2010年6月13日日曜日

レスリー・キャロン 自伝 その4 「スクリーン・テスト」

 シャンゼリゼ・バレエ団に入団したレスリーは、当初からソロに抜擢されます。

  一般にバレエの世界では、初めはその他大勢として踊り、出世するにつれソロで踊る場面をまかされ、さらに主役をはじめ主要な役を割り当てられて行くのが普通です。このことから考えても、バレリーナとしての彼女が入団まもなくからどれだけ期待される存在であったかが明らかです。

 客席にはジャン・コクトーやジャン・マレー、アルベール・カミュといった人々の顔も見られ、文化的で洗練された雰囲気の下、彼女はバレエに没頭していきます。公演もヨーロッパばかりかエジプトやレバノンにまで及び、戦後の貧しい環境の中、貴重な経験を積んでいくことになります。

 さて、1949年(はっきり書かれていないが、前後の文脈から推定するとこの年。IMDbでは1948年となっている)、レスリー主演の”La Rencontre”を観たジーン・ケリーが、終幕後の楽屋を訪れます。ところが当時の彼女は幕が下りるとすぐ家に帰ってしまっていたので結局会えずじまい。翌年、約束を取り付けたケリーは彼女と会い、来訪の経緯----MGMで「巴里のアメリカ人」という作品を撮る予定であること。終盤に約二十分間のバレエシーンがあること。その相手役として、カメラ写りや演技を知りたいのでスクリーンテストをしたいこと。会社からはオディール・ヴェルソワ(マリナ・ヴラディの姉 )をテストする許可だけをもらっているので、こんな事をしたらクビになるかもしれないこと。----を告げるのです。

 初めて会うケリーに対し彼女は「優しく、信頼できる」人とその印象を語っています。

 実は、彼女への映画の誘いはこれが初めてではありません。イギリスやフランス(マルセル・カルネ!!!など)からもスクリーンテストの要請があったのです。この事実からだけでも、彼女が舞台でどれだけ魅力的であったかがわかります。

 しかし、当時のレスリーには映画への関心はまったくありませんでした。彼女にとって、バレエとクラシック音楽だけがあこがれの対象だったのです。それでもテストを受けたのは、母親を喜ばせたいという気持ちが大きな力になっていました。

  彼女の母は、バレエよりも映画の世界の方がレスリーにとって将来性もあり、長くやっていけると考えていたのです。


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