2009年11月23日月曜日

ちあきなおみ その12 「 おまけ 」

 21日にNHKで放送されたBSまるごと大全集  ちあきなおみ 」を見て、いくつか感想を持ったので補足として書いておきたい。

 基本的にはこれまで書いてきたことを変えるつもりはないが、同じ「前期」と言っても昭和52年の「ビッグショー」の映像を見るとかなり身体的には深まっている。
 画像の状態が悪いため顔も鮮明ではないが、かえってソフトフォーカスが掛かっているようで、妙に美しい。「劇場」などは異様な気迫に満ちていて、「美貌の白石加代子」といった風情さえある。
 ただ、胸や腹に落ちた声とクライマックスの歌い上げる部分が同居するなど、この頃は彼女の模索期だったのがわかる。

 一つのコンサートで演歌からシャンソンまで、それぞれにあった衣裳や扮装で、それぞれを高水準に唱う姿を見せられると、「多彩」という言葉では言い尽くせないこの人の歌の世界を印象づけられる。
ただ単に名曲をカヴァーしたというのとは意味が違う。「歌の世界」という海を漕ぎ出すちあきなおみにとって、ジャンルはたまたまその時点で乗り合わせた船でしかないことがよくわかる。

 「ラ・ボエーム」はまさに端座して聞くべきである。

2009年11月17日火曜日

ちあきなおみ その11 「 終わりに 」


あきなおみについてこれまで考えてきたことのおおよそは書けたと思うので、この辺でそろそろ終わりとさせていただきたい。彼女の多彩な能力の一部でもご理解いただけたら幸いである。

この人は、自分の歌い方をリジッドに守り、その中で巧さを追求していくタイプの人ではない。曲ごとにさまざまな装置と意匠をめぐらし、演じ分ける人である。ジャンルを飛び越え、位相をスライドし、歌との距離を変えていく。 「喝采」の経年の変化にその一端が見える。

その多彩さを後ろから支えるのは勿論彼女の身体の「深化」である。

当初は他の歌手との比較も考えたが、書き出すときりがないのでやめておく。ただ歌謡曲を語れば美空ひばりに触れないわけにもいかないので、簡単に書いておく。


美空ひばりの特徴は、二つある。

その類い稀な体内筋群の強さに裏打ちされた高度な歌唱能力と、歌手と観客が共有する「場」の時空間を一瞬で支配してしまうその圧倒的な「制圧力」である。どんな曲でも余裕をもって歌ってしまう身体能力とこの「制圧力」は、他の誰をも寄せ付けない美空ひばりのみが持つ才能である。
ただ、余裕があまって歌と精神に反映されるその過剰さを、私は好きになれない。

ちあきなおみと美空ひばりの比較を考えていると、ボクシングが頭に浮かんで来た。

美空ひばりはヘビー級の、ちあきなおみはミドル級のチャンピオンである。
リング上で一対一で戦わせればヘビー級のボクサーが勝つだろう。
でも
「ボクシングの面白さを味わえるのはミドル級の試合の方かもしれない」

2009年11月16日月曜日

ちあきなおみ その10 「 演じる 」

 ちあきなおみの歌唱の素晴らしさの理由の一つに、「演技」の上手さがあるとはよく言われる。他の歌手が歌詞に感情的な肉付けをする段階にとどまっているのに対し、彼女は広がりを持ったドラマ空間を作り上げる。


 空間を作り上げる手法はさまざまである。


 視線や目配りを駆使し、想像上の対象をあたかもそこにいるかのように現出させる。相手との物理的距離が明らかになり、心理的距離さえ感じられる。

 舞台に現れたその身体を見るだけで、世界に対するその人の立ち位置---人生に疲れ冷め切ったような虚無感や、目の前の現実に誠実に関与しようとするけなげさ---がわかる。ドラマ空間の奥行きが生み出される。


 作り上げられた空間が眼前に現れると、あたかもスクリーンに映し出された映画を観るように、観客は引き込まれていく。「夜へ急ぐ人」で「おいでおいで」と演者から観客に切り込んでいくのとは反対方向に、「演者-観客」関係の意識の流れが生まれるのである。


