえ、ディアナ主演で相手は「カバー・ガール」が封切られたばかりのジーン・ケリー、題名が ”Christmas Holiday” とくれば、つい楽しいミュージカルを期待してしまいます。映画を観て、驚き反感を持ったファンの抗議がスタジオに殺到。映画の不評は再び針をミュージカルコメディに振り戻していきます。

2010年11月12日金曜日

ディアナ・ダービン その17 「 歌 」2

 娯楽映画の観客がスターのどんな「階層」を観ているかは複雑な問題ですが、ごく大まかに言うと、観客は「ストーリーの展開の中でスターを観る」レベルと同時に、「ストーリーを離れ、スター自身を直接観る」レベルで映画を観ていると思われます。とくにディアナ・ダービンの場合、後者のレベルが非常に強く、あえて言うと、観客は彼女と歌だけを観ていたいということになります。あとは「どうでも良い」のです。

 彼女を評して揶揄的に「突然歌い出す”Little Miss Fix-It”」という表現が使われます。「突然歌い出す」かどうかはまた後で考えたいと思いますが、仮に「突然歌い出す」としても観客は一向に気にしていない---大衆はディアナが歌う理由などにまったく無頓着である---ことに、制作を重ねていく過程で撮影所は気づいたのです。彼女の歌う場面の多くはバックの踊りも、歌うための劇的な設定もありません。必要ないと言うより邪魔なのです。観客の望むのは、たわいのない物語の中で、何の夾雑物もなしにクローズアップで歌う彼女の姿だけです。そこで味わった至福感がこの上ないものであったため、成長してからの彼女にも大衆はそれを求め続けることになります。

 しかし、たとえディアナと観客が直接結びついているように見えても、その間には必ず「撮影所が作る映画」という媒体が存在し、「利潤の追求」を伴っています。彼女が成長したシリアスな役柄をどれほど望んだとしても、大衆がそのことを望まなければ撮影所は動きません。かくして、ディアナ・ダービン自身の天賦の才が生み出した大衆との強い絆は、逆に彼女の変化の軛となっていきます。彼女の変化への志向は、撮影所や観客と三つ巴となって、右往左往を繰り返すことになるのです。



美しいという意味ではこれが一番。「ホノルル航路」より「アヴェ・マリア」


この人なりの色気がある、”Something in the Wind”より”The Turntable Song”



ディアナ・ダービン その16 「 歌 」1

 これまで私はディアナ・ダービンの看板とも言うべき歌について、あえて触れることを避けてきました。その理由は、「厄介なもの」だからです。彼女の歌には単に「スターが上手い歌を唱っている」ということだけでは括れない複雑な事柄が関わっています。それを一つ一つ探って行くには、扱う順序と予備知識が重要になると思ったのです。しかし話を進めるためには、このへんで彼女の歌について考えてみないといけないようです。

 まず最初に、ディアナの歌唱力を考えてみます。

 映画の中で歌われる彼女のレパートリーは声楽曲から民謡、古謡、ポピュラー、ジャズまで幅広いのですが、基本はクラシックの発声と言うことになります。そこで、「彼女の歌はうまいのか」という話になれば、「うまいにはうまいが、一流のオペラ歌手に較べれば、声量、音域、声の響きなど、やはり見劣りする」と言う結論になります。しかし、「じゃあ、二流の声楽家レベルか」と問われると、必ずしもそうとは言えません。それは「歌の勘所においてうまい」からです。

 彼女の主声域は胸の下部から腹にかけ、横隔膜を中心に存在し、比較的大きな球状で偏りがなくしっかりした構造をしています。その結果彼女の歌は、そのパーソナリティに似て、深みがあり、力強く、まっすぐで、しかもしっかりした、非常にオーソドックスなものなのです。声量や音域といった技術的な問題で多少劣っていても、観客の心に響くうまさを十分に持っています。このあたりは、パステルナークがMGMで育て上げたディアナのエピゴーネン---キャスリン・グレイスンやジェーン・パウエル---と較べると良く分かります。

 彼女の歌というと歌曲や古謡がまず頭に浮かびがちですが、殊に成長してからはジャスやポピュラーも歌っており、かえってこういった分野の中に捨てがたいものがあります。”Lady on a Train”1945年)で歌われる”Gimme a Little Kiss, Will Ya, Huh?”や”Something in the Wind”1947年)での”The Turntable Song”は声や歌の深みと色気の混淆が何とも言えず魅力的で、こういった歌の方に「うまい」と言う印象を抱かされます。


 しかしより根本的な問題は、彼女の歌が上手いとか下手だというところにはありません。彼女の歌はスクリーン上のディアナのパーソナリティと分かちがたく結びつき、互いが互いを補完、補強する関係が成り立っています。その結果、クローズアップで映し出された彼女の顔と歌は融合した一つの「装置」として観るものに働きかけてきます。映画という枠を離れ、銀幕上から観客に直接訴えかけ魅了する強い力を持っているのです。しかも「装置」の力はそれだけにとどまりません。ディアナの歌は一種の神々しさでプロットの綻びや無理を覆い隠し、場面を鎮めていきます。観客は映画の楽しさも欠点も矛盾もすべてを許容したうえで彼女の歌に包み込まれ、至福の時を味わうのです。

