2024年6月12日水曜日

ベッツィ・ブレア回想記5

 

1995年に訪問した際の別れ際にジーンは、古い友人テッド・リードを連れて翌日も来てくれないかと私に頼んだ。なのにジーンの妻は面会の約束を取り消した。ジーンにとって負担が大きすぎるというのが理由だった。

でも私の最後の訪問の間、ジーンは生き生きとしていて、楽しげだった。昔ながらの彼の魅力が、控えめな形ではあるが、すべてそこにあった。私たちは子供や孫、そして懐かしい日々について語り合った。彼は昔のジョークを持ち出し、笑わせた。別れ際、私は彼の頬にお別れのキスをした。そしてもう少しおしゃべりを続けてから言った。「もう一回お別れのキスをするわ」。ジーンは言った。「良いね、そういうのってちっともないからね」。車での帰り道、私は涙で前がよく見えなかった。それが最後の別れになるなんて、知るよしもなかった。ただ、最後の言葉が意味していたかもしれないことに耐えられなかったのだ。もちろん、24時間見守るための看護設備一式は整っていた。しかしそこには愛情も、喜びも、何の刺激もないように思えた。

50歳になってやっと私は大学へ通い、言語療法士になると、脳卒中の患者を相手にして働いた。ジーンに言葉や会話の障害はなかったものの、こういった病気の患者すべてには、愛情や仲間や会話が必要なのだ。ジーンは最後の時を迎えるまで、これらすべてを奪われていたと私は思っている。私には彼の未亡人を許すことができない。彼女が子供たちのための遺産のほとんどを自分のものにしたからではない。ジーンが彼にふさわしい幸せな最後を送れなかったと思うからだ。

ジーンが亡くなった金曜日の午後、ケリーとティムとブリジットはそれぞれ、ミシガン、ニューヨーク、モンタナで知らせを受けた。未亡人は、しなくてはいけないことがたくさんあるので、彼らを家に迎え入れることはできないと言った。三人が生まれ育った家にである。そのほかに来ていただく理由もない―――それですべてだった。彼らはとにかくビバリーヒルズに行きますと強く言わねばならなかった。その結果、三人が土曜の夕方6時に家に行くことがなんとか認められた。

だがその家で、悲しみをかかえた彼らは、それまでで一番奇妙な30分間を過ごすことになり、ショックを受けた。そこには友人もいなければ、食べ物も涙も抱擁もなかった。有名な人々から贈られた花が彼らに与えられたが、まるで三人が血のつながりもない人間であるかのような扱いだった。後にケリーは彼ら三人がどう感じたかを話してくれた。

「彼女は父を放り捨てたのよ。まるで焼かれて捨てられるゴミくずみたいに。灰さえ残っていなかった」。

彼を愛していた子供たちは父親にさようならを言う機会さえなかった。このことにジーンは悲しみ、怒っただろうと私は思う。彼が子供たちを深く愛していたからだ。彼は派手な葬儀はいらないという意思を示していた。でも私にはわかっている。父を失ったあとに抱く当然の感情を癒すための場所も与えず、子供たちを途方に暮れさせるつもりではなかったことを。

私は映画スターと結婚していてどうだったかについて回想記を書きたいとは思わない。皮肉を書き連ねるつもりもない。楽しい人生のダンスを踊ったのに、どうしてそんなことができるだろう。それより彼の子供たち、そして四人の孫たち ―― レベッカ、ベン、アンナ、シーマス ―― に伝えるために書くつもりだ。私が知っている彼の人生の時を、私がどうそこに加わったかを、そして次に起こったことを。

 

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