 しかもその途中に様々な「ちあきなおみ」の位相が現れる。ある時は「歌詞に没入する歌手ちあきなおみ」であり、見得を切るように客席やカメラを向く時は「歌詞から少し離れた歌手ちあきなおみ」が前面に現れる。もちろんそこには、素の彼女自身や「素の歌手ちあきなおみ」も透けて見える。

 

 変幻自在である。


 次の映像を観てほしい。





 演じる歌の代表、「ねえあんた」


 映像として見ることができる別ヴァージョンに、NHK版(平成4年収録)があるが、比べてみると女性の表現方法がかなり違う。

 上の「誰でもピカソ」版の女性が、けなげな中にもどこか人生をあきらめた冷ややかさを湛えているのに対し、NHK版ではあくまで純真で悲しい。それぞれに良さがある。


 「誰でもピカソ」版の収録時期は不明である(番組を観た人はわかっているのかもしれないが)。NHK版は彼女の活動休止と同年なので、「誰でもピカソ」版がNHK版より収録が後という可能性は低いだろうが、仮にそうだとしても、片方からもう片方に表現を変えていったのか、あるいは状況に合わせ異なった表現法を取ったのかはわからない。

 どちらにしろ、同じ曲にほぼ同レベルの違った表現法をとれるという彼女の多彩な演技力には舌を巻かざるを得ない。


 ここで使われているテクニックは、頭の中の想像上の意識のポイントと目との距離をどう取るかという方法である。詳述は避けるが、目とポイントの距離が近ければ純真さが、遠ければ冷めた印象が強まる。


 仮に舞台とスタジオ(?)の広さの違いを理由に演じ分けたのだとしたら、それはそれでまた空恐ろしいことである。



2009年11月15日日曜日

ちあきなおみ その9 「 Tokyo挽歌 」




こんな曲があると最近になって初めて知った。


 珍しくちあきなおみが踊っている。


 この程度の動きから彼女の身体についてどうこう言いたくはないが、多分この人はこうやって体幹部を動かすのが好きなのではないかと思う。二十代でやった美空ひばりの物まねの映像を見ても思うのだが、この人には元来胸や腹を上手く使う素質が備わっている。それが歌に年期を重ねるほどに---もちろん本人の意図的な努力もあっただろうが---ますます開発されて来たのではないか。


 他の歌手に目を向けると、腹の力でポンプのように空気を押し出し、声を口から出せば良いと思っている人もいれば、長年のうちに体のどこかが妙に力んで、若い頃よりかえって下手になる人もいる。

 長く歌っていても解らない人には解らないのである。


 歌の最後に「叫ぶ」場面があるが、「夜へ急ぐ人」と比べればその深化が解る。叫びの方向が逆転し、腹の底に「叫び込む」歌い方になっている。情念の凝縮が見て取れる。


 もう一つ気づくのは、この人は体と表情で感情を先に表現し、歌詞がその後から付いてくることである。

 前回述べた「悲しみやつらさのポイント」と同様、人間の体幹部にはさまざまな感情や情感を表現する装置がある。そこをまず上手く使い、結果としてある表情が生まれる。観客はその時点ですでに十分にその表現を感受し、その上で歌詞の言葉を待つ。その待つ間が何とも言えない。彼女の歌が、声だけ聞くより実際に見た方がよりすばらしく感じるのは、こういった理由による。


 ちあきなおみの「演技」については、次回、更に考えていきたい。


ちあきなおみ その8 「深化」



「冬隣」


 淡々と歌っているため、かえって彼女の歌唱の秘密がよくわかる。

 それまでと何が違ったのか。


 まず気づくのは、前期と比べ心と体が完全に体幹部優位に落ち着いたことである。この映像の場合なら、首の上下で意識の濃淡が1:9位の割合になっている。当然歌の重心も下がり、声域は横隔膜を超え腹にまで及ぶ。時折顎から腰までをククッと揺らすのは、腹を効かせるときの仕草である。