 歌えるスターには多少なりともこのような力が備わっているものですが、ディアナ・ダービンの場合、とりわけ強いのです。

その結果がどうなったか。


2010年11月10日水曜日

ディアナ・ダービン その15 「反抗 」

 ”It Started with Eve” が封切られた'41年10月以降、ディアナは家に閉じこもり、ユニヴァーサルの要請に一切応じなくなります。突然の結婚に続く第二の反抗です。

 反抗の理由は、以前からくすぶっていた不満にありました。”Little Miss Fix-It”と呼ばれた役柄に飽きたらず、シリアスな題材で年齢相応の人物を演じたいと希望したにもかかわらず、撮影所から作品の企画や役柄について何の相談もなかったことです。加えて、年二本の撮影ペースでは子供を作る余裕もないとの心配もあったようです。

 ディアナの態度は予想以上に強硬で、彼女の主演作は'42年には一本も封切られないことになります。稼ぎ頭のストライキが長引くにつれ、当初は高をくくっていた撮影所も、本腰を入れて交渉に当たらざるを得なくなります。その結果、企画や役柄には彼女の了承を得ることで両者は妥協。ようやく新たな作品の撮影に入ります。 当時ハリウッドにいたジャン・ルノワールを監督に迎えた「海を渡る唄」(”The Amazing Mrs.Holliday” 1943年)です。

 ところが、大監督の起用と新たな役柄に期待が集まったものの、脚本の不備などからルノワールは途中で降板。ブルース・マニングが代役を務めて映画を完成させます。できあがった作品は、ファンの間では「”大ダービン日照り” は終わった!!」と歓迎されたものの、批評家の評価も低く、内容も役柄も前作より後退した印象は否めません。結局次の二作は、元の路線に戻ったかのような「天使の花園」シリーズの最終作”Hers to Hold”、そして明るい彼女の歌が楽しめるコメディ、「春の序曲」(”His Butler's sister” 1943年)となります。観客は歓び、ヒットにスタジオも満足しますが、彼女の不満は再び高まっていきます。

 追い打ちをかけるように、夫との行き違いも大きくなり、1943年12月、ついに二人は離婚に至るのです。

















離婚法廷でのディアナ

2010年11月7日日曜日

ディアナ・ダービン その14 「It Started with Eve 2 」



















 二つ目はディアナと年上の男性との関係です。

 これまでの彼女の映画には、中年の男性に憧れ、恋心を抱く設定が多いことに気がつきます。「年ごろ」、「ホノルル航路」、「Nice Girl?」 、恋人ではありませんが、中年男性との交流が大きな役割を果たす「アヴェ・マリア」。

 中年男性との恋愛は様々な意味で利点があります。まず、この時代の制約の中では、中年男性は知的で分別がある存在と描かれているため、彼女の思いをうまく「いなし」、恋愛にまつわる性的な生々しさを避けることができます。次に、少女でありながら存在として大人びているディアナと対等に渡り合える対象であること。さらに、時代の枠組みや倫理規定、物語の構造などがブレーキ役となり、「この恋愛は成就しない」と観客が直感的に予想するため、映画を安心して観ることができることです。

 加えて、若者だけが活躍する「青春映画」とくらべ、中年男性がストーリーに絡むことで様々な年代の人々が興味を持ち楽しめる要素が増える利点も挙げられます。

 一方、 ”It Started with Eve”での相手は中年どころか死期の近づいた老年、ロートンです。しかも思いは彼からディアナに強く向いています。その結果この映画の主題は、ロートン、ディアナ、カミングスの(一辺を隠した)三角関係になっています。表面上はディアナとカミングスを結びつけようと画策するロートンですが、その過程で浮かび上がってくるのは、ロートンからディアナへの強い思いと、それを包容力で受け止めていくディアナとのセクシャルな情感の交流です。地下の水脈のように鈍い光を放つ性的な情感が、この軽妙なコメディに豊かな陰翳を加えているのです。

 少女ではない彼女にとって、もはや年の離れた男性にあこがれる必要はありません。ロートンを介しカミングスと結ばれることによって、作品の中でのディアナは自らの少女の役割を無事、終焉に導くことができたのかもしれません。


 しかし、この作品を最後にパステルナークもコスターも相次いでMGMに去って行きます。

「成長する少女」のテーマを失った彼女の迷走が始まります。


2010年11月6日土曜日

ディアナ・ダービン その13 「It Started with Eve 1」

















 ”It Started with Eve”はロートン、ロバート・カミングスと共演のスクリューボール・コメディ。決して傑作、名作と言うわけではありませんが、配役の妙、ストーリーの巧みさから、とても楽しめる映画になっています。

 死の床に就いた大富豪(ロートン)は、駆けつけた一人息子(カミングス)に彼の婚約者の顔を一目見ておきたいと言い出します。お抱え医師から今晩持つかどうかと聞かされた息子は、婚約者を迎えに雨の夜、ホテルへ向かいます。ところが婚約者は母親と出かけたまま。どこへ行ったのか、いつ帰ってくるのかもわかりません。困った息子は、仕事を終えホテルを出てきたクローク係の女性(ディアナ)に事情を話し、婚約者のふりをしてくれないかと頼みます。翌日郷里へ帰る予定のディアナは一旦断りますが、お礼の50ドルに心を動かされ、引き受けることになります。ロートンは彼女をいたく気に入り、安心したように眠りに就きます。お礼をもらいアパートへ帰るディアナ。

 すべて上手くいったかに思われましたが--- 翌朝、なんとロートンがすっかり元気になってしまい、婚約者と一緒に朝食をとりたいと言い出したから、さあ大変・・・・・・・。

