2010年7月11日日曜日

レスリー・キャロン 自伝 その15 「巴里のアメリカ人 3」


 「必要なダンサーがすべて雇われると、リハーサルが始まります。舞踊指導のマイケル・パナイエフのもと、朝からレッスンが続きます。一つのシークエンスごと、初めは小グループで、上手くいけば全体で。」

 「ジーンはいつも参加するわけではありません。振り付けでとても忙しかったのです。セットの模型を使い、振り付けと巧く合うかを確認したり、ミネリと衣裳合わせに参加したりしていました。」

 「撮影日が近づくと関係者全員の前で私たちは最後のバレエを通しで踊りました。ミネリは、撮影監督のジョン・オルトンらとカメラアングルやレンズやクレーンについて打ち合わせ、音楽についてはジョニー・グリーン、ソール・チャップリン、アンドレ・プレヴィンらと話し合っていました。」         

 「先に録音された音楽に合わせて私たちは踊りました。ダンスナンバーは一度に一つずつ、ゆっくりと撮影されていきます。最後はガーシュウィンの交響詩『パリのアメリカ人』にのせ、十七分のバレエを撮影する作業が始まるのです。
 その間に作業場には巨大なセットが組まれて行きます。セットの一部分ずつが作業台の上に運ばれ、組み合わされて行くのです。飛行機を格納できるほどの大きな倉庫に、初めは背景描きの集団が、次には美術の人たちが集まって来ました。」

 「数ヶ月後、フィルムの編集が終わると ”スニーク・プレヴュー” です。当時はまだ路面電車がカルヴァーシティを通っていました。撮影所のお偉方から各部門の責任者や主演級の俳優が同乗した特別電車が1951321日、パサデナのクラウンシアターに向かいます。
 でも最初のプレヴュー はサウンドの問題のため、悲惨なものになりました。すぐに修復が行われ、二度目の プレヴューが別の会場で行われることになります。」

 「 プレヴューまでスタジオでは悲観的な噂が飛び交っていました。

 『映画の最後に十七分ものバレエなんて上手くいくはずがない』

 でも上手くいったのです。『素晴らしい』、『最高のミュージカル』と絶賛されたのです。バレエの終了時と上映後の二回、熱狂的な喝采が湧き起こります。私に対しても141名もの人がカードに『エクセレント』と高い評価をつけてくれました。」


 「二時間たって映画館を出ると、頭がボーっとしていました。ジーンに気分を聞かれた時、熱が出たせいでクラクラしているのだと思っていました。

 『私風邪をひいたみたい』

彼は笑って言いました、

 『ハニー、風邪なんかじゃないよ。生まれて初めて自分の姿をスクリーンで見たせいさ!』」


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