 こういった変化に伴い、歌は安定を伴いながら「深化」し、その深みのレベルは他を寄せつけない。


 左右の胸部を中心に幅広く分布する副声域は、磨りガラス状の柔らかさで、安定した主声域や重心とともに、彼女の声の豊かさを形作る。


 さらに特筆すべきは歌の重心の位置である。


 人にはつらい思いや悲しいできごとを思い浮かべたときに「グッとくる」体幹部のポイントがある。丁度、みぞおちから4-5cm上方の胸骨上(胸骨の下端付近)である。実はちあきなおみの歌の重心はここに重なっている。そのため、彼女が歌うたびにこのポイントが揺り動かされ、悲しみやつらさが体現される。聴衆は、共鳴により同じ現象を自分の身体に再現し、悲しみやつらさを感じ取る。結果として、彼女の歌には常に悲しみやつらさが影のように寄り添う。


 誰にも真似できない、ちあきなおみならではの特性である。




2009年11月14日土曜日

ちあきなおみ その7 「怪演」

まずはこの映像を観ていただきたい。




ご存じ、昭和52(1977)の紅白歌合戦から、「夜へ急ぐ人」


 この年で昭和45年から続いた紅白出場も一旦途切れ、様々な事情から雌伏の時期を迎える。その直前の、ある意味、彼女なりのマニフェスト(この言葉、選挙で使われるようになってから別の意味がついて使いづらくなったが、要は「宣言」)だったと言えるパフォーマンス。


 幾層にも重なったその意味は深いが、そのなかで気づいたことを一つずつ辿ってみたい。


 「ちあきなおみはは巧い」という後年の評価をもとに考えれば、これは「名演」ということになるのかもしれない。しかし、素直に同時代の目で眺めれば、「驚き、そして笑ってしまう」というのが普通の感覚ではないか。

  理由は「、ジャンルの落差」。いわば歌謡曲と謂うジャンルの総本山、当時の紅白歌合戦で、全く異質な形態のパフォーマンスを行なった---「空気をまったく読んでいない」---ということである。


 日常生活に歌舞伎風の演技をするおじさんが現れるドリフターズのコントがあったが、それと一緒。観客はまずジャンルの落差に驚愕し、ついで笑ってしまう。のめり込むことで笑いや奇怪さを誘ってしまうちあきなおみ「前期」の特徴がここに顕著である。クルッとまわすマイクに彼女の入れ込みようが見て取れる


  しかし、ひとたび歌舞伎というジャンルの枠内に飛び込めば、その演技のすばらしさが認識できるのと同じように、彼女のパフォーマンスもその懐の中に入れば違った局面が見えてくる。観客は「変なものを見た」という否定的な思いと裏腹に、その後も得体の知れない心のざわめきが残滓のように居座り続ける。良いも悪いも判断は紙一重。その差を決めるのは個人の感性でもあれば、時代の圧力でもある。


 とはいえ、こと歌唱の技術ということになると、まだ未熟さが目立っている。腹の底から衝動が噴出するような叫びは、聴衆の原初的な情動を揺り動かすものの、いかにも表現として「なますぎる」。さらに、顔に集中する演技は、意識の重心を体幹から奪い、いたずらに笑いを誘う。


「後期」に向けて課題は残る。


 そもそも、この曲の歌詞は意味がよくわからない。CDで聞く録音も妙に淡々としておもしろくない。しかし一旦ちあきなおみの身体を通して歌われた舞台を見ると、言葉一つ一つのイメージから新たな意味が紡ぎ出され、肉体性を帯びた世界にまで広がっていく。