 


 40ポンド(18Kg) 減量の上、わざと大きめの服を着て病後のやつれた姿を演じるロートンは相変わらずの上手さですが、ディアナもスターとしての存在感でロートンに一歩も引けを取りません。グランドピアノを階段の下に引っ張り出し、二階のロートンに弾き語りで歌を聴かせる場面の「腰の据わった力強さ」には、一種の爽快感さえあります。

 さらにまわりを囲む役者が適材適所です。二人の間で翻弄されるカミングスの軽み。ロートンやディアナの言動に右往左往する執事、お抱え医師や看護婦のおかしみ。婚約者を演じる女優さえ、「美人で品もあるが、痩せぎすでちょっと影が薄く、ロートンがディアナの方を気に入ってしまうのも無理はない」と思わせる、「ほどの良い美しさ」です。

 しかし表面的な映画の楽しさとは別に、この物語にはこれまでの彼女に区切りをつけるいくつかの大切な要素が隠れています。

 一つは、この作品で彼女が初めて、少女ではなく年齢相応で、とりわけ金持ちでも貧乏でもないごく普通の働く女性を演じていることです。自ら状況を変えていく”Little Miss Fix-It” でもありません。かえって周囲の状況に「巻き込まれていった」役柄です。これこそ「けなげな少女」の役に不満を抱いていた彼女にとって、(コメディという枠組みを除けば)この時点での理想とも言える等身大の設定だったと思われます。



2010年11月3日水曜日

ディアナ・ダービン その12 「突然 」



















「ハリウッドのピンナップガールが欲求不満な人たちのためにセクシーな役を演じているのと同じように、私は多くの父親、母親たちが期待する理想の娘を演じているの」


 スターの気持ちとはどんなものだろうと考えることがあります。といっても、大人になって自らその地位を勝ち取った人々のことではありません。年端もいかぬ子供のうちに、周りからお膳立てされた道を歩かされ、気づいたらそこがスターの居る場所だった---そういう子供や思春期のスターたちのことです。

 初めは目の前に与えられたことをただ一生懸命にやっている。そのうち、周囲が変わってくる。ちやほやされるが、勝手に一人で行動もできない。言動を縛られ、毎日忙しいだけの生活。その中で自分のやっていることの意味を考え、社会との距離を知り、さらにありうるなら、周囲との関係を批判的に捉えることが、いったいいつ頃起こるのか。そう云うことについて考えることがあります。

 しかし多くの場合、彼ら彼女らは成長と共にその魅力を失い、批判力や疑問が育つ頃にはすでに周囲からうち捨てられています。批判や疑問は過去を振り返る形でしか存在しません。それに引き替えディアナ・ダービンは、捨てられるどころか成長と共にその価値を増していった数少ない例です。批判や疑問は不満と形を変え、現在形で進行していきます。

 そして、いつかそれが表に現れる時が来るのです。


 1940124日、”Nice Girl ? “1941年) 撮影中のサウンドステージを会場に、ディアナにとって十九回目となる誕生パーティが盛大に行われます。多くの取材陣が待ちかまえる中、「突然の出来事」にディアナが「驚き」、新曲を贈られ、次回作の企画が発表されるなど、お約束の進行の内にパーティは終了します。

 ところがその翌日に突然、彼女の両親からディアナの婚約が発表されるのです。挙式は翌年4月、お相手は「天使の花園」の頃から助監督を務めていた5歳年上のヴォーン・ポール。ユニヴァーサルへの相談もなく、まったく唐突だったと言われるこの発表に対し、撮影所側の反応は伝わっていません。しかし両者の力関係からか、ユニヴァーサルもこれを認めざるを得ず、逆に宣伝の材料として使っていくことになります。

 1941418日の挙式は、ジュディ・ガーランド夫妻やミッキー・ルーニー等も含め招待客の総計900人余り。会場の外に詰めかけた数千人のファンと警備の警察官も見守る中、式は無事終了します。


  一カ月間の新婚旅行から帰ったディアナは、さっそく次回作 ”It Started with Eve”1941)の撮影に入ります。チャールズ・ロートンと共演したこの映画は、世上、彼女の最高作との呼び声も高いばかりか、パステルナークやコスターとの最後の仕事であるなど、様々な面で「少女期の終わり」を象徴する作品となっていきます。


2010年10月28日木曜日

ディアナ・ダービン その11 「 許容」

 子役がスターとして大衆に受け入れられた時、'30年代の映画界でスタジオがとるべき態度は決まっていました。受け入れられたときのイメージを壊さぬこと。そして、成長を観客にできるだけ気づかせないことです。そのため、子役スターの年齢は、「可能な限り低いままで、可能な限り長い期間」押し通すのが通例だったのです。

 しかしディアナ・ダービンの場合は状況が異なります。彼女が映画界にはいったのは14歳。決して子役とは言えません。その成長は速く、子役のように時間を稼ぐ暇もありません。苦肉の策としてユニヴァーサルとパステルナークの採ったのは、「成長を売り物にする」方法でした。大衆から強く支持されたディアナの歌やパーソナリティはそのままに、映画ごとに状況設定を変え、ストーリーの中で彼女の成長を小出しに見せ、時には観客がどこまで彼女の成熟を許容するかを調べるための冒険もさせたのです。

 たとえば、「年ごろ」(”That Certain Age” 1938年)


















