常に上昇するベクトルは見る者を揺り動かし、あたかも広大な愛のヴェールで観客を包み共に上昇して行く神の救済のようである。この類まれな質感の極まりこそがアステアの動きを常に裏側から支え「上手さ」を形作る本質ではないか。
アステアはバレエなど他分野の踊り手から賞賛されることが多い。高い身体能力に裏打ちされたものなら反感や嫉妬も生まれようが、この質感はどれほど優れたバレエダンサーにもまねできず、まして競合もしない。
自分と同一平面で勝負していない相手に対しては人間素直になれるものである。
バレエのギエムやマラーホフといった人々と比べアステアが優れているのかという問いへの解答はそういうわけで難しい。比較する階層が違うからである。あえてダンサーとしての身体能力と技術、それによって表現される芸術性ということのみに絞れば、彼らの方が優れているのかもしれない。
しかし同じような人が今後現れるかという再現性の問題になると話は違ってくる。ギエムがどんなにすばらしくても百年に一人くらいは同じレベルの人が現れるだろう。それはバレエを学ぶ基礎人口がこれだけあり、訓練の方法が完成されているからである。つまり彼女はバレエの訓練の延長線上で優れている人に過ぎない。ミュージカルの踊り手でも話は同様である。
しかしアステアはどうか。現在のミュージカルやショーダンスの鍛錬や要求内容の延長線上にアステアの身体は存在しない(昔も同様だったのかもしれないが)。再来は偶然を待つしかないのである。
そこを考えるとスタジオシステム全盛期にどうして彼の活躍期がスッポリ収まったのか、その偶然は謎としか言えない。
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