 そこに見えるのは、彼女の現状に満足しない向上心であり、より良い歌を希求する気持ちである。


やがて数年の時を経て、新たな高みが我々の前に現れることになる。



2009年11月12日木曜日

ちあきなおみ その6 「顔」

 長々と面倒な話が続いたが、このあたりでちあきなおみ自身に話を戻し、彼女の歌と身体について考えていきたい。

 最初は「前期」の彼女、とりわけその「顔」である。

 人間の体にはその人特有の意識の分布があって、その人なりの特徴を形作っている。「気持ちが腹に落ちて重厚な印象がある」とか、「浮き足立っているようで信頼性に乏しい」などといったように。なかでも思春期以降の若い女性一般について言える特徴は、意識の分布が顔に強く偏っていることである。このため体全体の意識の重心が上方に偏り、「重み」や「深み」に乏しくなる。

 若い頃のちあきなおみもその例に漏れないが、とりわけこの人の顔は、観る者の視線を集める「能力」に優れている。







 





 当時のちあきなおみの顔を見てみよう。

 一見して目に付くのは、ふっくらとして柔らかい輪郭、大きくてくっきりした目、肉厚でぽってりした鼻や唇。これらが彼女特有の色気を醸し出すのだが、それだけではない。もっと深いところでこの人にはユーモアの気配がある。それがいつも色気をオブラートのように包む。そのため色気の切っ先が丸くなり、どこか安心感さえあたえてしまう。この色気とユーモアの混淆が当時の彼女の魅力の一つとなる。

 加えて感じられるのは、彼女の顔面にりきみがないことである。顔のどこにも緊張したり凝り固まった部分が認められない。そのことが彼女の印象を一種茫洋としたものにするとともに、親しみやすさを増す効果がある。

 顔の緊張は身体の緊張をも意味するので、顔のりきみのなさは反対に体や歌にもりきみがないことを示している。このりきみのなさは歌の深みに通じていく大切な特徴であるが、当時の彼女はまだそれを十分には生かしていない。りきみがなく体幹部を深みに向かおうとする要素と、顔を中心に上方に浮き上がろうとする要素がぶつかり合い、中途半端な結果に終わっている。

 これが、この時期の彼女の基本的な身体の様態なのである。

 このことが彼女の歌にどう反映されているのか。

 「後期」との対比になるので、また後で詳しく述べることになると思うが、歌の「重心」が「後期」より高い。野球のボールで一、二個分である。体幹部を「後期」ほど活用できず、使用域が全体的に上方に偏っている。このことで歌の深みにどうしても乏しくなる。

 歌の実力に関して言えば、まあ上手いには上手いが、たとえば同時期の八代亜紀と比べて格段にうまかったかと言えば、そうとも言えない。実力はあるが飛び抜けた巧さとは言い難いというのが、私の「前期」のちあきなおみに対する評価である。

 もちろん、ところどころに、「後期」で発揮されるうまさの片鱗が認められるにしてもである。


2009年11月11日水曜日

ちあきなおみ その5 「歌 3」


 まあ、文章ばかりで説明しようとするとわかり難くなるので、図にしてみた。
 下手な絵で申し訳ない。

図1 一般に考えられている歌のイメージ















図2 私の考える歌のイメージ

















図3 声域と重心


 

楕円; 主要声域
赤点; 重心
点; 副声域

このような感じである



2009年11月8日日曜日

ちあきなおみ その4 「歌 2」

 さて、クラシックにしろ歌謡曲やポップスにしろ、一般的な西洋音楽の発声法は根本のところでは共通している。
すなわち歌手は腹筋や横隔膜その他の呼吸筋を使い、肺にたまった空気を声門に通し、声帯を震わせ、発生した声を咽頭や口腔内に響かせる。聴衆は空気を伝わってきたその音声を聞き取り、それが上手いとか下手だとか感じ取る-----そう考えられている。