 ディアナの父は新聞社の社長。自分の屋敷に特派員(メルヴィン・ダグラス)を泊めたところ、ディアナが彼に恋心を抱いてしまうと云うお話。お屋敷で開かれたパーティに白くてフリルの付いた少女向けのドレスをあてがわれ、「こんなのは赤ん坊の服」と怒ります。母親の衣装庫から勝手に借りて着たのがこのドレス。肩まで出した黒いドレスに髪もアップの色っぽさで、階段を下りていきます。成長をストーリーの工夫で垣間見せながら、観客の反応を探ったのです。

 映画では母親に見つかり、すぐに元の服に着替えさせられますが、実際にファンからの反対意見も殺到し、成長した姿はまだ早いという判断になったようです。

 しかし映画の設定を別にしても、ディアナは前作「アヴェ・マリア」よりずっと大人びて見え、観客もそれを受け入れざるをえなくなるのです。


















 「銀の靴」(”First Love” 1939年)

 ディアナの初キスと大宣伝され、もちろん大ヒット。観客が固唾をのむ中、キスの時間は2秒くらい。 お相手はロバート・スタック、映画初出演。

 テレビのアンタッチャブルしか知らないので、20歳の頃はこんなにいい男だったのかと驚きました。 当初シンデレラをそのまま映画化する企画もあったようですが、最終的に当時のアメリカに設定を移し、内容は文字通りの「シンデレラストーリー」。

 両親のいないディアナが寄宿学校を卒業し、ニューヨークに住むお金持ちの伯父の家に身を寄せますが、伯父以外の家族から冷たい仕打ちを受けます。スタックの家の舞踏会に召使いたちの協力で出かけることのできた彼女が、バルコニーで彼と初キス。上の写真はその直後の、照れて気まずい二人。

 結局伯父の家を去らねばならなくなったディアナが学校に戻り、音楽教師になるための奨学金を申請します。教師のはからいで審査会が開かれ、プッチーニの「ある晴れた日に」を歌っていると扉を開けて入って来たのがスタック。舞台から駆け寄ったディアナが彼と抱き合い、二人でそのまま会場を去って行くエンディングは、ある種彼女の映画を象徴するような作り方です。


 このようにディアナの成長を少しずつ織り込みながら話題作りを行い、大衆を納得させ、しかもヒットを重ねたことはパステルナークのプロデューサーとしての大きな功績であると考えられます。そしてそれに応えるかのように、かつ幸運にも、ディアナ・ダービンは少女の頃の魅力を少しも失うことなく、美しく成長したのです。

 すべては順調に進んでいるかのように思われました。


2010年10月24日日曜日

ディアナ・ダービン その10 「Little Miss Fix-It 」

 彼女のふるまいを具体的に映画のシーンから見てみましょう。









 「天使の花園」

 これだけでは何だかわからないでしょうが、父親のトレーニングルームに入ったディアナが吊り輪にぶら下がり、正面のカメラに近寄ったり遠ざかったりするところです。アップになったディアナの顔が本当に楽しそうで、演技なのか地なのかさえわかりません。彼女の無邪気さや、動作の自然さが良くわかる場面です。

 監督もこれは使えると思ったのか、他の人々が話をしている場面の背景で、彼女をまだブラブラ揺らしています。
















 第三作「アヴェ・マリア」(”Mad About Music” 1938年)から

  スイスの寄宿学校に入れられたハリウッドの大女優の隠し子がディアナ。父親は有名なハンターだと嘘をついたことがきっかけで、いないはずの父を迎えに駅へ行かされるはめになります。馬車の上で腹をくくった時の様子が上の写真。動いていないとわかりにくいでしょうが、居直ったときの彼女の強さが感じられます。

 この後、駅で出会ったイギリス人の作曲家を強引に父に仕立て上げたのが縁で、母との再会を果たし、母も作曲家と結婚するというハッピーエンドになります。

 歌はもちろん、状況を強引に動かしていくディアナの行動力が楽しめる作品で、これも大ヒット。”Little Miss Fix-It” と呼ばれた彼女のキャラクターが完全に確立されています。


 ちなみに”Miss Fix-It”というのは「困難な状況や問題を巧く解決していく女性」という意味だそうです。 あえて意訳すると ”Little Miss Fix-It”は 「おせっかいお嬢さん」とか「世話焼きお姉ちゃん」といった感じになるのでしょうか。










 「青きダニューヴの夢」(”Spring Parade” 1940年)

 アルプスの村から山羊を売りに市場にやって来た少女が、男と値段の交渉をします。そのやりとりが本当にしたたかで、本物の彼女もこうなのかとつい考えてしまうほどです。どんな役にもリアリティをもたせる複合的な身体の裏付けがあればこそです。

 欧州出身のスタッフのせいか、この時期の彼女の出演作にはヨーロッパに関連した設定が多いようです。


 このように'30年代後半から'40年にかけてのディアナの映画は、いずれもコメディタッチの肩のこらないストーリーに5曲ほどの歌をちりばめた構成で大ヒットを連発。ユニヴァーサルはもちろん、社会的にも大きな影響力を持つ少女スターとしての地位を築きます。

