2024年6月17日月曜日

ベッツィ・ブレア回想記6


 

  涙なくしては読めなかった。回想記の冒頭にこの文章を置いたことから、著者の怒りと悲しみ、ジーンへの愛情と過ぎ去った時間への愛惜がいかばかりであったかがわかる。

 これに対する未亡人パトリシアの反論は寡聞にして知らない。


 ジーン・ケリーの人生において重要な役割を担った女性たち

 

 

  



 

 

 

左から、秘書のロイス、ジニー・コイン、ベッツィ・ブレア、ジーン、キャロル・ヘイニー

カツラをつけていないジーンは珍しい。


2024年6月12日水曜日

ベッツィ・ブレア回想記5

 

1995年に訪問した際の別れ際にジーンは、古い友人テッド・リードを連れて翌日も来てくれないかと私に頼んだ。なのにジーンの妻は面会の約束を取り消した。ジーンにとって負担が大きすぎるというのが理由だった。

でも私の最後の訪問の間、ジーンは生き生きとしていて、楽しげだった。昔ながらの彼の魅力が、控えめな形ではあるが、すべてそこにあった。私たちは子供や孫、そして懐かしい日々について語り合った。彼は昔のジョークを持ち出し、笑わせた。別れ際、私は彼の頬にお別れのキスをした。そしてもう少しおしゃべりを続けてから言った。「もう一回お別れのキスをするわ」。ジーンは言った。「良いね、そういうのってちっともないからね」。車での帰り道、私は涙で前がよく見えなかった。それが最後の別れになるなんて、知るよしもなかった。ただ、最後の言葉が意味していたかもしれないことに耐えられなかったのだ。もちろん、24時間見守るための看護設備一式は整っていた。しかしそこには愛情も、喜びも、何の刺激もないように思えた。

50歳になってやっと私は大学へ通い、言語療法士になると、脳卒中の患者を相手にして働いた。ジーンに言葉や会話の障害はなかったものの、こういった病気の患者すべてには、愛情や仲間や会話が必要なのだ。ジーンは最後の時を迎えるまで、これらすべてを奪われていたと私は思っている。私には彼の未亡人を許すことができない。彼女が子供たちのための遺産のほとんどを自分のものにしたからではない。ジーンが彼にふさわしい幸せな最後を送れなかったと思うからだ。

ジーンが亡くなった金曜日の午後、ケリーとティムとブリジットはそれぞれ、ミシガン、ニューヨーク、モンタナで知らせを受けた。未亡人は、しなくてはいけないことがたくさんあるので、彼らを家に迎え入れることはできないと言った。三人が生まれ育った家にである。そのほかに来ていただく理由もない―――それですべてだった。彼らはとにかくビバリーヒルズに行きますと強く言わねばならなかった。その結果、三人が土曜の夕方6時に家に行くことがなんとか認められた。

だがその家で、悲しみをかかえた彼らは、それまでで一番奇妙な30分間を過ごすことになり、ショックを受けた。そこには友人もいなければ、食べ物も涙も抱擁もなかった。有名な人々から贈られた花が彼らに与えられたが、まるで三人が血のつながりもない人間であるかのような扱いだった。後にケリーは彼ら三人がどう感じたかを話してくれた。

「彼女は父を放り捨てたのよ。まるで焼かれて捨てられるゴミくずみたいに。灰さえ残っていなかった」。

彼を愛していた子供たちは父親にさようならを言う機会さえなかった。このことにジーンは悲しみ、怒っただろうと私は思う。彼が子供たちを深く愛していたからだ。彼は派手な葬儀はいらないという意思を示していた。でも私にはわかっている。父を失ったあとに抱く当然の感情を癒すための場所も与えず、子供たちを途方に暮れさせるつもりではなかったことを。

私は映画スターと結婚していてどうだったかについて回想記を書きたいとは思わない。皮肉を書き連ねるつもりもない。楽しい人生のダンスを踊ったのに、どうしてそんなことができるだろう。それより彼の子供たち、そして四人の孫たち ―― レベッカ、ベン、アンナ、シーマス ―― に伝えるために書くつもりだ。私が知っている彼の人生の時を、私がどうそこに加わったかを、そして次に起こったことを。

 

ベッツィ・ブレア回想記4

 

  ジーンは晩年、徐々に健康を害し、1993から急激に体力も衰えていく。一度目の脳卒中の発作は19947月、二度目の発作は19952に起こった。

秘書のロイス・マクレルランドは海軍婦人義勇部隊の出身。ジーンが従軍中に配属された写真・映画部門で知り合うが、その仕事ぶりに感心したジーンは、除隊後彼女を私設秘書として雇う。一時はジーン宅に住み込み、欧州行きにも同行するなど、家族同様の待遇を受け、献身的に働いた。その仕事は「帳簿付け、料理、運転、家庭教師、接客、ペンキ塗り、裁縫、買い物、子守からバレーボールの審判まで」多岐にわたったという。解雇された後、亡くなるまでの間、ジーンの子供たちが彼女の面倒をみた。

  1995年、たった三日間のロサンゼルス滞在だった。はっきり言っておこう、私のことだって誰も止められない。私はジーンに会うためにやって来たのだ。うまく会うことができたが、それは彼の新妻が私のことをどこか怖がっているせいではないかと思った。

 その二年前に私たちは会っていた。到着するやすぐに電話を入れ、いつもよりフォーマルな「金曜日の午後四時のお茶」に招待された。ジーンはチャーミングな新妻のことが自慢気だった。制服を着た家政婦が、美しいスポード焼きの茶器で我々三人にお茶を入れた。――小ぶりのサンドウィッチやフルーツタルトとケーキが添えられてあった。今はロンドン住まいの、最初の妻であるこの私に、ロサンゼルスにも洗練された生活があることを見せつけているのは明らかだった。