 しかしわれわれが歌を聴き、感じ取るのは「それだけではなかろう」というのが私の考えである。


 確かに物理的に耳に聞こえる声は上記の通りかもしれない。だが歌を聴いた時、歌手についてわれわれが感じ取る感覚の多くの部分は、歌手の体幹部から生じる「響き」に因っている。
 声帯から発せられた声は二つの方向に分かれる。上方に向かい歌手の口から外へ出て行く成分と、反対に下方を向いて体幹部を進行し、あたかもスピーカーボックスのように胸や腹に響く成分である(もしかしたら、体幹部の筋肉の動きが直接声にならない声を発生させているのかもしれないが・・・・)。
 このとき聴衆は、この体幹部の使われ方とそこで響く音色を直感的に感じ取り、歌手の力量や特徴を判断する。歌に深みがあるとか、温かいとか、声は良いが浅薄だとか----そういった感覚の根拠は、聞く者が直感する歌手の体幹部の様態なのである。


 ここに関係してくる要素をまとめてみる


1. 歌手が体幹部(胸や腹など)のどの範囲をどう使っているか
  • 一般に、使われる範囲が広いほど音は豊かとなり、落ち着きや信頼感が醸し出される
  • 胸から腹に向かい深く降りていくほど、歌に深みが感じられる
2. 声が一番強く感じられるポイントが体幹部の中心線上に存在し、それを歌の「重心」と呼ぶ
  • 重心は人により位置が違う
  • 重心が深いほど、歌にも深みが出る
  • 重心の位置が常に安定している人の歌は心に響きやすく、歌自体も安定していると感じられる
3. どのような色合いの音がどう組み合わされて使われているか
  • 体幹部の中心線上に、ある幅を持って主要な声の領域(「主要声域」)が存在するとともに、他の部分に様々な音色の成分(「副声域」)が混じり合って存在する
  • 副声域の種類や分布は人によりさまざまであるが、一般に複雑で広いほど声は豊かになる
4. 誰にも、歌手の身体を自分に写し取り、直感的に理解する能力が備わっており、これを「共鳴」という
  • 共鳴は歌ばかりでなく、演技など人間の対人的身体活動全般に起こりうる


「 」内の言葉は私が勝手に名付けた用語である。
 

2009年11月7日土曜日

ちあきなおみ その3 「歌」


 これから彼女の「歌」について具体的に検証していきたいが、その前に私が「歌」というものをどう考えているかについて説明しておく必要がある。いささか面倒だが、しばらく我慢して読んでいただきたい。但し、ここで問題とする「歌」とは、歌詞とメロディーからなる歌曲そのもののことではない。歌曲を歌手が歌った時、声が歌手の身体で奏でられ、観客に伝わり、受けとめられるプロセス全体に関することである。そしてその主体はやはり「身体」である。


 もう一つ、ついでにお断りしておきたいことがある。


 この項を書くに当り、私は発声法やボイストレーニングについて、入門書やネット上の記事を二、三拾い読みしてみた。しかしこれから述べるような事柄に関する記述を見つけることはできなかった。踊りと同じように私は歌うことについて全くの素人なので、専門的なことについては何も知らない。そのため、これから書くことが歌唱法の世界では昔から言われているごく当たり前のことなのか、それともそうでないのか、皆目わからない。「何を今さら言ってるんだ」と馬鹿にされかねないことなのかもしれないし-----それならそれで、間違ったことを言っているわけではないので良いのだが-----反対に、まったくでたらめで、そんなことはありえないと言下に否定されてしまうことなのかもしれない。


 困ったことに、これから述べることを客観的に証明するのは踊りの場合以上に困難で、「私にはそう聞こえる」としか言いようがない。仕方がないが、あとは読んでいただいた方の判断に任せるしかないのである。もし、さも大発見をしたように言っていることが昔から言われているごく当たり前のことだとしたら、私の無知のせいとご容赦を願いたい。



2009年11月6日金曜日

ちあきなおみ その2 「経歴」

  ちあきなおみは昭和22(1947)、東京の生まれ。 4歳でタップを習い始め、5歳から歌や踊りで米軍キャンプを廻るようになる。13歳から前座歌手としての地方巡業や、キャバレー廻りを続けた後、 昭和44年(1969)、「雨に濡れた慕情」でメジャーデビュー。「四つのお願い」や「X+Y=LOVE」などが立て続けにヒットし、人気歌手の仲間入りを果たす。