 作品一本あたりの出演料も、「天使の花園」当時の2万ドルから、1940年には30万ドルにまで跳ね上がっています。

 しかし思春期のスターには、必ず乗り越えねばならない宿命と課題があります。


 「成長」です。


2010年10月20日水曜日

ディアナ・ダービン その9 「一筋縄ではいかない」

 ガルボやディートリッヒの写真を見た後で出演映画を見ても、写真のイメージがそのまま動いているという印象を受けるだけで、格別の違和感はありません。

 しかしディアナ・ダービンの場合はそうではありません。彼女の写真の後で映画を見ると、「想像していたものとはかなり違う」と感じられます。妙に歯切れの良いセリフ、腰の据わった落ち着き、ごく自然な動作---これらはディアナの写真から受ける明るく無邪気な印象だけからは予測しにくい事柄です。ディアナの写真から想像するものと実際の映画で動く姿との間には、「乖離」と言うには大げさだが、「写真だけでは分からないものだ」と思わせる多くの要素が横たわっているのです。












 ディアナ・ダービンの顔の仕組みはディートリッヒやガルボとはかなり異なっています。彼女らのように周囲を圧倒し、対する者をひれ伏させるような目の重みは存在しません。その代わり、上の写真、緑色の部分の奥に非常に強い何かが存在し、そこから溢れたものがまっすぐ前方に放射されています(下の写真)。











 この「まっすぐ」であることは単に方向がまっすぐ前を向いていることだけを意味しているわけではありません。「まっすぐ」であることは、大衆に広く受け入れられるディアナの人気の強い浸透力の源泉です。さらに、どんな役を演じても純粋で、天真爛漫で、正直で嘘のないと感じられる彼女のイメージの質をも説明しているのです。

 彼女の顔は一見単純です。多少肉厚の顔に輝く笑顔と、上記の放射が重なるとすべてが説明できそうに思われます。

 しかし実際はそう一筋縄ではいきません。

 彼女の顔を正面から見ると、表情に隠れて非常にわかりにくいのですが、鼻の奥からのどや食道に向かって何かを飲み込んで行くような力の流れが存在しています。この流れは彼女の腹に達し、かなりの重みを作っています。しかしこの腹の重みは、ガルボやディートリッヒのように「相手を引き込み捕獲してしまう装置」として働くのではなく、より実際的な「行動する人間としての重み」を形成しているのです。


 次の映像を見て下さい。

 注釈がないので、いつ頃の映像か明らかではありませんが、話の内容や登場人物から推定すると、「天使の花園」の続編として撮影された、「庭の千草」(”Three Smart Girls Grow Up” 1939)封切り前後のインタヴューではないかと思われます。

 注目していただきたいのはディアナの「物腰」です。いやに落ち着いて物怖じしない態度、挨拶の歯切れの良さ、話した後に周囲に目を配り、ファン?と握手するときの自然さ---自由に振る舞っていながら嫌みが無く、他の人の邪魔をしている印象もない、その物腰です。

 「庭の千草」公開時(19393月)とすればまだ17歳のはずですが、これは到底17歳の少女の振る舞いではありません。かなり世慣れた中年女性のとる行動です。それでは彼女が大人びて生意気だとか若さに欠けるのかというと、そんなこともありません。映画のディアナはあくまで純真で天真爛漫にも見えます。

 普通人間の雰囲気や性質を表現する個々の要素はいくつかが「セット」となって存在します。たとえば、腹が据わって落ち着いた人は喜怒哀楽の表現に乏しいとか、表情が豊かで感情表現に富んでいるが、人間としての重みにかけ、頼りないとか。個々の要素は本来別々で、相互に独立して存在しても良いはずですが、特定の要素同士がグループ化されているのが普通です。それが人間のタイプとして類型化されていくわけです。

 しかしディアナ・ダービンは違います。彼女には普通の大人以上に腹が据わり、落ち着いている面があるにもかかわらず、幼い子供のような周囲を和ませる朗らかさや明るさ、天真爛漫さが同居しています。本来別のものだが、一般には相互にワンセットになっている個々の要素の癒着を引き剥がし、普通にはあり得ない組み合わせで成り立った身体---それがディアナ・ダービンという希有な存在の本質です。

 より有り体に言えば、この人は「少女のふりをしたおばさん」なのです。


2010年10月17日日曜日

ディアナ・ダービン その8 「顔」

 このあたりでディアナ・ダービンの魅力について触れたいと思いますが、その前に、これまでも何度か書いてきた「顔」について、もう一度考えてみましょう。

 演劇とは異なる映画に特徴的な機能の一つに、登場人物のクローズアップがあります。このクローズアップによって、芸や技術ではない俳優の生(なま)の魅力---とりわけ「顔の魅力」---が、観客に強く意識されるようになります。この「生の魅力」にひときわ優れた者が、大衆に受け入れられ、スターとしての地位を得ていくのですが、では個々のスターをスターとして特徴づける魅力とはいったい何なのでしょう。

 そこで、この問題を考えるに当たり、際だった特徴を持つスターらしいスターを例にとりながら、その魅力の一端と、さらに顔の魅力の因って来るところを探ってみたいと思います。

 もっとも、説明の根拠は相も変わらぬ私の独断的な直感によってではありますが・・・・・・・・・・。


















まずはマレーネ・ディートリッヒ

上の写真を予断を捨てて見ながら、どんな印象を受けるか考えていただきたい。


 この人の顔を見ていると、まず、全体的にひどく静謐で、落ち着いた、かつ神秘的な雰囲気が醸し出されているのがわかりますが、それだけではありません。見る者に訴えかける「何か」がこの人の目の周囲から強く放射されています。さらにこれと相矛盾するように、見る者を吸引し引き込んでいく力もまた同時に存在しています。