 でも私のカップが空なのを見た好々爺のジーンは、いつもそうしていたように父親やおじいさんの話をしながら、アイルランド訛りを交えて言った、 「熱いのを一杯どう、ハニー?」。 彼と私は懐かしさにちょっと笑い、私はお茶をついでもらおうとお嫁さんにカップを差し出した。彼女はそれを受け取らなかった。代わりにティーワゴンの上にある呼び鈴に手を伸ばすと、それを鳴らした。わずかな気まずい沈黙が私たちを包み、家政婦が台所からやって来てお茶をついだ。その時かつての妻としては、英国女王でさえ自分のテーブルにあるお茶は自分で入れると、この新しい妻に言えなかった。―――もちろん皇太后がいらっしゃる時を除いてである。

2024年6月11日火曜日

ベッツィ・ブレア回想記3

 

三番目の妻、パトリシア・ウォード・ケリーは、元ライター。1985年、26歳の時にジーンと出会い、回想記の執筆のために雇われる。1990年に二人は結婚するが、回想記が出版されることはなかった。

ジーンとベッツィの間に生まれた娘ケリーは、イギリスにいたアンナ・フロイトの下で修行をし、心理療法家となった。同じ心理療法家の夫との共著で児童や家族関係について多くの著作を発表している。

ちなみにアンナ・フロイトは、精神分析の創始者ジグムント・フロイトの娘で、児童精神分析の分野に多大な功績を残している。

 

 最初の脳卒中の発作によってジーンは入院した。当然、ケリーとティムは電話をかけ、愛情をこめて、心配しているとのメッセージを残した。ジーンにこの電話のことが知らされなかったのではないかと、二人は感じている。ブリジットは彼女が病院にいると「彼にとって邪魔になる」とまで言われた。しかし彼女は、到着したとき父親の目に喜びが宿ったことに気づき、毎日顔を出した。

体の半側に麻痺を残すことになる二度目の発作が起こると、慣れ親しんだものすべてが彼から遠ざけられた。50年にわたり秘書を務めたロイスは、もはや家の中で歓迎されない存在になった。鍵は換えられ、新しい家政婦が雇われたのだ。主治医もマネージャーも弁護士も解雇され、別の人に替えられた。電話をしても返事は来なくなった。数ヶ月にわたりメッセージを残した昔からの友人たちに、折り返しの電話がかかることはなかった。ジーンの具合があまりにも悪く、外部との連絡も絶っているのだろうと、彼らは想像した。

たくさんの人が、知っていることはないかと私に尋ねた。私が知っているのは、ミシガンに住むケリーから聞いたことだけだった。彼女はブリジットから報告を受けていた。ついには、ブリジットが面会の予約を取り付けるために立ち寄ることさえ禁ずると言いわたされた。だが彼女は母親であるジニーのガッツを受け継いでいた―――誰も彼女を止めることはできない。というわけで、とにかく彼女は押しかけて行ったのだ。

 きっと彼は哀れみなど望んでいなかっただろう。活発なスポーツマンであったあの男が、あのダンサーが、不自由な体になっているという思いもしない成り行きを、彼自身、理解していたと私は思う。彼は決して愚痴などこぼさなかった。

 

 

2024年6月10日月曜日

ベッツィ・ブレア回想記2

 

 ベッツィ・ブレアは19231211日、ニュージャージー州クリフサイド・パークの生まれ。19401月、コーラスガールのオーディションを受けるため、ニューヨークのナイトクラブ「ダイアモンド・ホースシュー・クラブ」へやって来た彼女は、人気のないホールで一人椅子やテーブルを片付けている青年に出会う。日程を間違え一日早く来たことを知った彼女が帰ろうとすると、青年は声をかけた。

「君はダンサーかい?」

「ええ」

「上手いの?」

「とっても」

  翌日オーディションに参加した彼女は、昨日下働きのボーイと思った青年が、ショーの振り付けを担当するジーン・ケリーであることを知る。彼女はケリーの口添えで合格できるが、仲を深めた二人は翌年9月に結婚することとなる。

 回想記本文に戻ろう

 

 シェリダン・モーリーとルース・レオンが書いた写真入り大型本“Gene Kelly: A Celebration” には、私が去りジーンが再婚した後の家で、生活がどう変わったかが描かれている。「ジニーはバレーボール・コートで繰り広げられる社交的な集まりや、際限なく続くジェスチャー・ゲームを好きになれなかった・・・・・まるで邸宅の周囲に高い塀が張り巡らされたかのようだった」

 1970年代の終わり頃、ジーンは“ビバリーヒルズ時報”のインタヴューに答えている。彼が語ったのは自分の仕事のことではない。愛情にどれほど恵まれていたかについてである。私やジニーとの二度の結婚、三人の子供が今どれほど人生の喜びになっているかについて語ったのだ。ブリジットとティムの子供時代、彼は二人に献身的に尽くした。その頃には、(娘の)ケリーは自身の人生を歩み、キャリアを築きつつあった。

 ジーンは死の数年前にまた結婚をした。子供たちは、とても若い新妻を父親にふさわしい知的な伴侶と思い、歓迎した。悲しいことに彼女は彼と子供たちを裏切った。彼女がジーンから大きなものを奪い去ったと私は信じている―――最初に彼のプライドを、そして生きる喜びを。最後に財産のほとんどを手に入れた。現実的な態度と、物事を見極める洞察力を備えたジーンが、うぬぼれの強い老人に変わり果てたなどと想像することは、私にはつらい。でも恐らくそうだったのだろう。若く頭の良い女性が、ただの愛情だけで自分を好いてくれていると信じ込む男は、彼に限ったことではないのだろう。