2024年6月12日水曜日

ベッツィ・ブレア回想記4

 

  ジーンは晩年、徐々に健康を害し、1993から急激に体力も衰えていく。一度目の脳卒中の発作は19947月、二度目の発作は19952に起こった。

秘書のロイス・マクレルランドは海軍婦人義勇部隊の出身。ジーンが従軍中に配属された写真・映画部門で知り合うが、その仕事ぶりに感心したジーンは、除隊後彼女を私設秘書として雇う。一時はジーン宅に住み込み、欧州行きにも同行するなど、家族同様の待遇を受け、献身的に働いた。その仕事は「帳簿付け、料理、運転、家庭教師、接客、ペンキ塗り、裁縫、買い物、子守からバレーボールの審判まで」多岐にわたったという。解雇された後、亡くなるまでの間、ジーンの子供たちが彼女の面倒をみた。

  1995年、たった三日間のロサンゼルス滞在だった。はっきり言っておこう、私のことだって誰も止められない。私はジーンに会うためにやって来たのだ。うまく会うことができたが、それは彼の新妻が私のことをどこか怖がっているせいではないかと思った。

 その二年前に私たちは会っていた。到着するやすぐに電話を入れ、いつもよりフォーマルな「金曜日の午後四時のお茶」に招待された。ジーンはチャーミングな新妻のことが自慢気だった。制服を着た家政婦が、美しいスポード焼きの茶器で我々三人にお茶を入れた。――小ぶりのサンドウィッチやフルーツタルトとケーキが添えられてあった。今はロンドン住まいの、最初の妻であるこの私に、ロサンゼルスにも洗練された生活があることを見せつけているのは明らかだった。

 でも私のカップが空なのを見た好々爺のジーンは、いつもそうしていたように父親やおじいさんの話をしながら、アイルランド訛りを交えて言った、 「熱いのを一杯どう、ハニー?」。 彼と私は懐かしさにちょっと笑い、私はお茶をついでもらおうとお嫁さんにカップを差し出した。彼女はそれを受け取らなかった。代わりにティーワゴンの上にある呼び鈴に手を伸ばすと、それを鳴らした。わずかな気まずい沈黙が私たちを包み、家政婦が台所からやって来てお茶をついだ。その時かつての妻としては、英国女王でさえ自分のテーブルにあるお茶は自分で入れると、この新しい妻に言えなかった。―――もちろん皇太后がいらっしゃる時を除いてである。

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