 これがディートリッヒの表情であり、彼女のスターとしての魅力です。

では、この人の顔が持つ構造とはどんなものか。



















 ただのいたずら書きのようですが、これは眼です。ディートリッヒの眼球の意識は実際の眼球の二回りから三回りくらい大きく、それも非常に重い質感をもっています。そのような重量感のある巨大な眼球が頭蓋骨の中に収まっている(様に感じている)のです。その眼球全体を使い、あまり焦点を絞らず見る。それがこの人の世界を見る「見方」です。

 これだけ巨大な重量感のある眼球が、瞳孔に力を集中させることなく存在してると、その重みが横隔膜から腹に流れ落ちていきます。その結果、物事に動じない、非常に深みのある(ように見える)身体ができあがるのです。


 人と人の間には、相互に影響し合う「意識の空間」のようなものが存在します(それが気とかオーラと呼ばれるものかはわかりませんが・・・・)。ディートリッヒの身体は、腹にかかった重みのため、相対する人間にとって、「意識の空間」上では、一種の窪地や穴のような存在になっています。そのため、この人の前に立った(あるいは写真や映画を見た)人は、空間の勾配に沿って、あたかも目の前の穴に転がり落ちるように、引き込まれてしまうのです。

 巨大な眼球(意識)の質量感によって前方に放射される力と、「窪地」である身体によって引き込んで行く力。この相反する二方向の力が同時に存在する「矛盾」が、動的な神秘性として常にこの人を覆っています。

 これがマレーネ・ディートリッヒのごく大まかな顔と身体の(意識上の)構造です。


次はグレタ・ガルボ












 この人にもディートリッヒと同様に体の下方に重みが落ち、その結果相手を引き込んでいく構造が認められます。しかしガルボにはディートリッヒの様な巨大な眼球は存在しません。それとはまったく別な、彼女に特徴的な顔の仕組みがあるのです。



















 ガルボの眼球の下縁あたりには、かなりの重量感が感じられます。この重みは外にあふれ出し、水平方向より下方45度くらいの角度に向けられた「何か」となって、見る者に常に放射されます。視線がどちらに向いているとか、どちらに向けられたかとは関係のない、この人の持って生まれた顔の構造です。この放射によって、ガルボに相対すると、互いの物理的な位置関係がどうあれ、常に斜め上から見降ろされている---相対する者からすれば常にガルボを見上げている---関係ができあがります。

 これこそが誰もが抱く彼女の「神聖」さの源です。


2010年10月14日木曜日

ディアナ・ダービン その7 「大当たり」







「天使の花園」、チャールズ・ウィニンガーと。

MGMではうらぶれた役の多いウィニンガーもユニヴァーサルでは大金持ち





 物語は・・・・・・・

 十年前に両親が離婚し、母親とスイスで暮らす三姉妹。父(チャールズ・ウィニンガー)と財産目当ての女との結婚話を悲しむ母を見かねてアメリカに渡った三人が、結婚の邪魔をし、最後は両親を元の鞘に収めるというコメディー。ディアナは末娘のペニー。


 撮影が進むにつれ、ディアナの自然な演技や輝くような笑顔、年齢に似合わぬ深みのある歌声の魅力が明らかになります。そのため、当初、次女中心だったストーリーが末娘中心に変更され、映画の初めと終わりはディアナのクローズアップで締めています。 変更のせいか、途中で次女のエピソードが続くなどやや不自然な構成ですが、それでもテンポの良い楽しい作品に仕上がっています。

 最終的な制作費319千ドルに対し、公開後は誰もの予想を覆す大ヒット(興行収入160万ドル)。財政難のユニヴァーサルにとって、ディアナ・ダービンという少女が貴重な財産であることが明らかになります。


 ユニヴァーサルはさっそく彼女を主演に、同じ陣容で第二作「オーケストラの少女」(”One Hundred Men and a Girl” 1937年)の制作にとりかかります。観客が求める「明るく素直な少女が、困難な状況を解決しようと走り回り、失敗もするが、それを乗り越えハッピーエンドに終わる」というプロットはそのままに---題名にも前作から引き続き”Girl”を入れている---マンネリを避けるため設定に工夫をこらします。

 大金持ちの一家から貧乏な音楽家の娘に変え、当時有名な指揮者のレオポルド・ストコフスキーを本人役で引っ張り出し、きちんと演技までさせているのです。  撮影所の彼女に掛ける期待と自信は、タイトルクレジットからも明らかです。第二作目にして早くも、ディアナの名前がタイトルの上に置かれています---”Deanna Durbin in One Hundred Men and a Girl”

 結果は、制作費76万ドルに対しアメリカ国内の興行収入だけで227万ドル。世界中で大ヒットしたこの映画でディアナは、単なる少女俳優から本物のスターになったのです。


 スタジオは以後もパステルナークに彼女の作品をプロデュースさせ、年間2本のペースで封切っていきます。映画はいずれもヒットし、ユニヴァーサルの屋台骨を支えます。 フィルム賃貸時の撮影所の取り分が通常25%のところ、彼女の作品に関しては35%1939年、雑誌「フォーチュン」に載った記事によると、1938年にユニヴァーサルから公開された映画全体の収益の17%は、ディアナのたった2本の主演作でまかなわれ、