 昭和47年(1972)、「喝采」でレコード大賞を受賞。人気を決定づけるとともに、歌手としての実力も評価されるようになる。しかし、昭和53(1978)の結婚やレコード会社との契約問題を契機に、一時、表舞台から遠ざかる。


 まずここまでが、メジャーデビュー以降、彼女の歌手活動の「前期」と考えられる。


 この後、昭和55(1980)からテレビや映画で女優として活動を再開するとともに、昭和56年(1981より、アルバムを次々と発表。そのジャンルは歌謡曲からシャンソン、ファドと幅が広い。昭和63年(1988年)、歌手として本格復帰を果たすばかりか、翌年には一人芝居「LADY DAY」でビリー・ホリデイを演じ高い評価を得る。しかし平成4年(1992)、夫の死を契機に芸能活動を一切中断。以後長い「休養」期間が続いている。


 歌手活動の「後期」である。


 ここでわざわざ彼女の活躍期間を前期と後期に分けた理由は、単に休養期間が間にあるための便宜的なものではない。前期と後期において、彼女の歌唱力のレベルが決定的に異なっているからである。



2009年11月4日水曜日

ちあきなおみ その1 「言い訳」

 ちあきなおみ はハリウッドと関係がない。勿論、踊りもしない。なのにどうして ちあきなおみ なのかと不審に思われるかもしれないが、まあ・・・・・他意はない。
 ただ、彼女について書いておきたかったのと、歌について一度考えてみたかっただけである。


 ちあきなおみについて本当に興味をもったのは、四年前にNHKの衛星放送で放映された「歌伝説  ちあきなおみの世界」がきっかけである。この番組は大変な反響があったらしく、以後再放送を五回も重ねている。この番組によって、それまで静かに続いていた彼女のブームが表に出て、「ちあきなおみは上手い」という評価を完全に世間に定着させた。再放送の要望と回数が、彼女の歌のうまさを再認識した人の多さを物語っている。こう書いている私ももちろんその一人にすぎない。
 しかし世間の評価が一度定まると、ものごとの陰翳は取り払われ、「うまい」「すごい」と云った賞賛一辺倒に陥ってしまう。そこからは、彼女の真の巧さも欠点も、経年の変化もすべて抜け落ちる。ここは、せめて同時代に生きたものとして、その襞をもう一度指でなぞりながら、彼女の歌の巧さの依って立つ構造や、他の歌手との違いを考えていきたい。


 まずは私自身の体験も交えた「言い訳」から始めてみる。

 実を言えば三十年以上前から「ちあきなおみは上手い」と思っていた。

 大学時代、確か昭和52-53年頃と思うが、後輩の女の子二人にどんな歌手が一番好きかと聞かれ、彼女の名を答えた記憶がある。ただそれだけのことで、話がそれ以上発展した記憶もない。なのにそんなことを未だに覚えているのは、聞いていた女の子の顔に何とも言えない表情の変化を見てとったからである。答えた後で気恥ずかしさから「だって上手いんだから・・・」と心の中でつぶやいていた。これが今時の女の子になら、もっとあけすけに「エーーー」とか「ゲッ・・・・」とか言われていたかもしれない。それを何も言われずに終わったあとの・・・・・・・・・そんな居心地の悪さである。

 実際のところ彼女たちの顔にそんな変化があったのかも定かではない。逆に私の気恥ずかしさが、勝手に読み取っただけかもしれない。しかし大切なのはどちらが真実だったかではない。当時ちあきなおみと云う歌手には、ストレートに好きだと言うにはどこかはばかられるある種の「奇妙さ」がつきまとっていた-----少なくとも私はそう感じ、それが世間に共通する認識でもあると考えていた----と言う事である。

再開

 やめると言っておいてまたノコノコ顔を出すのも気が引けますが、プロレスラーの引退宣言みたいなもので、結局また出てきたと云うことにさせて戴きます。

 気負わず、書くことがある時だけの不定期連載でなんとか続けていけたらと思っています。