「この業績の悪い撮影所をダービン一人で破産から救ったとハリウッドでは考えられている」

のでした。

2010年10月11日月曜日

ディアナ・ダービン その6 「パステルナーク」










ヘンリー・コスター(左)、ディアナ、パステルナーク
  1939年



 ディアナ・ダービンがユニヴァーサルと契約した1936年、かつてカール・レムリが断行したベルリン支社での映画制作中止の影響で、契約していた多くのスタッフが、ユニヴァーサル・シティにやって来ます。

  その中の一人が35歳のプロデューサー、ジョー・パステルナークでした。

 ハンガリー出身の彼は少年時代にアメリカに渡り、20年代初頭、パラマウントの社員食堂の皿洗いになったのを手始めに、助監督にまで出世します。トーキーに移り変わる直前にユニヴァーサルへ入社。欧州向けの映画制作のためベルリンに派遣され、プロデューサーとして働くことになります。

 そこで彼が出会ったのがジャーナリスト兼漫画家の若きヘンリー・コスターでした。コスターはまもなくベルリンスタジオで最も多作な脚本家となり、さらに1930年代初めには監督として働くようになります。ドイツでの制作中止に伴い、英語の出来ないコスターもハリウッドにやって来たのです。


 パステルナークはドイツ時代、すでに数本のミュージカルをヒットさせた実績がありました。そこで、チャールズ・ロジャースは彼に同様の企画をコスターと作るよう勧めます。パステルナークはこの機を逃さず、ユニヴァーサルと契約したばかりのディアナを使い、後に「ダービン組」とも「パステルナーク・スペシャルズ」とも呼ばれる制作陣(コスター、脚本のブルース・マニング、カメラのジョー・ヴァレンタイン、音楽監督のチャールズ・プレヴィン)らと撮影を始めます。

 予算は約26万ドル。制作担当重役をはじめ誰もが、ごく一般的な低予算映画と見なしていた作品、「天使の花園」(Three Smart Girls; 1936)です。


2010年10月9日土曜日

ディアナ・ダービン その5 「MGM」















「頑固なんじゃないの。意志が強いだけ」



 ディアナ・ダービン(本名Edna Mae Durbin エドナ・メエ・ダービン)は1921124日、カナダ、マニトバ州ウィニペグで、イギリスから移民した両親と姉一人の家庭に生まれます。彼女が一歳の頃、一家はロサンゼルスに移り住みますが、その理由は「父親の健康問題」から「娘をハリウッドで一旗揚げさせる」まで諸説あるようです。

 子供の頃から音楽の才能を認められたディアナは、1932年、ラルフ・トーマス・アカデミーで歌のレッスンを受けるようになります。アカデミーでは生徒の勧誘と発表会を兼ねたコンサートをしばしば開いていたため、優等生のディアナは様々なクラブや教会で歌を披露していました。

 その頃MGMでは、ドイツ出身の声楽家エルネスティーネ・シューマン=ハインクの半生を描く映画 ”Gram” が企画されていました。主人公の子供時代を演じる「歌える少女」を捜していたキャスティング担当のルーファス・ルメールはディアナのことを聞きつけ、L.B.メイヤーも出席の上オーディションを行います。その結果、彼女の採用が決定。1935年、MGMと半年間の契約を交わすことになるのです。

 ディアナ・ダービンとMGMとの契約はあくまで ”Gram” 撮影のためだけのものでしたが、MGMは彼女の芸名を本名から「ディアナ」に変えるとともに、ラジオに出演させることで大衆への浸透を図っていきます。ところが映画のアドヴァイザーも兼ねていたシューマン=ハインク自身が病気になり撮影は延期。使い道のなくなった彼女に対しスタジオは、同じように仕事のないジュディ・ガーランドと共演させた短編「アメリカーナの少女」を1936年の夏に撮影します。

 その頃のことをジュディ・ガーランドは次のように語っています。

「会社が本当にほしいのは5歳か18歳。その中間はいらないの。そう、私はその中間組だったの。ディアナ・ダービンも同じよ。私たちをどう使うか、会社もわかってなかったの。だから、私たちは毎日ただ学校に行って、あとは撮影所をブラブラしてたのよ」

 「アメリカーナの少女」を撮り終えたものの、結局 ”Gram” の企画が流れたディアナは、MGMとの契約期間も終了します。その頃ユニヴァーサルに移っていたルーファス・ルメールは、すぐさま彼女と週給300ドルで契約。

  ここにユニヴァーサルのディアナ・ダービンが誕生することとなるのです。


2010年10月3日日曜日

ディアナ・ダービン その4 「人気」













グロウマンズ・チャイニーズ・シアターで



  • 19382月、16歳の時、グロウマンズ・チャイニーズ・シアターで手形・足形が採られた

  • 同じ年、全米各地にファンクラブ「ディアナ・ダービン信者の会」が多数生まれていた

  • 1939年、オスカーの少年少女特別賞をミッキー・ルーニーと共に受賞した

  • 1939年から1942年まで、イギリスの興行人気ランキング、女優No1であった

  • 1940年(18歳)にはユニヴァーサルで最も観客動員力のあるスターだった

  • 21歳の時には米国で最も高給取りの女性であり、世界の女優中、最高額の給与をもらっていた(作品一本あたり、40万ドル; 現在の貨幣価値では1200万ドル位?)

  • 彼女にちなんだ数多くの商品---人形、紙人形、塗り絵、おもちゃ、文房具、レコード、衣料品---が生み出された

  • 女性として世界で唯一人、ボーイスカウトの名誉会員に選ばれた

  • 当時のニューヨーク市長から市の鍵を授与された

  • アメリカ陸軍航空部隊より名誉大佐に叙せられた

  • チャーチルもアンネ・フランクも彼女の大ファンで、ムッソリーニは政党機関紙で彼女にルーズベルトとの仲介役を希望した


 ディアナ・ダービンについて語るにあたり、「当時、彼女がどんな存在であったか」を挙げてみました。

 説明が必要な理由は二つあります。一つは、その活躍期の人気と社会に対する影響力が並外れたものであったこと。そしてもう一つ、突然の引退以降六十年以上にわたりマスコミに登場することがないため、活躍した頃のことを知る人が年齢的にも限られていることです。

 さらに残念なのは、彼女の主演した二十一本の長編作品のうちのほとんどが型にはまった古風なミュージカルコメディであるため、後世にまで傑作や問題作として喧伝されることがほとんどないことです。現在日本でDVDとして発売されている彼女の作品は「オーケストラの少女」(1937年)と「春の序曲」(1943年)しかありません。


 しかし彼女の作品を観ていくと、今でもディアナ・ダービンというスターの魅力にどうしようもなく引き込まれて行きます。彼女の魅力は表面的には、天真爛漫で快活なその明るさと言うことになるのでしょうが、それだけではありません。「引退の決断」や「マスコミとの接触を断ち続ける持続力」に象徴される強さが、表面的な純真さや天真爛漫さを裏から支え、単なる少女スターに終わらぬディアナ・ダービンの魅力を形作っています。 

 もちろん、ディアナ・ダービンというスターを産んだ、「ユニヴァーサルという環境」の力も見逃すわけにはいきません。


 彼女が日本を含め世界中で人気を集めた理由や、スターとしての人生に区切りをつけた決断の鮮やかさの訳を考えながら---できればジュディ・ガーランドとの対比も含めて----彼女の魅力と身体を明らかに出来ればと思っています。




2010年9月29日水曜日

ディアナ・ダービン その3 「ユニヴァーサル3」

 1928年、レムリは息子のカール・レムリ・ジュニアを映画制作のトップに据え、自分は裏から息子を支えます。ジュニアはユニヴァーサルとしては画期的な150万ドルもの予算を注ぎ込み、「西部戦線異状なし」(1930年)を完成させます。この映画は大変な評判を呼び、アカデミー作品賞も受賞しますが、恐慌の影響もあり、ユニヴァーサルの年間赤字は200万ドルにまで達してしまうのです。

 以後彼は大作重視の方針を転換し、ドラキュラ、フランケンシュタイン、ミイラ男、透明人間といった恐怖映画路線に舵を切ります。しかし、給与の削減と人員整理にもかかわらず、毎年100万ドル以上の赤字が続くことになるのです。1936年春、ついにレムリは資金の提供を受けていた投資家のチーヴァー・カウディンにユニヴァーサルを譲渡。400万ドルの現金を手に、親子共々映画の表舞台から姿を消すこととなります。

 投資家であるカウディンの目的は、ユニヴァーサルの経営を立て直し、価値を高めて転売することにありました。そのため、RKOの重役だったチャールズ・ロジャースを映画制作の責任者として雇い入れます。ロジャースは恐怖映画路線の中止など経営改革に努めますが、結局赤字は解消しません。そのため1937年に解任され、ネイサン・ブルンバーグを社長、クリフ・ワークを制作担当副社長とする新たな体制がスタートするのです。

 しかし、ロジャースの行ったことすべてが無駄だったわけではありません。彼の仕事の中にはその後のユニヴァーサルにとってかけがえのない財産が残されていたのです。


 プロデューサーのジョー・パステルナークをベルリンから呼び戻したこと、そして14歳のディアナ・ダービンとの契約です。

ディアナ・ダービン その2 「ユニヴァーサル2」















1915
年、ユニヴァーサル・シティ完成記念式典のレムリ(左から二人目)


 レムリは1915年、当時ロサンゼルス最大と言われた撮影所「ユニヴァーサル・シティ」(広さ約100万平方メートル)を作り上げます。しかし、隆盛を誇った彼の経営にはいくつか欠点がありました。

  • 13巻物のプログラムピクチャーを優先し、長編作品を嫌ったこと

  • ヴァレンチノやロン・チェイニー、ジョン・フォード、そしてプロデューサーのアーヴィン・サルバーグなど優秀な人材を抱えていながら、長く配下にとどめておかなかったこと

  • 設立したニュース映画会社を活用しなかったこと

  • ドイツの親類縁者や知人を多く雇い入れ、重用したこと

などが挙げられます。

 さらに1920年代後半には自前の映画館チェーンの形成に失敗し、制作・配給・興行のうち、制作・配給部門からしか利益を上げられない構造を抱えることになります。

 その結果ユニヴァーサルは、ハリウッドのメジャー8社に名を連ねながらも、MGM、ワーナー、パラマウント、二十世紀フォックス、RKOの「ビッグ・ファイブ」に対し、コロンビア、ユナイテッド・アーチストと共に「リトル・スリー」と呼ばれる地位に甘んじるのです。

 大恐慌期、MGMA級映画に平均50万ドルの制作費を掛けたのに対し、ユニヴァーサルはその半分の予算しか組めませんでした。